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「キミスイ」

「キミスイ」と、呼ぶらしい。

「君の膵臓をたべたい」のことだ。

ゴリオ(仮名)のセンパイに本好きオタクがいるので、彼が遊びに来ると、
私もおススメの本を貸してもらえる。

ゴリオにだけしか見せない怪しげな本もある。
それも貸してよ、と言うと
「お母さん、これは勘弁してくださいよお~~( ;∀;)」と心底困った顔をされるが、
「いやいや、別におかしな下心はないのよ~~~」と
気持ちの悪い会話が今や小芝居と化している。

彼の薦める本には意外とハズレがない。

110キロあった体重が部活で20キロ減ったというが、
失礼ながらその体型で彼女のハートをガッチリと掴んでいるのは、
もしかすると彼の豊富な読書量と選書眼、その上に類まれなるプレゼンとコミュニケーション能力があるからではと、私は推測している。

センパイ情報によると、
流行った本は新人や押しの俳優で映画化するという世の流れに従って、「キミスイ」も来年実写化されるという。
早速ググった実写化情報には疑問だらけ。
何故12年後の思い出話に?
ダブルキャストにしたかったから?

ラノベではあるし、アニメ化の方がましだったかもしれないと思えて仕方ない。

さて、センパイに勧められて「キミスイ」を読んだ私は、驚いたことに泣いた。

元々この手の話は好きではないので全くそんな気はなかったのだが、なんでまた泣くのか?
よくわからないまま、ゴリオ(仮名)とセンパイの感想を聞いてみた。
2人の評価は同じ。
「最初と最後はすごくいいけど、中盤は現実味がなくて怠い。」

ふーむ。

そこで思いついたのが「いちご同盟」だった。

今私の手元にある「いちご同盟」は“三田誠広”の1991年集英社文庫版。
「君の膵臓をたべたい」は今年の本屋大賞2位に輝いた、“住野よる”のデビュー作。

両方とも、ざっくり言えば、学生が自分の好きな女の子を亡くしてしまう話である。

「いちご同盟」はその名の通り、一五(いちご)歳が結ぶ同盟。
「生きる」という、シンプルな、でも力強い同盟だ。
可愛いタイトルとは相反する男同士の約束である。

一方の「君の膵臓を食べたい」。
なんだこのタイトル?と最初は思ったが、確かに、このタイトルが全てを語っている。
グロいだけのタイトルかと思いきや、こちらも良い意味で裏切られる。


「いちご同盟」と「君の膵臓をたべたい」の間には、其々の主人公の年齢、15歳と17歳という年の差以上に、プラス四半世紀もの時代の違いがある。



以下は小説の結末としてはネタバレですので、
興味の無い方、またはこれから「君の膵臓」を読まれる方はスルーしてくださいませ。



「いちご同盟」の主人公良一と、彼が生きる現実には漫然とした「ばかやろう」が潜んでいる。大人はまだ反発の対象であり、自殺した少年、不登校になったかつての仲間や、好きになってしまった少女直美の死を間近にしながら、これから歩き出そうとする大人社会への危うい橋を渡っていく。
ピアノという媒体を通して、母親をはじめとする大人社会の「楽譜通りの」生き方に折り合いをつけようとする姿が、ここでの「成長」なのだろうか。
解説では「自分とおとなの社会との価値観の差、その違いによって生まれる心の痛み」と、解説者の青春時代を重ねて語られている。

一方「キミスイ」の方にはそんな葛藤はほとんど見られない。

「キミスイ」の主人公は自分も人も傷つけたくない。できうる限り他者とのかかわりを持たず、じっと目立たずに生きていきたいだけである。
その生き方は“三秋縋”の「スターティング・オーヴァー」の主人公の2周目の人生とも似ていて、その他あらゆる今どきの主人公にありがちな青少年のデフォルトであるかもしれない。

世の中や大人への反抗心を持たない主人公の学校生活はごく短調だ。
いわゆるボッチだし、友人がいなくても読書で色んな経験を積んでいるつもりでいる。
主人公の両親は共働きとはいえ健康でごく普通の、いや、息子の全てをお見通しなのに口も手も出さず、只見守ることのできる、素晴らしい親だ。
ヒロイン桜良の家族も同様。
親の立場で読んでも、その辛さは想像を絶するのに、抑制のきいた素晴らしい家族。
これだけでも「いちご同盟」の大人のカッコ悪さとは随分違う。
大人の狡さや本音に気が付かないほど、主人公は他者に興味がなかったのかもしれない。

「キミスイ」の主人公の名前はなぜか小説の最後に明かされる。
それまでは「〇〇なクラスメイトくん」と呼ばれ、「〇〇なクラスメイトくん」はヒロインを名前ではなく「君」と呼ぶ。
名前を呼ぶとそれは記号ではなく意味を持つようになるから。
2人は初めから別れを知っていたし、恐れてもいたということか。

友人であることと「好き」の狭間で、2人は揺れる。
踏み込めないけれど、明と暗の両極にある2人は確実に惹かれ合っている。

性的な部分ではむしろ「いちご同盟」の方が中学生であるにもかかわらず、僅かに進んでいる。 
「キミスイ」」はせいぜい、「言葉」と「ハグ」で終わってしまうのである。
 
ところが何故か、「君の膵臓」は私を泣かせ、そうでなかった「いちご」をあわてて読み返したわけだ。

センパイが指摘した「キミスイ」の中盤の穴は、「いちご」の方がきっちり描きこんであると思う。
でもなぜだろう。
今読んでも、「いちご」は私のタイプではない。
多分何がしかの「説教臭さ」、「大人の目線で描かれた思春期」を感じるからだろうか。
でもそれは小説としてよくできている証拠ではないだろうか。

モモエちゃんの赤いシリーズでも見たように、「10代の死」、あるいは10代の死生感を扱ったものはドラマにも映画にも、本にも連綿と続くテーマのようなものなのだろう。
私には、それが何の感動にも恋愛にも、ましてや美しい結末にも結び付かない。
自分をヒロインに置き換えようとしても、家族や周囲の友人たち、ましてや同級生の男の子が、あんなに悲しんでくれるとは到底思えなかった。
17歳の自分なんて、稀薄で狭い人間関係の中で、何も考えられずにいたのだから。
もしかすると他の読者もそうだからこそ、密な人間関係から紡ぎ出された喜びや悲しみを小説の中に見出したいのかもしれないが。

「キミスイ」の伏線の無駄遣い、病気に関する無知、言葉遣い、設定の現実味の無さ、粗を探せば確かにきりがない。

でもその抜けた「穴」が、どうでも良くなる「書き手の若さ」が、今の私にはリアルなのかもしれない。



センパイの薦めで、この前に三秋 縋の「スターティング・オーヴァー」を読んでいた。

「スターティング・オーヴァー」も、最初の数行で一気読み決定だった。
寄る年波には勝てず、老眼鏡の度数を上げて貰いにメガネ屋さんに行ったのに。
行った先の待ち時間にまで読みふけっていた。

「スターティング・オーヴァー」は、サリンジャーを読み、ジョン・レノンを聴いてきたものにはまるで映画のようにわかり易く頭の中で映像と音楽がシンクロする。
「あのバナナフィッシュを書いたサリンジャーが、ライ麦を単なる青春小説に書くわけない」といった内容の台詞にニヤリとする。
1990年生まれの2chから産まれた作家らしいが、センパイ一押しの「三日間の幸福」も、「君が(僕が)電話をかけていた場所」も読むことにした。

センパイが押さなかったのがやはり映画にもなった七月隆文の「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。
一応読んだが、タイムパラドックスというのか、最後は正直考えるのも面倒くさかった。
勿論それでも最後まで読ませる力が小説にはあるのだが、設定がフクザツになればなるほど、主人公に感情移入している暇もなくなる、という感じか。
「君の名は。」も映画以前に本を読む気が失せたのは、同じ系列かと思ったからだが、どうだろう。


ところで先日CSで寺山修司の映画を観てしまった。
ついでに原作「書を捨てよ、町へ出よう」も読んでしまった。


本の方には、マザーコンプレックスとセックスがごちゃまぜの人間臭さの中に、鋭い真実が垣間見える。
凄まじい生命力。

映画はどう感想を持ちようもないものだったが、
美輪さんが丸山さんの名前で出演されていて、
そこだけは別世界のようだった。
かなり際どい台詞を軽々と言ってのける。

本も映画も、簡単に時間を超える。

「若さ」が世代の違いでこうも変わろうとは。

現実世界への抵抗がなく、
セックスにさえ振り回されることのなくなった「若さ」は
身体的にではなく、心の引きこもりに陥っているのだろうか。

「君の膵臓をたべたい」で桜良が書き残した「生きる意味」は
主人公「春樹」の名を彼が名乗ると同時に彼をシェルターから引きずり出した。

これを書いた作者の年齢がまだ20代後半ということは別にしても、
大人が少年少女に向けて書いた「青春小説」ではないことは明白だ。

それが、私を泣かせたものだったのかもしれない。





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Comments 2

kei  
1

「キミスイ」、最初、「キスミイ」と読んで「Kiss Me」だと思いました。

ライトノベルは読んだことはないのですが、これ、昔のジュヴナイルと言われたものと同系統なのでしょうか。夢中になったのはSFジュヴナイルですが。
もしそうなら、ライトノベルをドラマ化すれば、21世紀の少年ドラマシリーズができるということになるのですが。

2016/10/10 (Mon) 04:11 | EDIT | REPLY |   
mikaidou  
Re: 1

keiさま

カタカナにすると、「君膵」は確かに「kiss me」っぽく読めてしまいますよね(;^ω^)
タイトル的に佐川君を知っている世代としては受け入れがたかったので、そちらで呼ぶことにしてしまいました。

ライトノベル、というか、若手作家が書いた青少年の物語はこれまでにないほど多く出版されて、アニメにもドラマにも映画にもなっているわけですが、それがすなわち「21世紀の少年ドラマシリーズ」にはなり得ないのでは、と私は思っています。
マルチメディアの時代に、ドラマは表現の一端でしかなく、すでに青少年は昔ほどテレビを見なくなっているからです。

三秋縋の「スターティングオーヴァー」もそうでしたが、あれもいきなり20歳から10歳の自分にある日戻ったところから話が始まるのですが、フィクションではあっても、全くどこもサイエンスではありません。不条理、と呼ぶには感動的過ぎますし。
「三日間の奇跡」に至っては人生をはした金で売ってしまう話です。でもやはり読後感はSFとは関係ないところにあったりします。

「少年ドラマシリーズ」をリアルタイムで楽しみにできたことは、その世代の幸せだったとは思いますが、今の青少年には、別の何かが幸せをもたらしているのではないかと思います。枝葉末節というか、選択肢が広がり過ぎて、世代共有というより、コンテンツを共有するしかないとでもいうか・・・。


初音ミク(を始めとするボーカロイド系音楽)、ケータイ小説、ブログ、〇〇大賞。
あらゆる媒体が本、小説の形を取ったり、またその逆もあるわけなので、数が増えすぎてメジャーなものに価値を求めるより、秋葉の方たち同様、「自分たちだけが知っている」マイナーなものに価値を置きたがる、という流れも関係するのかもしれません。

「本の探偵」として有名な赤木かん子氏は、その講演の中で「ハリーポッター」以降、少年小説の空白期間が続き、そこに現れたのが「ボカロ本」をはじめとするライトノベルなのでは、と言っておられます。
その空白期間、小学校高学年から中学生になりたてのは子供達はいきなり、有川浩、湊かなえ、あさのあつこ 山田悠介、などを読んできたのではないかと。
小説に限ってはそうかもしれませんが、私はその間をしっかり埋めたのは大人から子供まで見られる漫画やアニメの方なのではないかと思っています。コンテンツには事欠きませんでしたよね。
ただ一旦現れた新たなジュヴナイルはSNSの発達とも相まって、次々と作家が生まれては淘汰されるスピードも速いですよね。
カリスマになりうる作家群が多すぎるというのか、これ、というものがないのか、その両方なのかは、今後数十年たってみないとわからない気がします。

2016/10/10 (Mon) 21:48 | EDIT | REPLY |   

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