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自らを語る

たとえば、人の書いた物を読み語る人がいる。

読み語りは、作者の意図をそのままに、一言一句変えてはならぬとよく言われる。
大げさな声色を使うことも良しとされない事がある。

勿論読む本の内容、語る相手の年齢にもよるだろう。

すると、それは表現ではないのか。
ただ本を読んで聞かせるという行為は、聞いている人に作品を紹介していながら、その人自身を表していないのか。

私はそんなことはないと思っている。
どんな本を選び、どの部分を読み語るのか、それだけでも、その人となりがわかると思う。

でも実は本の場合、そこに作者がいる限り、読み手の声は作品を伝えるツールでしかない。

今更だが、私は某国選手の演技は、そこまでのものだった、と今見ても思う。
ウィルソン嬢がひねり出したものを再現するツールではあったが、それ以上にはなりえなかった。

昔囲炉裏端でお爺さん、お婆さんがしてくれた『伝承話』はそれとは違う。
それは心を込め、知恵や願いを伝えようとする、その人その人の語りであったろう。
その語りは経験値であり、自分たちの生きざまがその話に盛り込まれる。

そこに語り手の内部にまで聞き手が入り込んでしまうかのような精神的交流が起こる。



フィギュアスケートは音楽に合わせ、技術の限りを詰め込んだプログラムを『表現』する。
おなじ音楽、おなじ振付を滑っても、必ず一人一人違うだろう。

決められたエレメンツを、どれだけ間違いなく再現できるのかということはスポーツで点数をつけられる限り最重要ではあるだろう。
エッジも回転も、『ただしい』ことは良いこと、とされる。

フィギュアスケートは確かにスポーツだが、では人の心に残るのは、『正しいエッジ、わずかも不足のない回転のジャンプ』だろうか。

スピンのレベルが取れているから美しいと思うのだろうか。

もうひとつ言えば『高得点』を出したから、『正確で、技術も高く、心に残る演技』だったろうか。

浅田真央が素晴らしかったのは、高い技術をできうる限り正確な技術で、しかも完全に音楽をものにしながら、見るものに訴えかける何かを放ったからだと思う。

音楽と振付、技術を正確に、浅田自身の『語り』として、それでも彼女そのものを過剰に押し出すことなく、再現した。

こんなことは奇跡に等しいと思う。

彼女は演技を再現するだけの道具にはならなかった。

作曲家や振付師、コーチがいたとしても、あの演技だけは、彼女のものだった。

彼女が『もがき苦しむ芸術家』と称賛されたのはバンクーバーの後だったが、あの『鐘』をも超えた演技を、4年後にやり遂げた浅田を、1年たってもブログに取り上げる人が多いのには、やはりちゃんと理由があるのだ。




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Comments 2

sona  
美しいものの力

今月末で仕事を辞めます。

この1月半、連日残業に次ぐ残業。慣れないうえに責任のある仕事で心身ともに疲れ果てています。

動画を観ました。真央ちゃんのNHK杯のラフマと高橋君のAOI。

なんという美しさ。我を忘れて見入ってしまいます。

美しさは理屈ではありません。

けっして点数で優劣を競ったりなどするものではありません。

こんな私を救ってくれるもの。美しいものの力は偉大なのです。

2015/02/22 (Sun) 00:33 | EDIT | REPLY |   
mikaidou  
Re: 美しいものの力

sonaさま

お仕事、本当にお疲れ様です。

「こんな私」と、私自身も良く使う言葉ですが、
「こんな」ではないと、ハッとさせられました。

sona様は「こんな私」ではなく、「私」だと思うのです。

美しい演技に救われるのは、「こんな」だからではなく、「わたし」だから。

疲れ果てた自分に価値を見いだせない時、辛い時を、「美しいもの」で蘇らせる生き方は、素敵だなあ、と思うのです。


2015/02/22 (Sun) 11:04 | EDIT | REPLY |   

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