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花子さんの弁明

村岡花子さんの人となりを知るために、良い本ではないかしら?

村岡花子エッセイ集 「曲がり角のその先に」 河出書房新社
様々な新聞、雑誌に寄稿された花子さんの文章を集めたエッセイ集。

NHKの朝ドラ「花子とアン」。
大好きな二人の物語がどのように交差するのかを楽しみにドラマを見ている視聴者は私ばかりではあるまい。
ところが、このところ、どうも様子がおかしい。
徐々に話のほころびが大きくなり始めたような気がするのは私だけ?

このドラマのタイトルロールの「アンのゆりかご」は最初、「原作」と書いてはいなかったかしら?
それが、今朝確認すると「原案」になっている。
そりゃ、そうだわよね。
辻褄の合わないことばかり。

どう考えても、脚本を書いた方は物事を端折って書くにも、大切なところを落とし過ぎてはいないかしら。
アンのセリフをいいように持ってくるばかりではこのドラマの主人公である花子さんの人となりが行方不明で意味不明。
疫痢が怖い伝染病だってことも、これではちっとも伝わらない。
震災の時といい、疫痢といい、なんだか、・・・・。

そこで急ぎ、このエッセイ集「曲がり角のその先に」を読んだ。
たかだか一冊。されど一冊。
この一冊で村岡さんのことが分かった気になっては失礼というものだけれど。

花子さん、きっと天国でおっしゃりたいことが山のようにおありでしょう。
実際、本ばかりでなく映画も大好きだったと沢山書き残されているようだが、ディケンズの「オリヴァ・ツイスト」の映画について、書かれた一文の最後にはこうある。

映画化された「オリヴァ・ツイスト」を見て、「やっぱり傑作の映画化はいい」その感銘を深くした。
そしてこの点において私は英国映画企業の努力をことに買うものである。
チャチな、一夜作りのシナリオからの映画には娯楽性さえ私たちは発見しえないのである。



このドラマはほとんど創作に近いまでに実際の村岡花子の人物像を根本からドラマの都合の良いように作り変えてしまっている。

彼女の人間性の根幹がどのようにして作られたのか、どのような教育の元に育ったのか、大切なルーツが植え替えられてしまっては、ここにきて破たんをきたしても仕方ないかもしれない。

花子さんはまず、山梨生まれの東京育ち。東洋英和に入る時には、一家で東京に引っ越していたそうだ。
ベースがそもそも違うのに、「こぴっと」はないかもね。

白蓮が絡むと確かにストーリーは俄然面白くなる。
だけど、白蓮が花子に及ぼした影響、友情の絆は今ドラマに描かれるそこじゃないと思うわ。
局や視聴率が絡んだのか、白蓮人気が影響したのかはわからないけれど、やはりこのところの「身内より白蓮」には無理がある。

白蓮は、学生時代に英国文学には親しんでも、日本文学と日本語に対して勉強が足りないと自覚した花子に、自分の和歌の師を紹介している。
白蓮の大きな功績の一つ、花子への影響はここにあると思う。
花子が長けていたのは「翻訳」だったが、彼女自身は小説を書きたかったと記している。
それでも翻訳家としてこれほどの評価を得たのは、彼女自身が単に英語に強かっただけではない。
日本語を学校外で学び続けたからだったと思う。
白蓮に紹介されて以来10年余りにわたり、花子はこの和歌の師匠の元で、古典文学と和歌を中心に講義を交えて様々なことを学んでいる。
師匠は、花子に当時の外国文学の古典だけではなく、新しい作家の本を読むように薦め、翻訳者としても活躍した片山廣子さんも紹介したのだ。
この一連の出会いの連鎖が翻訳家村岡花子の土台を作ったと私は思う。
彼女は英語をはじめとする外国語を学ぶことで「心の窓」が広く開かれると語りつつ、同時に美しい日本語を熱愛していると述べている。
その日本語への情熱は、和歌の師匠に森鴎外翻訳の「即興詩人」を薦められたころから、「翻訳文学」の美しさに目覚め、「翻訳すること」へと移行していったのではないか。

英語に関しては筋金入りだったと思う。
小学校卒業から後の、東洋英和での学生時代のほぼ10年間を、英国文学を読んで育っているのだ。
さらに西洋人の先生方と生活を共にしたことで身近に海外文化に触れている。
ここに編まれたエッセイのあちこちに、彼女の受けてきた「教育」がどれほど彼女を支え、育て、その「教育」を自身が超えたところで実を結んだかが伝わる。

ラジオ番組の仕事を終え建物を出た瞬間、昔学校で歌った歌がふとよみがえり、その英語が口をついて出て来たという話があった。

In this world of darkness
We must shine,
You in your small corner,
And I in mine.

-暗きこの世を
我等は照らさん
君も我も
小さき片隅にて



この簡潔な日本語の詩と、英語の詩が同時進行で出てくるという素晴らしさ。
英語も歌なら、日本語になっても、ちゃんと歌だ。
普通の人ならこうはいくまい。

村岡花子の文章にはなかなか硬質なものを感じる。
彼女は静かな反骨の人だったと思う。
向田さんや曽野さんや、おせいさんや愛子さんを散々読んだ年代には、この「一本筋の通った」感じが懐かしい。

全く違った意味で「筋が通っている」ポンちゃんシリーズや遅咲きの美女「マリコ」の軽い読み物を手元から離せなかった頃もあったが、彼女たちとは似て非なるものがずっと上の世代の物書きの女性たちにはある。

花子はあの時代にカナダのメソジスト派教会の流れで高等教育を受けた女性であり戦前戦後を生き抜いた筋金入りの「職業婦人」。
しかも学校で、祈りの場で、アルバイト先の上流階級の家庭で、見聞きするものに懐疑的でもあり、様々な感情が渦巻いていた心の中の情熱を、すべて読書に注いだからこそ人並み以上の英語力が身についたのではないかしら。
硬派なのだ。
NHKの「花子さん」に、その反骨精神はあまり見えない。

当時困難を極めたであろう女性の自立と、戦争や病が家庭の主婦に及ぼす悲劇の数々は「アン」と作者のモンゴメリも同じだった。
アンの生活を少女たちの夢のように、プリンスエドワード島の美しさだけを憧れのように語っていた松坂慶子の番組がNHKで以前放送されていたけれど、私にはさっぱり理解できなかったわ。
アンの輝きは、それ以外の煩わしい狭い村の中の些細なようでいて、心を傷つけられるいくつもの出来事の中に、喜びを見出した一瞬の積み重ねだったと思うのだけど。
だからこそ、そこから解き放たれた大学時代のアンは、あんなにも伸び伸びと美しかったのではないかしら。
結婚して最初の子の死産、戦争、息子の戦死。
アンの娘リラの話に移る頃には、アン自身も様々な経験を経て、「想像の翼」だけでは乗り切れないほどの困難を超えてきた。

花子とアンのシンクロする部分は本当に多い。
その重なりは、「想像の翼」というより、彼女たちを取り巻いていたものから、彼女たちがいかに自分の考えを持ち、生きていったかの共鳴だったのではないかしら。

ドラマがこの先、どんな方向に走っていくつもりなのかはわからないけれど、花子さん、天国で苦笑いかも、と思ったので、ちょっと本の感想を書いてみました。
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