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エルトゥールル号

今年の夏、ふと手に取った絵本がこれだった。

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エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語
寮美千子/文 磯良一/絵  小学館

トルコが親日国だということは有名な話だが、こんな事件があったことは、知らなかった。
素晴らしい絵本で、実際に起こった海難事故を伝えているのだが、
子供向けとは思えない読み応えがあった。

こちらにこの海難事故の詳細が載っています。
http://dic.nicovideo.jp/a/%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ab%e5%8f%b7%e9%81%ad%e9%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6

ざっと要約すると

日本から明治天皇の甥が欧州を歴訪した折、オスマン帝国(崩壊後の一部が現在のトルコですね)も訪れた。
オスマン帝国の皇帝には、明治天皇から親書や勲章が贈られた。
このことへの答礼として「エルトゥールル号」が派遣され、「エルトゥールル号」は寄港した国々で歓迎を受けながら1890年、日本にやってくる。
「エルトゥールル号」は日本でも大歓迎を受けたが、その帰途、和歌山県沖で台風に見舞われ、乗員609名が嵐の海に割れた船体から投げ出されるのである。
冷たい海から生きて灯台へたどりついた船員が、この惨事を伝えようにも思うように言葉が通じない。
灯台守は近隣の村々に応援を要請し、村人たちは総出で乗員の救援に向かう。

多くの遺体が打ち上げられる中、生き残った69名のトルコ人も、重症者がほとんどだった。

言葉も通じない傷を負った異国の人々を、小さな村の日本人たちはどうしたか。

当時の和歌山県串本大島の村は、台風の影響もあって、自分たちの着るもの食べるものにも事欠く状況だった。
そんな状況でも、彼らは瀕死のトルコ人たちを必死で介護したのだ。

村人は少しだけニワトリを飼ってはいたが、ニワトリが産む卵を少し食べるためだけだった。
そのニワトリを食べてしまえば、自分たちは卵を取ることもかなわなくなる。
けれどトルコ人の命を救うため、彼らはそのニワトリをつぶし、供する。

命を助けられた船員たちは、国に帰った後、この話を長く語り伝えるのだ。


youtubeにこの海難事故とその後のイラン・イラク戦争下におけるトルコ政府の日本人救援について、動画がありました。




先日やっとの思いでハロウィンの雑踏を抜け訪れた先で、「これ、いいよ」と勧められた本がこちらだった。


「海の翼 エルトゥールル号の奇蹟」
秋月 達郎/著 PHP研究所

絵本も素晴らしかったのだが、更に踏み込んだ取材とフィクションとしての肉付けで現代に繋がるトルコと日本の絆を描いた「海の翼」。
こちらはエルトゥールル号事件そのものを扱った本ではない。
エルトゥールル号海難事故から100年以上もたったイラン・イラク戦争時の話である。

昭和60年、フセイン大統領がイラン領空の無差別攻撃を宣告する中、日本政府は現地イランに取り残された200名以上の駐在員やその家族などの日本人救出に手をこまねいていた。
日本人にとっては絶望的な状況の中、救出に手を差し伸べた国があった。
それがトルコ政府だった。

http://dic.nicovideo.jp/a/%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ab%e5%8f%b7%e9%81%ad%e9%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6
↑ニコニコ大百科(仮)よりこの経緯について一部お借りいたします。

イラン・イラク戦争における恩返し

このエルトゥールル号にまつわる話に関連して、こんな有名なエピソードがある。

1985年、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行った。これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、その原則から救出のための自衛隊を送り込めなかった(なお現在は自衛隊法が改正されており、限定的に派遣が可能となっている)。
ちなみにこの時、自衛隊派遣に反対したのは当時の最大野党であった社会党、現在の社民党である。
さらに民間の日本の航空会社も、イラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとした。
これもまた組合に所属する共産・社会党の面々が社内で猛反対したためである。
かくなるうえはと各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せているような余裕はなかった。

こうしてイランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えるしかなくなっていた。
イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続け、やがてトルコ大使館に辿り着いた。もしかしたら要請をしていた本人はまた断られると思っていたかもしれない。

だが、当時のトルコ大使イスメット・ビルセル氏(İsmet Birsel)は、

「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」

と答えて要請を快諾。実際にトルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やした。そのうえでトルコは自身の国民も苦難を抱える中で、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたという。それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時のことだった。
当然乗りきれなかったトルコ人が出てくるわけだが、トルコがイランからそれほど遠くなかったことから、彼等は陸路を自動車でイランから脱出したという(その数なんと日本人の倍の約500名)。

日本のマスコミは、当然そんなことなど知らないので一様に首を傾げ、朝日一部の新聞社に至っては「日本が対トルコ経済援助を強化しているからでは」という当て推量(つまり「これで恩を売った事にする気ってことかwwww金目当て乙wwww」という意味である)を紙面に載せる有様だった。その後、1992年から '96年まで駐日大使を務めたネジャティ・ウトカン氏(Necati Utkan)は、産経新聞のコラムにて1世紀近くも前の出来事を採り上げたのだ。

ただ一言、「我々はこの恩義に報いただけなのです」とのみ伝える為に。



この本を貸してもらったので、早速読みながら、何かほかに情報はないかと探していたら、来月映画が公開されるというではないか。
http://www.toei.co.jp/movie/details/1204606_951.html
<日本・トルコ合作映画>海難1890
2015年12月5日(土)公開

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日本人は、自分たちのことをよく知らない。
自らのよって立つところを、伝える努力を怠っているのではないか。

映画化されたことがとても嬉しい。




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Comments 2

yuccalina  
1

おはようございます。
私は夫が和歌山出身でして、新婚旅行はレンタカーで和歌山を巡りました。その時にガイドブックを見てたら、トルコ人の墓ってのがあるよ、となり、実は昔海難事故があって、と知ったのが17年前でした。
確かに当時、この話を知ってる日本人は少なかったと思います。トルコとの合作映画、楽しみです。

2015/11/04 (Wed) 08:12 | EDIT | REPLY |   
mikaidou  
Re: 1

yuccalinaさま

おおっ!
ご主人さまは和歌山のご出身でいらっしゃいましたか!
この本を知った経緯や、映画化を知ったことなど、
偶然が重なった幸せに、ちょっと興奮して急ぎアップしてしまいました。

30年近く昔の話ですが、イギリス留学から戻ってきた友人が
「留学生の中でもトルコ人って、すごく日本人に親切なんだけど、
日本人には親切にしなさいって、教わったんだって。なんでだろうね。」
と言っていたのを思い出しました。

こんな理由があったとは、知る由もありませんよね。

本の方は、商社の社員が主人公で、イラン・イラク戦争下の緊張感でドキドキでした。
あの時に起きたことの理由が、100年前に遡るだなんて、
すごい話ですね。

2015/11/04 (Wed) 19:22 | EDIT | REPLY |   

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