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ブラッドベリかく語りき

『華氏451度』【新訳版】レイ・ブラッドベリ著/伊藤典夫訳/早川書房

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新訳版は文字も少し大きめで読みやすかった。
引越しの諸々で持っていた本をどうしても見つけられず、買い直したのは正解だったかも。


さて、wikiによれば

ブラッドベリ自身は『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊』と2007年のインタビューで述べている



『華氏451度』のディストピア世界に、家族がそこに腰をかけ、夕暮れを愉しむ玄関ポーチは存在しない。

人々は情報を数字として認識し、それだけを覚えることでまるで自分が何かを知っていて物事を考えているように錯覚させられている。
受験戦争によってふるいにかけられる子供達はまさにそのように育てられる。これはやはり今の話だ。

この本の中の人々は物事を関連付けて考える事はしなくなり、物事の本質を表層でしか捉えられなくなっている。

今で言えばフィギュアスケートのOP金メダリストのファンが、その選手の演技後に黄色いぬいぐるみをリンク一面に投げ入れることへの批判を『浅田真央の時にはレゴがそのままリンクに投げ入れられていたのに自分達だけ批判されるのは我慢ならない』と言いたてる、そのありように似ている。

数字や画像の点と点を見ては『わかっている。知っている。』気になるのだ。

問題は自分達の都合ですり替えられる。
投げ入れの是非より、そのことによって引き起こされた他の選手のウォームアップへの影響を問題視されているのに。

この人達は物事にはそこに至る経緯があり、『事実』は切り取った画像や都合の良い伝聞によっていとも簡単にでっち上げられることを無視して憚らない。映像に残された『事実』は必ずしも『真実』とは限らないのに。
でも彼らにとってそれは心地よい伝聞であり、認めたくない事は受け入れられないのだから仕方ない。

さてそのような大衆の行き着く先を、ブラッドベリはどのように描くのか。


感受性を刺激するものは排除され、悲しみや痛みすら感じることのないようにターゲットにされたのが本。
歴史を繰り返すように焚書が行われるようになり、そのためのfiremanは消防士ではなく昇火士となった。

ここで面白いのは昇火士のターゲットにされるのが全ての本ではないという事。

コミック、或る種の雑誌、快楽を呼び起こすものは残されるのだ。

その代わり真っ先に焼かれるのは聖書に哲学書、古典と呼ばれる小説、歴史書。

本書の主人公昇火士のモンターグは妻のミルドレッドと暮らしている。

子供は面倒なので持ちたくはない。
ミルドレッドは日がな一日四角い箱と化したリビングの壁に映し出されるテレビの出演者と語り合い、劇を演じ、夜には睡眠薬自殺を図る。

この世界の焚書がこれまでのそれと違うのはテレビの存在があるからだ。

無味乾燥な四角い箱と化した家のリビングの壁四方はスクリーンとなり、一日中テレビ(文中では親戚連中とさえ呼ばれている)の中から設定済みの自分の名を呼ばれ、心地よい事しか与えられなくなっている。

そんな世界である日、主人公モンターグはクラリスという少女と出会い、自分が幸福でないことに気づく。

彼は昇火士一家に育った。純粋培養されたと言っても良い。
モンターグはクラリス、本と共に焼かれて死んだ老女や、学者のフェーバー、そして広野に住む男達に出会って行くことでこのディストピアの歪みをはっきりと知っていく。それまでに自分が一冊二冊と昇火活動の際に盗み貯めてきた本の意味を知りたいという欲求に抗えず、ついにその思いが爆発する。

モンターグの視点で語られる以上中々気がつかないが、実のところモンターグ以外の昇火士、ことに上司のベイティー、夫が戦地に赴く妻の友人、彼らは皆心の奥底に触れてはいけない『悲しみ』や『感受性』を持っており、それをあえて手放している。幸せだけを追い求め、その結果の今を受け入れている。
だから昇火士仲間は本をくすねるのは昇火士が1度は通る道だと言い、妻の友人はモンターグが読んだ詩篇に突然泣き出してその場を去ったりするのだ。

ところがモンターグは逆だ。
彼は最初からこのディストピアの住人であり、その世界しか知らない。
こののっぺりとした均一化された幸せだけの世界は妻ミルドレッドの容姿そのものだ。
その妻と、少女クラリスは何と違うことか。

モンターグが求めていたのは妻同様に幸福だった。
でも彼が求めた幸福はリビングの壁には無く、外の空気、もしかするとクラリスが差し出したタンポポにあったのかもしれない。

彼の逃避行は実に都合よく、逃避行のスリルそのものにブラッドベリの興味は無い様に見える。
車はどれもビートル、ワイヤレスイヤホンは『巻貝』と呼ばれるのに、ロボットの猟犬は時にスズメバチ。
物の呼び名さえその悍ましさを伝えるのなら、いつか原書で読みたい。

このディストピア世界で、本当に怖くて危機感を覚えるべきは『本』を読まなくなる大衆とそれを燃やす行為そのものではない。
人が人や自然に無関心になること。メディアの供する都合の良い、刺激的な情報、映像、音によって。

それをわかりやすく伝えるヒントは訳者あとがきにあると思う。
新訳版、訳者あとがきはとても興味深く、旧版を解説した福島正実氏の言葉の引用には感激。

『もちろんそれは、イデオロギッシュな怒りではなかったーというより、ブラッドベリの芸術至上主義的な資質は、マッカーシズムの持っていた盲目的、狂信的な反知性主義を許すことができなかった。』



更に福島氏は、『華氏451度』アメリカ本国初版巻末にあった作者ブラッドベリの言葉を書き記している。

長くなるので引用は控えるが、1953年に書かれた本書は作者によれば四、五十年先の世界を描いているつもりだったというのだ。
まさしく今の話だ。
けれど、1950年初頭、ビバリー・ヒルズの1組の夫婦連れが犬を連れ散歩している姿に、すでに作者は危機感を募らせていた。
妻の耳に差し込まれたラジオのイヤホン。
ブラッドベリはその妻をこう描写していた、と福島氏は訳してくれる。

(夫と散歩しながらラジオを聴く妻は)『夢遊病者よろしく、いないも同然の夫に腕を支えられ、歩道の縁石づたいに上がったり下がったりしている。これは小説ではない。われわれの変わりゆく社会に新しく生まれでた現象なのだ。』

そして『未来を描くには大変なスピードで書かなければならない、未来は立ち止まってはくれないぞと思った』と結んでいる。

あとがきや解説は、私にとって答え合わせの様なものだ。

私に伝えられた本の呟きが決して空耳ではなかったことを教えてくれる。

今回もあとがきのブラッドベリの『散歩する夫婦』の描写の中に、自分がミルドレッドの成れの果てであることを『正解』と言われたようなものだった。

『焚書』という行為ばかりに目が行きがちな本書だが、『昇火』は愚かではない不死鳥、人間の生まれ変わる姿でもある。
燃やしても燃やしても、人間が存在し続けるかぎり、記憶に刻まれてゆく本の中身は、不死鳥の如く蘇る。

何と、美しい小説であることか。



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