2017
03.11

沈黙の中の饒舌

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以下の日記は本の内容に踏み込んでいます。
キリスト教に関しては知らないことも多いので。
単に「沈黙」を読んだ感想を書いた日記ですのであしからず。
映画「沈黙」を観に行こうとは思わなかった。
映画を見ると、目に見える残酷さだけに気持ちが向いてしまいそうだからだ。

が、本は読み返してみようという気になった。



たまたま合わせて読むには丁度良い本を他にも見つけた。



遠藤周作/芸術新潮編集部編 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」 新潮社




遠藤周作 「沈黙」 新潮文庫 

「沈黙」の内容についてはwikiに詳しい。➡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99_(%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C)


嬉野純一 「わたしの好きな長崎の神さま」 長崎文献社

写真からAmazonにリンク。


 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」
主に「沈黙」と「女の一生」の小説の引用に、今も残るゆかりの地の写真と、遠藤が残した言葉の数々が添えられ、隠れキリシタンの足跡を小説と共にめぐるガイドブックのようなものになっている。
この本で一番ページを割かれているのは、「沈黙」中、ユダのような裏切り者、弱きものとして描かれる「キチジローの信心戻し」についてである。
遠藤に「沈黙」を書かせた「転び者の気持ち」に寄せる切々とした思いがコラムとして綴られている。
何度も現地に足を運び、「合わない服」のようにしっくりとこない信仰と自分の気持ちをじっくりと昇華させたのだろうか。

隠れキリシタンについて、実に詳細に研究を重ねた氏の創作の動機とは何だったのか。

本書36ページのコラムの最後には、「心弱きもの」への思いと共に、作中でも語られる「キチジローの言い分」ともいうべき踏み絵を踏み、棄教したものの苦しみを描くにあたり、

「それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである。」
 
「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」 新潮社  P36



と、書いている。

「女の一生」についてのコラムも、自分が若い日に読んで全く理解しえなかった小説を「今ならわかる」と思わせる細やかさ。

この本に掲載される数多くの写真は、私にとっては主に「狐狸庵先生」であった遠藤周作を、違う人物として認識させるに足るものだった。
不真面目でぐーたらな「狐狸庵先生」との遠い楽しかった日の読書の記憶は、偉大な作家の息抜きをそこだけ楽しんだ、という記憶になってしまった。

この年になっても、「大人になる」とは、かすかな胸の痛みを伴うことなのだ。


「沈黙」
キリスト教信者としての実体験を一度突き放して書かれた「沈黙」は、小説としてのテクニックも素晴らしい。

古い文献から史実を書き起こし物語は始まる。
遠景から徐々に小さな町に入って行き、
異教の地で煩悶する神父の心中にまで読者を入り込ませてしまう筆致の巧みさ。

小説を多重構造にし、当時の日本におけるキリスト教布教を巡る諸事情を俯瞰で見渡しながら、陰惨とも思える歴史の暗部を描き、同時にその根底を流れる「弱者の苦しみ」を、ロドリゴの目を、心の動きを通じて描く。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

「沈黙」 新潮文庫 P294



恩師フェレイラとロドリゴの再会の苦く詳細な描写。
紙に書かれた文字を追うだけで、自分がキリスト教迫害の最中に日本というアジアの小さな国に紛れ込み、人間として揺れ動く司祭の気持ちと同化していく錯覚を覚える。

髭を落としたかつての恩師のつるんとむき出しになった肌に淫猥だと感じる、このシーンをはじめ、神を説く司教の生身の人間としての感覚が一行たりとも無駄も無理もなく語られる。


フェレイラはこう言った。

「だが日本人がその時信仰したものは基督教の教える神でなかったとすれば・・・。」

「沈黙」 新潮文庫 P232



「デウスと大日と混同した日本人」
「屈折して変化させ、別のものを作り上げた日本人」

フェレイラの語る「日本人にとっての神」。
このシーンは圧巻だ。


フェレイラには彼らと日本人との間に横たわる「深い河」が断崖のようにはっきりと
見えていたのではないか。


物語の最後に向かい、長崎奉行が棄教した司祭ロドリゴに残酷に言い放つ言葉はフェレイラと同じものだった。

「パードレは決して余に負けたのではない」
「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」

「沈黙」 新潮文庫 P288



「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」

「沈黙」 新潮文庫 P290




残虐な拷問の果ての「死」に向かう信者を救うために棄教したのではなかったか。
ロドリゴが行ったことはキリストを信じるものたちへの愛の行為ではなかったのか。

ところが奉行は日本におけるキリスト教は司祭が信じるキリスト教とは異なるものに変わってしまい、すでにキリスト教信仰とは言えないものに「腐って果てて」しまっていると言う。
だからこそ山村の隠れキリシタンは一部見逃されているとも奉行は告げる。
苦悶の末棄教した司祭にはあまりに非情で残酷に感じられる部分である。



若い頃に読んだ時には、目を背けたくなるほど辛い話だった。
残虐すぎる。
拷問の手立ても、何もかも。

けれど、今回ロドリゴと一緒に葛藤、煩悶した数時間の果てに私が感じたのは、ある種の救いであり、カタルシスだったかもしれない。
棄教することによってロドリゴもまたキリストと同じ苦しみを得たのではないか。
彼もまた殉教者であり、自分の弱さという十字架を負って許されるも許されざるも、すべてを神に委ねた。

「自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。」

「沈黙」 新潮文庫 P295





「わたしの好きな長崎の神さま」 

カメラを携え長崎各地を巡り、そこここに点在する愛すべき「神さま」たちを撮った写真に、作者の優しい言葉が添えられた写真集である。

ファインダー越しに写す対象への愛があふれる。

読みながら知らなかったこと、驚くことが多く、何度も読み返した。

神さまたちのおわす場所を写した多くの写真と共に綴られているのは
「キリシタンを祀った神社」、讃美歌ならぬ「オラショ」と呼ばれる隠れキリシタンの「歌念仏」。

「神の島」には「えびす様」と同居する「マリア像」。

桑姫神社と呼ばれる神社本殿の扉の前にたたずむ「マリア像」。
しかもこれはキリシタン大名、大友宗麟の孫娘の碑。

長崎奉行の紹介で中国寺の崇福寺に居住した宣教師は、こっそりその寺で英語、漢文の聖書を教えたというからもうわけがわからない。

この本を読むとよくわかるのだ。
宣教師たちがその命をかけて布教したキリスト教が、いかに今もその地に根付いているかが。

そこには宗教宗派に対する線引きというものが見られない。

「沈黙」の中でフェレイラと長崎奉行が司祭に言い放ったことは、遠藤がこの地で見た現実だったのである。

司祭ロドリゴにとってあまりに残酷な奉行の言葉も、現在まで残されたこちらの「神さま」たちのあまりの優しさに「」となってしまう。

「まるでショコラのような」と称される小さな隠れキリシタンの教会。

「神さま」たちへの尊敬と愛しさに満ちた著者の目が、写真を通してなんと暖かく伝わることだろう。

「沈黙」を読んだ後だからこそ、この本に収められた「神さま」の姿に
余計にほっと救われる気がする。

後の世まで大切に神社で祀られるマリア像の清楚な白い姿。

それは宣教師たちが望んだ布教ではなかったかもしれない。

けれど彼らが遠い異国から運んできたものは今もこの国の一地域に溶け込み、教育として残り、尊敬もされ続けているということも事実なのだろう。

そこに意味がなかったはずはない。

ロドリゴには先に棄教したフェレイラが「自分は日本人の役に立っている」と言った時、それは偽りの慰めだとしか思えなかった。
けれど、それはある意味真実だったと思うのだ。

奉行が「泥沼」と評した国は、
実に賑やかに様々な神さまを包み込んだように見える。

たとえそれが、命をかけて布教した側にとっては、屈辱であったとしても。

日本人である私には、唯一絶対の一人だけの神さまはやはりなじまないのだろう。

写真集の中の神さまたちを愛しく眺めながら、
ロドリゴとは全く違う意味で、神は饒舌にその存在を長い長い時間をかけ、人々を通して示しているように思えて仕方がなかった。



追記

長くなるので割愛したのだが、やはり日記に書いておこう。

キチジローについて感じたことである。
キチジローは何度も棄教し、そのたびに司祭に許しを請う。
その姿にロドリゴは蔑みの感情を持つのだが、あくまでも司祭としての務めを果たそうと努力する。

一方奉行は狡猾な男で、信者たちが「キリスト」より「マリア」に、より心を寄せ信心していた様子を見て取っていた。
それを利用し、踏み絵より残酷ともとれる、「マリアへの侮蔑」を言葉で言わせ、棄教させるという手段をとる。

「キリスト」の男性性より、女性である「マリア」への敬慕の念が日本の信者には強かったのかどうかは本当のところはわからない。
ロドリゴはキチジローの信心戻しのたびに「何故これほど何度も許しを請いに来るのか」と思うのだが、その許されたい気持ち、特にキチジローのそれは、ほとんど「甘え」のように感じられる。
だからこそ卑しさを感じるのだが、いかにも母に甘えるかのように司祭を裏切り、また懲りずに司祭の元へ「言い分」を聞いてもらいに来る。そこに母性はないのに。
作者がそれを意図していたかどうかはわからないが、キチジローが求めたのは実は「母性」であったのに、キリスト教の司祭から返ってくるのは格式ばった「男性性」だった。そこにも実は「深い河」、もしくはすれ違いがあったのではないだろうか。

厳しく貧しい暮らしの中で、自分たちを救ってくれる神を信じようともがいた人々。
美しい自然、海の向こうに沈む夕日。

映画が現地で撮影されなかったことは残念至極だ。

沈黙の舞台は、母なる海に囲まれた貧しい土地だった。

あの自然の中で育まれた精神が、男性性より、より女性に近い(大日ゼウスは如来であろう)神を求めたのかもしれない。

そう思うと、ここで読んできた本への様々な思いが、すとん、と腑に落ちたのだった。
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コメント
こんにちは。

私も「沈黙」を購入し、これから読むところです。
がっ、今パラマハンサ・ヨガナンダの分厚い自伝を読んでる最中なので、もうしばらく後になりそう。

で、ヨガナンダの本には聖書の一文が多数引用されていて面白いです。インドではインドの神話にそって、キリストが理解されている!「大日とゼウスと同一視するのは屈折」となってしまうこと自体、私には、キリスト教徒の傲慢に思えなくもないですが、、。

遠藤周作氏にも影響を与えたという、ジョン・ヒックの宗教多元主義

キリスト教の「ゴッド」、ユダヤ教の「アドナイ」、イスラム教の「アッラー」、シク教の「エコアムカール」、ヒンドゥ教の「ラーマ」、若しくは「クリシュナ」は同一の究極的実在である<神的本体>に対する異なる名である。

からすると、日本でもインドでも、間違った捉え方とされてなかった気がします。

映画ではキチジローにイライラしつつ、共感も出来ました。これから読むのが楽しみです。
yuccalinadot 2017.03.13 09:33 | 編集
yuccalinaさま

こんばんは(*^-^*)

コメント嬉しいです♡

> で、ヨガナンダの本には聖書の一文が多数引用されていて面白いです。インドではインドの神話にそって、キリストが理解されている!「大日とゼウスと同一視するのは屈折」となってしまうこと自体、私には、キリスト教徒の傲慢に思えなくもないですが、、。
おお、ヨガナンダの自伝、面白そうですね!
「インドではインドの神話にそって、キリストが理解されている!」
これ、読んでいて感覚的にしっくりくるのではないでしょうか。

遠藤氏は「沈黙」で敢えて異国の司祭目線で作品を書くことでローマ教会、キリスト教文化圏と日本のキリスト教徒間にある「深い河」を描こうとしたのではと思いました。
それは自身が逆に「本当のキリスト教徒とはいえないのでは」と思っていたからこそなのではないかと。

3冊目の「私のすきな長崎の神さま」を読んでいると、日本人が森羅万象を何でもかんでも「神さま」に見立てているのではなく、森羅万象に対する敬愛から全てのものの中にそれこそ何という名であろうと、絶対の「神さま」を見出しているように感じるのです。
節操がないとかそういったことではないと思うのですよね。

>映画ではキチジローにイライラしつつ、共感も出来ました。これから読むのが楽しみです。
本でも「卑しく甘えた男」に思えちゃいましたんで、
私も映画のキチジローを見て、イライラしてみたくなってしまいました(笑)
mikaidoudot 2017.03.13 23:06 | 編集
再びお邪魔します(^O^)/

ヨガナンダ本から理解すると、インド哲学では、宇宙を構成してるすべてを原子(現代なら電子❓)レベルに細分すると、その一粒一粒に神が宿っていて、なおかつそのエネルギーを循環させているのも神の力なんだそうです。

部分と全体の相似性=フラクタクルの法則と符合しているのですね。

意外にも、インドにおいて神様はファンタジーよりも実践主義でして、ヨガもアーユルヴェーダも神との合一の方法論です。

神のエネルギーは脊髄の周りを巡ってるので、ヨガでは脊髄に良い刺激を与えるアサナ=ポーズが多いですし、

大地に宿った神の力を得るために、アーユルヴェーダでは地元でとれた旬の食材を食べるように勧めている。

等々、実はとっても理にかなってるんですね。

チャクラというエネルギーポイントが脊髄に沿ってあること、意思は脳だけで作られるのではなく細胞のひとつひとつにも意思があること、

と言ったインド医学の考え方も、現在の西洋医学で認められつつあるそうです。

そんな中でキリスト教の捉え方にも、徐々に変化が出てきてるのかもしれません。『沈黙』が発表された当初は、キリスト教側から、猛反発があったそうですが、今回の映画公開では、共感するキリスト教徒も増えてきているとか。
yuccalinadot 2017.03.14 09:03 | 編集
yuccalinaさま

> 再びお邪魔します(^O^)/>
いらっしゃいまし~(*^-^*)

> ヨガナンダ本から理解すると、インド哲学では、宇宙を構成してるすべてを原子(現代なら電子❓)レベルに細分すると、その一粒一粒に神が宿っていて、なおかつそのエネルギーを循環させているのも神の力なんだそうです。
> 部分と全体の相似性=フラクタクルの法則と符合しているのですね。
>
なんだかすごいワクワクするお話しですね。
内的宇宙と外的宇宙の両方を研究した麻田剛立を思い出します。

> 意外にも、インドにおいて神様はファンタジーよりも実践主義でして、ヨガもアーユルヴェーダも神との合一の方法論です。
江戸時代の天文学者であり医者でもあった麻田剛立が見た二つの宇宙も科学でしたが、それを考えるとヨガもアーユルヴェーダも「実践主義」だということにとても納得がいく気がします。

チャクラというエネルギーポイントが脊髄に沿ってあること、意思は脳だけで作られるのではなく細胞のひとつひとつにも意思があること、
と言ったインド医学の考え方も、現在の西洋医学で認められつつあるそうです。

恥ずかしながら最近、形だけなのですがヨガの真似ごとをしながら特に肩甲骨から背中に関するポーズを教わって身体をほぐしているので、自分の心身に意味のあることをしているとしたら、すごく嬉しくなります~~!

> そんな中でキリスト教の捉え方にも、徐々に変化が出てきてるのかもしれません。『沈黙』が発表された当初は、キリスト教側から、猛反発があったそうですが、今回の映画公開では、共感するキリスト教徒も増えてきているとか。
そうなんですね。私、このブログに感想書くだけでも、キリスト教の方にもしかして失礼にならなかったかとドキドキしてたんです。

今日たまたま同僚と「沈黙」の話をしていたのですが、イギリス系NZ人の彼は、やはり「唯一絶対の神」という考え方は自分たちには当然のことで、日本人は特殊だとは思うけれど、その「唯一」が他をを認めたくないということになって、更に争いの種になるのもなんだかねえ、などと話しておりました。

人間の細胞のひとつひとつを神が宿った宇宙だと考えると、私なんぞにはストンと納得できるような気がするのですが。

こんなお話ができるのもブログの楽しさですね。
コメントありがとうございました(^◇^)
mikaidoudot 2017.03.14 22:43 | 編集
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