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2018
01.17

『かはたれどきの 薄らあかりと』

Category: 映画の話
お正月、あの映画『君の名は。』が地上波で放送された。


以下、個人の勝手な感想なので、
「勝手な思い込みやなあ」とでも呆れていただきたい。



本当なら私のような流行り物には懲りているおばさんがこれを観ようとするはずもなく、ゴリオのために録画していたのだ。

勿論若い人が観るものだと思っていたので小説版も読んでおらず、ゴリオのお小遣いでは『映画を2回しか』観られなかったという不平にも、『贅沢な!』とスルーしていた。

年末年始、CSでは大林宣彦監督作品が特集されていて、『HOUSE 』や『転校生』、『時をかける少女』を見たばかりだった。

大林監督作品同様、映画『イルマーレ』にも、萩尾望都の『みずうみ』にも、共通点を感じるSFではありながら、まさか泣いたことなんてない。


若くして大切な人を失う、このテーマは繰り返し使われる。

地震や災害は多くの年端もいかない子どもからお年寄りの身にも『喪失』を現実にしてきた。
戦後に生まれた私たちだが「大切なもの」がある日突然失われる、そこから完全に逃がれられてはいない。

みつはの住む町が彗星に破壊されたように、一度失ってしまったものがあるからこそ生まれる「取り戻したい」という渇望。
子どもならわけがわからず、大人なら諦めようともするだろう。
でもそうできないのが瀧の若さ。

だから彼らが主人公なのだ。と思う。

みつはと彼女が住む町を救いたいのは、観ている私たちも同じ。
瀧は言ってみれば誰でも良い、観るものが自分を投影する鏡。


『君の名は。』は、1回観たからといって全てがわかる映画ではなく、勿論それは一瞬の映像の中に多くの情報が入れ込んであることもだが、感情の振り幅や奥行きの深さを味わうには何度も観るべき映画だった。

監督本人がテレビ放送に先立って言ったように、映画の冒頭数分間に、作り手の思いの殆ど全てが凝縮されている。
冒頭の細切れのカットに、失った人や戻っては来ないものを取り戻せたら‥という切なる願いが込められている。

私がこの映画に泣かされたのは、紛れもなくこの映画がある種のTime Machineであり、映像を通して経験したことのない現象、行ったこともない場所、若さというそれそのものに、文字通りぶっ飛ばされたからなのだと思う。

エンターテイメントとしてあの映像を活かし切ったプロデューサーの川村元気にしてやられたことも間違いない。
川村元気は小説も勿論のこと何しろツボを押さえる『術』を知っている、実に嫌なタイプ😁

早速小説の『新海誠』にも会うことにした。
『秒速五センチメートル』の繊細さには映画を観ていなくても、やられた。


『小説 君の名は。』を映画製作中から書き上げてしまった理由を、新海誠はこう書いている。

この物語は『アニメーション映画という形がいちばん相応しいと思っていた』と前置きした上で。

『個人の能力をはるかに超えた場所に、映画はあると思う。
それでも、僕は最後には小説版を書いた。
書きたいといつからか気持ちが変わった。
その理由は、どこかに瀧や三葉のような少年少女がいるような気がしたからだ。
この物語はもちろんファンタジーだけれど、でもどこかに、彼らと似たような経験、似たような想いを抱える人がいると思うのだ。大切な人や場所を失い、それでも もがくのだと心に決めた人。未だ出逢えぬなにかに、いつか絶対に出逢うはずだと信じて手を伸ばし続けている人。そしてそういう想いは映画の華やかさとは別の切実さで語られる必要があると感じているから、僕はこの本を書いたのだと思う。』



メディアが良くも悪くもこれだけ影響力を持つ時代に、意外にも変わらない柔らかな何かを持ってクリエーターをしている人がいるんだなと驚いたと言えば甘いだろうか?
被災した方々が生きる今にも、問いかけるような物語。
だからこそこれまでの新海作品とは違って、きちんとハッピーエンドが見える結末で良かった。

この本に関しては、映画を観てから読むと尚良いと思う。
文字を通して頭の中に映像と音楽が一緒に流れる。
そこに小説版のナレーションを自分で入れ、もう一度言葉として彼らの気持ちを追うことができるから。



新海作品の主人公たちが実際には肝心なところで携帯で手軽に連絡を取り合っておらず、(時空がねじれてますんで無理な話)新海自身、映画製作と同時進行で小説化を進めていたことを考えても、作り手は『携帯後の世界』だけに向けて作品を作っていたわけではないことが伺える。

私は『SNS以降の世界』では、純粋なjuvenile小説は成り立たないだろうと思っていた。
これからはそれぞれの嗜好に合わせ、世代よりも嗜好によって、よりculture の方向性は別れていくのではないかと思っていた。
現代のように、これまでの作品が、特に映像作品がいつでも観ることのできるものになってからは。

それでもひとつだけ、岡田麿里の『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』を考えるとあれはやはり『juvenile animation』であり小説だとは思ったが。

大人になってしまってからでは入り込めない質の高い作品世界は、やはり今でもあった。

人生のどの時点で何(どんな作品)に出逢うかによってその人の人生の選択肢さえ変わってしまうように思える。
私が中学生の頃にハマった映画と、幼い頃初めて見た映画をあの当時、同時に観ることは不可能。
人生のどの時点でその作品に出逢うかは、選べなかった。

今は違う。
観たいと思えばどんな映像も映画も、子どもでも観ることが可能だ。
同世代とでさえ同じ文化を体験していないこともある。

それでも。
ジュブナイルでありながら、全世代に訴えかける映像と、叙情性。
映画の中で前面に出過ぎない音楽。
小説では繊細な気持ちに更に涙させる。
こんな才能があるのかと脱帽。
RADWIMPSと新海映画を居酒屋から電話一本で繋げた川村元気にも。

小説版の後書きに新海自らが書いているように、『映画と小説は別物』。
映画で描き切れなかった物足りなさを小説で補完している部分があったと。
成る程と思った。


萩原朔太郎の詩、『空いろの花』には、
「かはたれどきの薄らあかり」のひと時に、恋する男子の物想いに耽る様子が描かれている。

男性の方が、よほどロマンティスト、な気がする。

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