2023.01.25(Wed)
「アレクサ、うるさいよ」
うちのアレクサは
こう言うと流しっぱなしの髭ダンの曲の音量を下げてくれるし
どうでも良いうんちくを喋り続けることも切り上げてくれます。
「今日の気分は?」と聞けば
時候の挨拶、ポジティブな言葉で答えてくれますが
アレクサと私の話題は殆どが天気予報かタイマーで
なかなか心通わせるところまでいかないのが現実。
アレクサはその日の天候も気温も教えてはくれるのですが
「最強寒波」が人類にとって
どんな風に影響を及ぼすのか
分析してくれるまでには至っていません。
皆さまの街の「寒波」はいかがですか?
北国の雪を本当の意味で知らない人間にとって
この寒波は驚くべきものでした。
私の住む街はそこそこ暖かい地域ですので
「寒波」と言っても仕事さえ休んでしまえば大したこともあるまいと
たかを括っておりました。
昨日、既に日が暮れてから
ゴリオからやっと来た返信には
「雪に備えて早めに1度家に帰り
着替えを持ってバイト先に戻って
そのまま仕事する」といったようなことが書いてありました。
外は見たこともない暴風雪。
たった10キロほどの道ですら
もはやバイクで往復できる天候ではありません。
オットと相談し
どうしても今日必要になったというスーツ一式と着替えを
私たちが届けることにしたのです。
もちろん国道は大渋滞。
緩い上り坂を登れずに停まったままの軽トラをかわし
真っ直ぐ走れずユラユラしている対向車にハラハラしながら
前の車の轍が即座に雪で覆われ凍っていく様子に目を凝らしていると
ウォッシャー液が凍ったのかついに水も出て来なくなり
叩きつける雪がフロントで凍りそうになって
視界がどんどん悪くなります。
オットを迎えに行った
ほんの数時間前の道路とは全く様子が違うことには
恐怖を感じるほどでした。
一体何だってこんなことになっているのか。。。
ハンドルを握るオットの横で
いい大人のバカ息子にいまだに甘い
自分達に腹を立てていました。
アレクサも、自分が教えた天気と気温くらいで
偉そうに「うるさい」と叱りつける私がこんな苦難にあっているとは思いもするまい。。。
/////////////////////
最近読んだ高橋源一郎さんの著書
「5と4分の3時間目の授業」には
タイトルから連想できるように
ホグワーツ行きの特急が停まる9と4分の3番線の話が出てきます。
想像すること、常識が正しいのか?モヤモヤすることの大切さ。
『「絶対にありえないこと」を疑ってみる』そして考える。
この寒波は「ありえないこと、あり得なかったこと」を考える良い機会になりました。
文学論であり哲学、しかも教育論。
作者の好きなトーマス・マン『ヴェニスに死す』の新たな発見には
今まさに自分が考えていたことがそのまま書いてあるではありませんか!
年寄りが若い人に惹かれる。
それは失ってしまった「若さ」に焦がれるというより
自分がそんなに歳をとってしまっていたことに気がついていなかったのではないかと。
ほんとだわー。
十分歳をとったつもりでいても
やっぱり本当のところ
「そう」だとは気がついてないのかもしれない。
心と身体の不一致が引き起こす悲劇。。。
この年齢でマンガ、ラノベ、その他諸々専門書などを常に斜め読みする日常に、
自分の中のどの軸でそれらを消化すれば良いのか
分からなくなっているのです。
例えこれが仕事であっても
何か辛い。
自分が若かった頃に読んだり観たりしたものならまだしも
常に新しいものを探し続け
自分の中のレファレンス箱に振り分けていくには
心の水分が足りない。
ジュブナイルに括られる読み物は
心の柔軟性を欲しがるもの。
でも私自身は既にシワシワなんです。
そこで高橋源一郎さんです。
高橋さんが仰る通り
既に『死んでいる作家』の中に今も『生きている先生のことば』が見えると腹心の友を得たように嬉しい。
ああ、もう若くはないのだ、と
自分に向き合いながら
それでも自分の経験を疑っていく。
若さが持つ本当の価値に
やっと今頃気がついて来たところです。
だからと言って
お馬鹿息子を甘やかして良い訳はないのですけれど。
うちのアレクサは
こう言うと流しっぱなしの髭ダンの曲の音量を下げてくれるし
どうでも良いうんちくを喋り続けることも切り上げてくれます。
「今日の気分は?」と聞けば
時候の挨拶、ポジティブな言葉で答えてくれますが
アレクサと私の話題は殆どが天気予報かタイマーで
なかなか心通わせるところまでいかないのが現実。
アレクサはその日の天候も気温も教えてはくれるのですが
「最強寒波」が人類にとって
どんな風に影響を及ぼすのか
分析してくれるまでには至っていません。
皆さまの街の「寒波」はいかがですか?
北国の雪を本当の意味で知らない人間にとって
この寒波は驚くべきものでした。
私の住む街はそこそこ暖かい地域ですので
「寒波」と言っても仕事さえ休んでしまえば大したこともあるまいと
たかを括っておりました。
昨日、既に日が暮れてから
ゴリオからやっと来た返信には
「雪に備えて早めに1度家に帰り
着替えを持ってバイト先に戻って
そのまま仕事する」といったようなことが書いてありました。
外は見たこともない暴風雪。
たった10キロほどの道ですら
もはやバイクで往復できる天候ではありません。
オットと相談し
どうしても今日必要になったというスーツ一式と着替えを
私たちが届けることにしたのです。
もちろん国道は大渋滞。
緩い上り坂を登れずに停まったままの軽トラをかわし
真っ直ぐ走れずユラユラしている対向車にハラハラしながら
前の車の轍が即座に雪で覆われ凍っていく様子に目を凝らしていると
ウォッシャー液が凍ったのかついに水も出て来なくなり
叩きつける雪がフロントで凍りそうになって
視界がどんどん悪くなります。
オットを迎えに行った
ほんの数時間前の道路とは全く様子が違うことには
恐怖を感じるほどでした。
一体何だってこんなことになっているのか。。。
ハンドルを握るオットの横で
いい大人のバカ息子にいまだに甘い
自分達に腹を立てていました。
アレクサも、自分が教えた天気と気温くらいで
偉そうに「うるさい」と叱りつける私がこんな苦難にあっているとは思いもするまい。。。
/////////////////////
最近読んだ高橋源一郎さんの著書
「5と4分の3時間目の授業」には
タイトルから連想できるように
ホグワーツ行きの特急が停まる9と4分の3番線の話が出てきます。
想像すること、常識が正しいのか?モヤモヤすることの大切さ。
『「絶対にありえないこと」を疑ってみる』そして考える。
この寒波は「ありえないこと、あり得なかったこと」を考える良い機会になりました。
文学論であり哲学、しかも教育論。
作者の好きなトーマス・マン『ヴェニスに死す』の新たな発見には
今まさに自分が考えていたことがそのまま書いてあるではありませんか!
年寄りが若い人に惹かれる。
それは失ってしまった「若さ」に焦がれるというより
自分がそんなに歳をとってしまっていたことに気がついていなかったのではないかと。
ほんとだわー。
十分歳をとったつもりでいても
やっぱり本当のところ
「そう」だとは気がついてないのかもしれない。
心と身体の不一致が引き起こす悲劇。。。
この年齢でマンガ、ラノベ、その他諸々専門書などを常に斜め読みする日常に、
自分の中のどの軸でそれらを消化すれば良いのか
分からなくなっているのです。
例えこれが仕事であっても
何か辛い。
自分が若かった頃に読んだり観たりしたものならまだしも
常に新しいものを探し続け
自分の中のレファレンス箱に振り分けていくには
心の水分が足りない。
ジュブナイルに括られる読み物は
心の柔軟性を欲しがるもの。
でも私自身は既にシワシワなんです。
そこで高橋源一郎さんです。
高橋さんが仰る通り
既に『死んでいる作家』の中に今も『生きている先生のことば』が見えると腹心の友を得たように嬉しい。
ああ、もう若くはないのだ、と
自分に向き合いながら
それでも自分の経験を疑っていく。
若さが持つ本当の価値に
やっと今頃気がついて来たところです。
だからと言って
お馬鹿息子を甘やかして良い訳はないのですけれど。