2018
02.02

古典はにがて。

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やっぱり古典は苦手です。
現代語訳している作家は皆一様に、『ぜひ原典を味わってほしい』とか書いてますし。
実際ここまで読んできた現代語訳はめちゃめちゃ話は面白いんですが、語り口的には物足りず。
かといって橋本治氏の『絵本 徒然草』では濃すぎます。


『転校生』⇒『君の名は。』⇒『おれがあいつであいつがおれで』⇒『とりかえばや物語』⇒田辺聖子

田辺聖子⇒『古典の森へ』⇒『永井路子の方丈記 徒然草』⇒『四畳半神話大系』

こんな感じで続いているんですが。

これとは別に、落窪物語は漫画の出来が(編集の仕方が)思いのほか良くて大いに楽しみました。
でも『方丈記』は永井さん版で。


1方丈は京間の四畳半の1.12倍程の広さとWiki先生に書いてあります。
で、四畳半の部屋そのものは室町時代にできたとも。

『仏教においては方丈に全宇宙が内在しているという考え方が生まれ、そこから寺院の住職が生活する建物を特に方丈と呼ぶようになった。』

これこれ、まさに『わたし』が言う所の四畳半の宇宙世界。
そこに『薔薇色のキャンパスライフ』を『並行世界』で繰り広げるという、何という下鴨ワールド。
鴨長明が自分の終の住処の東西南北をどのようにしつらえたか書き記したように、森見の主人公『わたし』も『八十日間四畳半一周』の章で、北側のドアから自分の宇宙世界を説明します。

方丈記は天変地異におののき、政治的にも揺らいだ時代。
ここで綴られていく前半は特に災害の歴史のよう。

鴨長明が『住処』をどんどん身軽で小さなものに住み替えていき、やどかりだったか、生き物でさえ大きな貝は選ばないとか例えているんですが。
経済的な困窮、大火、風、遷都に伴う政治の危うさ、飢饉、地震の恐ろしさをすべて経験した上で、

『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 』


という境地に達しているんですね。

着るもの、住む場所、住む家の造りでさえも身の丈に合うだけでいいと。

実はこれと同じことを、熊本で地震にあった友人が言っていたのです。
台所で食器棚から落ちて粉々になった食器類を目の前にして、
憑き物が落ちたように物欲がなくなったと。
『もう、綺麗な食器を買いなおしたいとか、そんな気は起らない。
あれを見たら、物なんて、いるだけあればいい。』


同じ本に収録されている永井さん版『徒然草』にも、同様に、身の丈に合わない大きな住宅に住むことに、チクリと釘を刺すようなことが書いてあるのが面白いんですね。
断捨離とか、ミニマリズムとか、今も言っているようなことを1000年も前から人は言っている。
そう思うと、自分も年齢と共に同じようなことを思うようになったことも、『ま、普通のことなんだわな』と思ったりするわけなんです。



仏教と古典文学は切り離せないものだと、キリスト教とキリスト教世界の文学同様に感じます。
物事の感じ方、考え方、道義の持ち方が『無常』であったり、『許し・贖い』であったり。
先日観た新しい『オリエント急行』の映画からはそこが切り取られていたのです。
あれでは何故ポワロが彼らを見逃すことにしたのか、彼の正義との葛藤・苦しみが感じられません。
そこが私には受け入れがたい部分だったのだと改めて思います。


話がそれました。
方丈記で胸にしみた部分は
『勝地は主なければ』。

抜粋すると

『またこの山の麓に、一つの柴の庵がある。これは山守のいるところで、ここに少年がいて、ときどき私をたずねてきてくれる。退屈しているときは、彼を友としてあちこちを歩いたりする。彼は十歳、私は六十歳、その年の差は大変なものだが、心はひとつ、楽しみを共にするのである。』

『永井路子の方丈記 徒然草』より

原典ならまたさぞかし味わい深いのでしょうが、10歳と60歳が一緒に野遊びに興じ、山から景色を眺め、『楽しみを共に』するという章です。

教えるでも教わるでもなく、世代を越えて『共に』楽しむ。
人生も終わりに近づいた鴨長明が、最後に住んだ山の庵で誰に気兼ねもなく伸び伸びと、
けれど時に寂しさも感じつつ送る日々。
そこに添えられた一輪の花のような美しさ、10歳の子。


田辺聖子『古典の森へ』はこれぞおせいさんと言うべき、いつまでもずっと読んでいたい語り口。
実際、工藤直子がインタビューを書き起こしたものですが。

この『古典の森へ』で紹介される古典は全部どれもわかりやすく語られて、読みどころなんて『へえええ』と唸るばかりなのですが、その中でも『古事記』に関連しておせいさんが大好きな宝塚で舞台化された自らの作品について語っている部分が作家としてのマジ話になっていて面白かったんです。

『隼別王子の叛乱』を書くにあたって、『古事記』から近代小説にするには〈文体〉を手に入れなければいけない。
中略
この小説には沢山の人物が登場しますが、これを、普通の文章で書こうとしても素材に負けてしまうのですね。
中略
で、ひとつの青春を手の中にとらえて書こうとしたのだけど、二十年前は、自分がまだ若く、青春はいわば同じ世代の問題で、目の前にあるとかえって、それをどう摑まえていいか分からないんですね。それが、自分が年をとってきたら、こんどは隼別に対する大王の目から若者をみられるようになった。つまり、青春をみられるようになった。』


『古典の森へ』田辺聖子・工藤直子/著より

古典の面白さに目を開かれると同時に、『かもかのおっちゃんシリーズ』とは一味違う、作家の凄みが垣間見える本です。
『文車日記』?でしたっけ?そちらも読みたくなります。

・・・が、私には『作家と楽しむ古典』、そして編者池澤夏樹が選び抜いた作家たちのめくるめく一番新しい『古典の翻訳』
『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』が待っているのでした。

作家が其々どんな『文体』を古典の中で作り上げるのか。
これ、本当に楽しみなんです。


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コメント
こんにちは~。

文車日記、面白いですよ。お茶を片手に、気軽に読めるので、今すぐでも。

私は古文好きなので、どんな作品も原文をぜひおすすめしたいんですが、随筆や日記は省略も多くて話がアッチコッチするし、読みやすいのは説話集だと思います。

起承転結があって、ええっ!?と思うようなすっとんきょうなエピソードがあったり、退屈しませんし、1つずつが短い。

宇治拾遺とか、今昔物語、時代の近いものでは耳嚢、なんてどうでしょう?

ぢょん でんばあdot 2018.02.05 11:35 | 編集
ぢょん子さま

おおっ!
さすがぢょん子さま!ありがとうございます。
語学全般苦手なのに、今頃こんな気になるとは不思議なものです。
『カルチャースクール』が今もあるのは、
こういう『気分』になる彷徨い人がいるからかもしれませんね^ ^
mikaidoudot 2018.02.05 17:57 | 編集
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