2015
10.29

「パトリック・チャンが明かす復帰への思い」

http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201510270001-spnavi?p=1

ところどころ、お借りします。

「ユヅルを意識しないわけではない」
パトリック・チャンが明かす復帰への思い

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今季は“積み上げる年”

――1年間休養して今季の試合を迎えるにあたり、今どんな気持ちですか?


 すごくナーバスになっていたんです。昨季は今までと違った日々を過ごしてきましたが、競技会にしてもショーにしても、今季は違ったレベルで専念することが求められてきます。肉体的・精神的に競技者に戻るために、食べることもトレーニングになり、練習も明らかに違うものになりました。


――まだ競技に復帰したばかりですが、技術はソチ五輪時のレベルに戻ってきていますか?


 明らかに昨年より良くなっています。ショーにたくさん出たことで円熟味が増したし、観客やジャッジの前でも気持ち良く演技できるようになりました。技術的な面だと、ジャンプが良くなってきました。本格的な練習を再開した当初は、最初からやり直しといった感じで、4回転やトリプルアクセルなどはなかなか難しかったですけどね。今季は“積み上げる年”になると思います。パーフェクトとはいかないでしょう。どちらかと言えば、次の平昌五輪に向けて作り上げていく年ですね。


長期的な目標は平昌五輪に出ること

――今季、技術的に新たにチャレンジしてみようと思うことはありますか?


 いや、何もないですね(笑)。これまでと同じく、ジャンプはトリプルアクセルや4回転トウループを跳んでいます。今季も序盤だし、ものすごく変わったことをやろうとは思っていないです。ただ、感情表現やプログラムを通じて伝わるものに進化が見られるのではと思います。それが僕が今、力を入れていることで、観客にも見てもらいたいポイントです。ジャンプはジャンプとして変わることはありませんし、プログラムの複雑さや込められた思いに目を向けてもらいたいですね。


――今は表現や感情といった部分に重点を置いているのですね。


 その通りです。加えて音楽の解釈にもフォーカスしています。そういった要素が昨年、僕が学び、成長してきた部分だと思うんです。ショーに参加したことで、結果ではなくパフォーマンスに集中できたからこそ得られたことです。


――今季の目標、そして長期的な目標をそれぞれ教えてください。


 今季はまず、カナダ王者のタイトルを取り戻したいと思っています。もし世界選手権に出場できたら素晴らしい経験になるでしょうね。そこで成功を収めることができたら、素敵なおまけになりそうです。長期的には平昌五輪に出ることが目標です。3度目の五輪に出られれば、キャリアの終わり方としては最高でしょうね。


――残り2年弱で五輪出場までたどり着く自信は?


 もちろん、常に自信を持っているし、2回経験しているわけだから、もう1度五輪に出場できる自信があって当然ですよ。ただ唯一、言っておきたいのは、けがをすることもあるということ。これだけは予測できないことですからね。でも先を見越してリンクでも陸上でも、正しいトレーニングをすればけがは防げると思います。適切なウォームアップや治療、リハビリをやり 自分の体の声を聞いてやれば、あと3年、五輪へしっかり準備できる良い状態を保てると思います。


(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)



パトリック、インタビューも大人になったなあ、と思う。
突っ込みどころがなくて、さびしいくらい(^^)


彼が目指すスケートを、今週末、楽しみにしております。

テロ朝は、変にあおらず普通に放送してくれればそれでよし、ですわ。

私も明日はある種の訓練のため(と自分に言い聞かせ)、小さな集まりでバトルをしてまいります。
勝ち負けには何の意味もないお楽しみ会のようなものですが、
この1年に少しでも進歩があったのかどうか、測るのはきっと、周りではなく自分でしょう。
自分でわかってしまうのも、ちょっと、ツライものですが・・・。



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2015
10.19

正義を水のごとく

Category:
1963年、キング牧師が行ったワシントンでの演説の折には、多くの支援者がリンカーン記念堂に集まった。

その中には世界で名を馳せたアルトの歌姫、
「マリアン・アンダーソン」もいた。
この時彼女はすでに66歳。
どんな思いでこの場に立ったのだろう。

彼女は1939年、アフリカ系アメリカ人で初めてリンカーン記念堂で歌った人物だ。


キング牧師の演説で歌った時は、3度目だったという。

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youtube、「Nobody Turn Me Around: A People's History of the 1963 March on Washington」1分56秒あたりに、歌う映像が残されていた。


初めて彼女の絵本を読んだ時、
差別に苦しんだ彼女の時代を、知りたいと思った。

彼女は1924年、27歳の時にアフリカ系アメリカ人で初めて、大手レコード会社ビクターで、ゴスペルのレコーディングをしたコンサート歌手だった。
8か国語で歌うことができたというが、その努力は当時の状況を考えても並大抵ではなかった。

余談ですが、私の姉もかつて声楽を勉強していました。
発音、発声、言葉の壁は厚く、しかも文化的な素養の違いもあり、苦労していたことを覚えています。
それを、あの時代に、アフリカ系アメリカ人で、
正攻法な歌い手を目指すという途方もなさを感じずにはいられませんでした。





ヨーロッパでは歓迎されても、自国でのコンサート開催には度々横やりが入った。
そんな彼女を支援する人々の中には、内務長官ハロルド・イックス、エレノア・ルーズベルト大統領夫人がいた。

マリアンは自分の問題がすでに黒人全体の問題になっていることを自覚した時から、白人と黒人の座席を区別しないホールでしか歌わないことを宣言した(1952年)。
自分の後に続く歌い手たちのために。

自らの歌声で、彼女もまた黒人差別により閉ざされた扉を、一つ一つ開いていった。

そしてついに、黒人であるという理由で、彼女が歌うことのできなかったホールは、なくなるのである。

1953年、日本でもコンサートを開いている。
N響が招いた海外からのソリストとして、客演していた。
http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/222106.html←NHK-FMブログより
ピアニストのワルター・ギーゼキングとバイオリニストのアイザック・スターンと共に招かれているが、HPによれば、マリアンの録音は残っていないそうだ。


絵本、というには美しく、重厚でさえある。




「マリアンは歌う 」
パム・ムニョス ライアン (著), ブライアン セルズニック (イラスト)


Amazon(「BOOK」データベースより)

「あなたのような声は、100年に一度しか聞けない」。世界的な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは、マリアン・アンダーソンの歌声を、こういってたたえました。幼いころからマリアンは、歌うことが大好きでした。マリアンは、黒人という理由で、どんな屈辱を受けようと、誇りをうしなわず、心をこめて歌いました。これは、自らの歌声で、自身の、そしてあとに続く黒人音楽家たちの道をひらいた歌手、マリアン・アンダーソンの物語です。



挿画はあたたかなブラウンのグラデーション。


1897年生まれのマリアン・アンダーソン。
「天使の歌声」と言われる声を持っていた彼女は、少女時代に父を亡くしたが
聖歌隊で歌う彼女に、教会は学費を援助すると約束した。

しかし現実は厳しかった。

“黒人に生まれたら、プロの歌手にはなれないのだろうか?”

黒人であるが故、国内では音楽学校への入学は許されず、
なかなか良い先生につくこともできなかった。
コンサートに呼ばれるようになっても、
往復の列車は「黒人専用」の汚れた車両。
彼女が歌うステージの客席は、前の方の良い席が白人、後方が黒人の席、と分けられるか
白人用、黒人用の2回、一日の間に同じプログラムを歌わなくてはならなかった。

ステージでどんなに大きな拍手を貰おうとも、
彼女を泊めてくれるホテルがないこともあった。

彼女は歌の勉強がしたかった。
コンサート歌手として国内を回りながらも、教えを請うために声楽家、ジュゼッペ・ポゲッティのオーディションを受けた。

ポゲッティは気難しい先生だったが、マリアンの歌声に
「今すぐ、きみを生徒にとろう。」と言った。
先生の教えの元、マリアンはイタリアオペラも勉強した。

絵本は、彼女が憧れて、どうしても立てなかった舞台、オペラ「蝶々夫人」についても触れている。
念願かなって黒人として初めてNY、メトロポリタン・オペラに出演した時、ヴェルディの「仮面舞踏会」ウルリカ役で歌ったそうである。



ヨーロッパに渡った彼女は、勉強を続け、歌手として成功を収めた。
しかし本国アメリカでは、歌手としてだけでなく、黒人の代表としても
人生を全うすることになった。

1977年、80歳で国連平和賞を受賞している。

絵本の「マリアンは歌う」には、静かな語り口の中に、つぶされてもおかしくなかった一人の天才の、
強さと思いが選び抜かれたエピソードで綴られている。
彼女は決して自分の主張を貫くタイプではなかった。
政治的に控えめな態度が、かえって白人の支持を受けたのではないかと思う。

1936年、彼女への支援を惜しまなかったエレノア・ルーズベルト大統領夫人のために
ホワイトハウスでも歌っているが、あの時代に
黒人として多くの尊敬を集めたことに驚く。
マリアンの出演を拒否した婦人団体に抗議し、彼女の立つ舞台のために奔走したルーズベルト大統領夫人の勇気にも。

彼女は黒人霊歌を多く歌ったが、その歌が白人を動かした。
彼女に続く黒人歌手に残した「開かれたコンサートホール」は、
まさに「非暴力」で勝ち取った価値あるものだったと思う。



こちらは1939年のリンカーン記念堂での歌声。

天上人の声とは、このような声のことかと思う。

75000人の聴衆を前に、歌うマリアン。

4000人が入る憲法記念ホールで歌うことを拒絶された彼女のために、
多くの人々が抗議し、時の大統領、ルーズベルトが内務省を通じ、
リンカーン記念堂の、リンカーン座像前で歌うように、マリアンを招いたのだ。

彼女が歌う前に、聴衆にはこのように紹介されている。拙訳ですが、大体こんな感じでしょうか。
Genius draws no color line, and so it is fitting that Marian Anderson should raise her voice in tribute to the noble Lincoln who mankind will ever honour.
「才能は白人と黒人の境界線を無くしてしまいます。だからこそ、皆が敬意を払う高貴な人物、リンカーンに対し、マリアン・アンダーソンの歌声は、高らかに響くにふさわしいのです!」

「この当時、“天才”とか、“才能”という意味の言葉を黒人に対して使ったところがすごいと思う。」と、マリアン・アンダーソンを尊敬すべき人だと語ったのは私の隣の席の同僚である。
彼はニュージーランドの人なのだが、なんであーたが彼女のことをそんなに知ってるのよ?と驚いた。
クラッシック音楽ファンの彼は、彼女をゴスペルだけでなく、オペラ歌手として認識しているのだ。
ということで、リンカーン記念堂でのこの前ふりは、マリアンに対する最高の賛辞だと思ってよいと思う。






彼女が歌った歌詞が効果的に、絵本の中に入れられている。
youtubeで残された音源も聞くことができた。

http://www.worldfolksong.com/songbook/spiritual/deep-river.html
「世界の民謡・童謡」というサイト様には
黒人霊歌として知られる「深い河 Deep River」について詳しく載っている。

北部州と南部州の境界に位置する州として、そこを縦断するように流れる河川「Deep river(ディープ・リバー)」は、あたかもヨルダン川のように、自由と隷属、生と死の境として象徴的に解釈されるのだろう



マリアンの「深い河」は、聴くと耳から離れないような魂の歌。
この曲をカバーしたアーティストとして挙がっていたのが、
バーバラ・ヘンドリックス、
マリアン・アンダーソン、
マヘリア・ジャクソン、
アレサ・フランクリンなどである。

マリアンと共にキング牧師のワシントン大行進に参加した
マヘリア・ジャクソンも歌ったこの曲。


マリアン・アンダーソン「Deep River」



こちらはマヘリア・ジャクソンの「Deep River」


マヘリア・ジャクソン

wikiより

リンカーン記念堂での演説の終盤にマヘリア・ジャクソンが「あなたの夢をみんなに伝えて」という叫び声が聞こえたことを受けて、キングはあらかじめ用意していた演説の締めくくりの部分を読まずに、“I Have a Dream” という題について即興で語りだしたという。




1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。



奴隷から解放され、法的に認められたはずの黒人の権利.。
それでも南部を中心に、差別が生んだ悲劇の事件はあちこちで続いていた。





映画「グローリー」こちら

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「yuccalinaのヨガ的雑記帳」さまの記事に、この映画について、公民権運動の活動家たちについて
詳しく載せておられましたので、大変勉強になりました。

こちらで活動家の面々についてや、キング牧師の有名な演説について知らなかったことを沢山教えて頂いたおかげで、この映画を何倍も堪能できました。

『グローリー/明日への行進』を見た!と『The 60's 公民権運動』のこと
☝リンクしています。

公民権運動は、黒人の運動だけにとどまらず、白人の支援者たちにとっても命がけであったこと。
そこには政治的な駆け引きや、ユダヤ人の協力もあったことなど、一連の流れとして詳しく書いてくださっています。

演説を知っていたくらいで、公民権運動のことなど何も知らなかったのだとつくづく思いました。

そしてまた、
youtubeでマーティン・ルーサー・キング牧師のワシントン大行進の時の演説を見たわけです。

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キング牧師とローザ・パークス―黒人の平等な権利を求めて
ファエル フリエル (著), ザウ (イラスト), 高野 優 (翻訳),


この本は子供向けではあるが、アメリカの公民権運動について
キング牧師とローザ・パークスを軸に、わかりやすくまとめてある。

wikiによると、ローザ・パークスとは

1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで、ローザは米国史における文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。

人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は国際的に高く評価されている。



同じくwikiより
バス・ボイコット事件とは

1955年12月1日、市営バスに乗車したローザ・パークスは、白人優先席に座っていた。運転手のジェームズ・ブレイク(英語版)が、後から乗車した白人のために席を空けるように指示したが、パークスはこれに従わなかった。ブレイクは警察に通報し、パークスは、運転手の座席指定に従わなかったという理由で逮捕された。

ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソン(英語版)は、ジョージア州アトランタからモンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけた。

キング牧師らが、バスへの乗車のボイコットを呼びかけると、多くの市民がこれに応じた。結果として市のバス事業は財政破綻の危機に瀕することとなった。1956年11月13日、連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下した。そして、運動は1956年12月20日に公式に終了した。



キング牧師のwikiから

モンゴメリー・バス・ボイコット事件

1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。



注:モンゴメリー(Montgomery、モントゴメリーとも)は、アメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリー郡にある都市。
私が読んだ本の表記は全てモントゴメリーでしたが、wikiでは全てモンゴメリーになっています。


1963年のワシントン大行進、1965年、映画「グローリー」で描かれたセルマの大行進、
それ以前にキング牧師等が指導したと言われる「バス・ボイコット事件」。

キング牧師の身の安全のために、「キング牧師に先導されてバスに乗らなかったわけではない」と裁判で証言した人々の中には、当時十代だった少女も含まれていた。


公民権運動に関わった人々の中には、光を浴び、
称賛された人ばかりではなく、歴史の影に
葬られた人々もあった。
無残に殺された人々もいたが、生きながらも同じ黒人によって
その勇気を称えられるどころか、表舞台から消し去られた人々がいた。

一部の白人は、公民権運動に命がけで協力した。


その一方、公民権運動では、黒人の支援者だった白人も、同じ白人によって殺されたり暴力にさらされたが、
黒人同士であっても、公民権運動で命を危険にさらすか否かで意見が割れたり、
「黒人である自分を憎む」といったメンタリティーに苦しんだこともあったという。



その繊細な心が語られている、あの時代を生きた一人の女性の証言として、貴重だと思われる一冊がこちら。
Amazon「BOOK」データベースより

1950年代、アラバマ州モントゴメリ。人種差別の激しいこの町では、バスの座席も白人用と黒人用にわけられ、空席がなくなると黒人は白人に席をゆずらなければならなかった。そんな差別にたいして、はじめて「まちがっている」と声に出して言った少女がいた。




席を立たなかったクローデット―15歳、人種差別と戦って
フィリップ フース (著), Phillip Hoose (原著), 渋谷 弘子 (翻訳)


こちらを読むと、モントゴメリでの「バス・ボイコット」に至るまでに、
「ローザ・パークス」以前にも、「席を立たなかった」(白人にバスの座席を譲らなかった)少女が少なくとも2人、いたという。

この本の主人公、クローデットは白人にバスの座席を譲らなかったことで有名になったが、学校には彼女を批判する向きもあった。果てに妊娠を理由に放校になるのだ。

それでも彼女は出産後すぐに、市バスを黒人側から訴えるという裁判(ブラウダー対ゲイル裁判)の証言台に立ち、裁判に勝ったことで「バス・ボイコット」は終わりを告げるのだが、十代で未婚の母となったクローデットは活動の表舞台に立つにはふさわしくないと、活動家の人々からも一線を引かれてしまう。

この本の中で、当時高校生だったクローデットが、黒人ばかりの高校生活の中にもスクールカースト的なものがあったことを語っていた。
白人との混血で、家が裕福な子は学校での頂点に位置し、クローデットのように色も人一倍黒く、縮れ毛も強い子は、下層、というように。
白人に憧れ、女の子達は縮れ毛をストレートヘアにするために必死だった。
クローデットも最初は皆と同じようにしていたが、バスの事件以来、そんな自分達自身がおかしいと感じるようになった。
そして自分の髪の毛をコーン・ロウ(編み込み)にする。
私は私のままで美しい、というように。
ところがそんな彼女に周囲は益々冷たさを増すのだ。

公民権運動は大人たちの人生にも様々な戦いを強いたと思うが、子ども達の心の中にも影を落としていたに違いない。


「ブラック・イズ・ビューティフル」という言葉の記憶を、呼び覚まされるようだった。

自由を勝ち取ることと同時に、自分達の尊厳、プライドを得るための戦いを、彼らはあらゆる立場、あらゆる場所で行っていたのだ。


ローザ・パークスが勇気ある人権活動家と称賛される一方、彼女は未婚のまま2人の子どもを育て、生活は苦しいままだった。
ノンフィクション作家であるフィリップ・フースが情報を得てインタビューを取るまで、彼女の存在は忘れられてしまっていた。




1963年、ワシントン大行進の折、リンカーン記念堂の座像の前で、キング牧師はこう語っている。


“justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream.”
「公道を水のように、正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」
アモス書より

あの何度も繰り返す「私たちは~するまで、決して満足(納得)することはない。」の最後の部分だ。

リンカーン大統領からオバマ大統領まで、公民権運動から連なる様々な本を読んでみた。

人種を超えた友情を描いた本は、翻訳された絵本だけでも数多くある。

実話であっても子供向けの絵本は本編は単純化され、あとがきに簡単な情報が載せられている。
絵本としての完成度、事実をそのまま伝えきっているかなど、大人向けの本のように詳しくない分だけ、興味がわく。


「リンカーンとダグラス」 
ニッキ ジョヴァンニ (著) ブライアン コリアー (イラスト)


リンカーン大統領とフレデリック・ダグラスの人生を絵本の中に短い対比で浮かび上がらせ、
北軍が南軍と戦ったあの戦争に、「奴隷制度」について意見の一致をみた二人(複雑な経緯はありますが)を描いている。
この本の「ダグラス」は合衆国大統領選挙でリンカンーンに敗れたスティーブン・アーノルド・ダグラスではなく、奴隷から身を起こし、アメリカ史上アフリカ系アメリカ人としては初めて副大統領候補に指名された人物だ(本人には知らされていなかったそうだが)。

さて、このリンカーン大統領を尊敬し、「リンカーンと握手した」その手を支えに兵士となった少年の絵本は有名なのでご存知の方も多いかもしれない。



「彼の手は語り継ぐ」
パトリシア・ ポラッコ (著)


こちらも実話である。
南北戦争時、北軍に従軍していたものの、あまりの恐怖と辛苦に耐え兼ね、脱走した15歳の白人少年兵。
足を撃たれた彼は、生死の境をさまようが
同じ北軍の黒人少年兵とその母親によって命を救われる。
北軍には南部からの逃亡奴隷を中心とした黒人部隊が組織され、戦争終結までには18万人もの黒人が参加していたという。
黒人部隊はまともな武器も持たず、それでも「奴隷解放」のために戦った。

残酷にも彼らをかくまってくれた、優しかった黒人の母親は殺され、少年二人は捕虜となる。

同じ捕虜となっても、白人である少年は命を助けられ、黒人であるがゆえに「ピンクス・エイリー」という名の少年は殺された。

のちに結婚して、子供や孫に恵まれた白人の少年。
彼のいのちを救った素晴らしい心を持った黒人の名前を残すために、少年だった主人公は、この話を自分の子どもや孫に語りついだ。



「正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」

余談だが、
ミス・マープルが「復讐の女神」の中で、事件解決の依頼主であるラフィール氏から貰った手紙に書いてあったのも
この言葉だったと思う。

ジェラルディン・マクイーワンのドラマの中でも物語を貫く柱のセリフとして使われていた。

「正義を川のように流れさせ」
ミス・マープル自身が、「ネメシス」(復讐の女神)となり、依頼主の遺言を果たしたという話だった。



「正義」とはなんだろう。

自分達だけに都合の良い正義も世の中にはあるのだろうが、
そのために誰かが虐げられ、泣くことがあるのなら、それは正義とは呼べない。

「正義」とは何だろう。

自分たちにだけ都合のよい「正義」がまかり通ってはならない。

「正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」



キング牧師の残した言葉の力。

そしてマリアン・アンダーソンが残した歌声の力。

正義は、人を通して、川のように流れたのだろうか。






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2015
10.16

美しいジャンプ

シーズン初戦で、体力的にもどの選手もまだキツイ時期なんだろうなあ、と思いながら、今朝家族が付けっぱなしにしていたニュース番組を見ておりました。

王者ハニューの今季初戦SP。

先ほどフリーも見ましたが、体力不足が惜しい。

ナム君との比較でいえば、今回の結果はこうなんでしょうが、
同じく初戦での昌麿、知子、真央3選手のあの底知れぬパワーを思うと、
体力不足が、惜しい演技でした。

後半に4回転という高難度構成に再び挑戦、らしいので、そこは最後まで滑りきる、跳びきる体力が必然なわけでしょう。

とはいえ、フリーのSEIMEIは曲のアクセントに振付を合わせているだけで、和のリズム感に関しては難しいものがあるんだろうなと思いました。
ハニュー選手は、挑戦している過程、なのでしょう。


頭で考えるより先に身体にリズムが入る人が時々いるけれど、そういうタイプの人は、
音楽にノる、ということに関しては何も考えずに身体が動くんだろうなあ、と高橋大輔を思わずにはいられませんでした。

ハニュー選手も音楽に乗せて美しく滑る選手だけれど、
SEIMEIに関しては、頭を通さずにあの独特のリズム感に乗り切るまで行けるかが、楽しみ。



今朝見た鳥モーニングでは、長い尺使って、佐野解説も、手厚かったですね。

「美しいジャンプ」
そう言いましたね。

ああ、こんな言葉も言える人なんですよね。

先ほど、報捨てで聞いた佐野解説も、ふぉろーふぉろーふぉろーの連続。

こーんなに「良いところしか見ない」ことだってできるのに、
どうしてそれが特定選手に限られるのか、興味深いところでございます。

佐野さん、電話インタにまで答えておられました。

「(昨季、アクシデントがあった中国大会は)
今回のプログラム構成と同じだったんです。
ショートが終わって、翌日のフリーでああいう事故が起きましたよね。
それだと非常に体力的につらいので
一昨年の構成に戻したというのが実情なんです。

去年、でききれなかった後半に4回転を入れるということに
再チャレンジ、ということで、ファイターですよね。
羽生結弦という選手は燃える人ですから。
非常にやりがいのあることなんじゃないかという風に思いますね。」



更にハニュー選手のフリーの注目点に関して

「やはり“ジャンプ”
内容も重要だが
世界と勝負するには(ジャンプを)決められるかどうか」



先日のパトリックのインタビュー(こちら)との対比がとても面白いなと思いました。

スケ連の中でも表に出る人として、選手のフォローに回る。
これは彼らの大切な仕事だと思います。

これをなぜ、全ての選手に対してやらないのか、
そこに作為を感じるのでございます。

いつもいつも同じことばかり書いているようですが、
本当に不思議なんですもん。

自分の国なのに、重箱の隅をつつく解説と採点しかしてもらえない選手と
何をしても素晴らしいと、常に、持ち上げてもらえる選手。

その理由がコーチであったり練習拠点だったり、コーチの人脈であったりするのかどうかは知りませんが。
それがスケ連の「押し」とどのような関係があるのかもまた、謎なのでございます。

所詮、ルールもなーんにも知らない素人の戯言でございます。



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2015
10.14

マオの記録を残す本・・・が読みたい

Category: 浅田真央
http://www.pluto.dti.ne.jp/~ando3/figureskate/Philippe/02philippe/index.html
↑こちらに詳細がありますが、
2002年のFOIは、かのキャンデロロ様が冠についた「PHILIPPE CANDELORO FANTASY ON ICE 2002」というアイスショーだったそうでございます。

浅田真央は2002、2003年、フィリップ・キャンデロロ出演、プロデュースのこのショーに出演。

そう、ひろのがスケ連の協力のもと、様々な雑誌の既出記事を「ポエム」にまとめた本には、
知らなかった情報がまだまだあった。

2002年のファンタジー・オン・アイスの出演者、
シングルスケーターは
フィリップ・キャンデロロ
アレクセイ・ウルマノフ
高橋大輔
佐藤有香
ルシンダ・ルー
浅田真央

初めてのFOIは浅田真央が、まだ小学生の時だったそうだ。

このショーのプロデューサーでもあったキャンデロロ様は
12歳の浅田をこう紹介したと書いてある。

「未来のオリンピックチャンピオン、マオ、アサダです!」



キャンデロロ様といえば、浅田真央の保護者のように、
彼女の演技を茶番のあの時でさえ堂々と褒めたたえてくれた方。

2002年時にすでにこう語っていたという。

「びっくりしたのはショーのリハーサルの前。朝8時だというのに、
もうマオは、トリプルアクセルの練習をしていたんだ。
トリプルアクセルなんて、僕が現役時代は男子選手が人生をかけて
チャレンジしていた、むずかしいジャンプだよ。
これは・・・この子を応援しなくちゃ! と思ったね。

僕のアイスショーは、マオにとって初めての本格的なアイスショーだったんだ。
そんな形で僕が真央のゴッドファーザー(後見人)になれたこと、誇りに思っているんだよ。」

「浅田真央物語 Princess Mao」 角川書店 2010年より



雑誌に既出の記事をつなぎ合わせた本であるが、
奥付にはそのことわりと元記事掲載の雑誌名などがきちんと載せてある。
角川書店の名には恥じぬが、
作者をこの人にしたことに、今さらスケ連の意図を感じる。

浅田自身の当時の言葉、
「日本スケート連盟のあるスタッフ」の(余計な)言葉、
そして浅田選手のお母様の言葉をも数多く残されている。

正直言って、これらの浅田の記録は、非常に貴重なものなのだ。
なぜ作者を選ばなかったのか、残念でならない。
この本だって、深読みすれば浅田の人物像に対する情報操作の一つなのだから、
スケ連の正体を考えれば作者がこれでも当然と言えば当然だろうが。



先日テレ東で流れた「マイ・ベスト・トリプルアクセル」の時にも浅田の3-3-3が取り上げられていたが、
その頃のことも、練習で4回転に挑戦していた頃のことも、伊藤みどり様へのあこがれも、存分に書いてある。
オンダさんも、ロボットシズカも、浅田に非常に身近な選手として登場する。

宇都宮直子さんの10代シリーズにも重なる部分は多いが、
よりスケ連内部情報が多かったためか、回りの状況はご自分たちの都合のいいように書かれている。
でも、ラファエルとの行き違いの件は、宇都宮さんの本と同じ。
やはり当時は、ラファの方に選手を責任持って育てる気概がなかったことは間違いないと思う。


それにしても、これだけ身近に浅田真央と接しながら、
長い時間をかけ、見続けていながら、
海外メディアからも、他のスケーター達からどのように評価されていたのかも
知っていながら。

よくもあんな落とし駄文をあちこちに書けたものだと怒りが増す。

ロボットは勿論、オンダさんも同じだ。

大人の事情とはいえ、よくも、あんなことをテレビで言えたものだ。
本当の浅田を知っていながら。


あの五郎丸選手の本で私が驚いたのは、プロになった現在も続く、起床から朝食までの時間の過ごし方である。
修行僧かと思うほど、本格的な練習に入る以前から、厳しいトレーニングを始める。

現役時代の柔道の鈴木桂治さんの練習メニューも凄まじかった。
一時期毎日ブログを拝見していたのだが、
実際に道着を着て組む練習よりも、筋トレの時間の方が長かったという。


彼らと、浅田選手の間に、どれ程の違いがあるというのだろう。
格闘系とフィギュアスケートだから、トレーニングの質が違う、そういう問題ではないだろう。

嫉妬や某国が絡まない、勿論スケ連も一切絡まないところで、
きちんと浅田の記録を残してはくれないかと思う。

勿論、吉田順さんの本も決して悪くはないのだが、
アスリート浅田の記録、それでいいのだ。

茶番後に編纂されたひろの本の終わりのポエムによれば、

「このあとの『真央物語』は、みんながこの目で見届ける物語だ。」

ということだが、これからのマオを記録に残すのは、ポエムではない。
ノンフィクションであってほしい。





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2015
10.12

ヤマト先生、発進!

Category: ヤマト先生
たんたかたーんたかたんたったたーーーん!


頭の中で「宇宙戦艦ヤマト」のテーマが鳴り響いております。

ヤマト先生、いや、違いました、本田真凛ちゃん、JGPクロアチア大会優勝&ファイナル進出おめでとう!

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JGPクロアチア杯2015(ISU Junior Grand Prix Croatia Cup 2015)日本代表-本田真凜さんの演技動画です。
動画主様、ありがとうございます。




ジャンプがキレてます。
高さ、回転軸、素晴らしかった。

演技後の解説がべた褒めです。
声色や興奮した物言いなどいらない。
こんな風に彼女の演技が魅せた点を一つ一つ取り上げ、
冷静に「彼女はスターだ。スペシャルだ。」と言い切ってくれる。
聞いていて、とても嬉しいです。

決してコーチから何やら言って聞かせてもらっているのがあくまでも自分であるような脳内妄想など致しておりません。
ご了承くださいまし。

いや、本当は、浅田選手の「バース・デイ 告白・・・ 浅田真央25歳 空白の1年の真実」
こちらの感想を書くはず、だったのです。

こちらの動画で涙したその涙も乾かぬうちに、

次の動画で、
たんたーっかたーん、たかたんたったたーーーん♪
ヤマトスイッチが入ってしまったのでした。

私の息子、「ごりお」(仮名)が、娘であったなら・・・。

自分もなぜだかグラウンドの砂にまみれて負け試合を見た後。
練習着をお風呂場のシャワーと足で踏んで泥を落とし、洗濯機に放り込み。
それでも洗濯物を干す部屋の床は砂まみれな連休。
おやつにどんぶり飯とラーメンと卵と肉とプロテイン入り野菜ジュース。
今日は練習試合中内臓をしたたか打った「ごりお」(仮名)はおやつ後に爆睡。
寝ている間に晩飯を作り、明日の弁当と捕食の準備に追われていた。
今起きてきた「ごりお」に夕食を食わせなくては・・・。
あ、夕食は食わせたはずなのに、明日の朝食のハムをデザートに食っている。
当然そのあとはパンで〆、のコースである。
これで炭水化物が足りないって言われるのはおかしいと思う。

裸族の「ごりお」は食事時も裸族。
下だけは履いているが・・・。



ああ、せめてこの微笑ましい師匠と可憐な教え子の姿に、
癒されたいのでございます・・・(ToT)/~~~


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2015
10.11

阿呆の読書

Category:
私がこいつらだけはぜーったいに・・・・。
とその存在を自分の地図上から消している物書きが数名いる。

勿論筆頭はスケ連御用聞きのひろの。
ご自分のお国のために、真央選手の件ではずいぶん実績を残されたお方。

そして真央ギネス記録のことをこともあろうに新聞上で「豚」と一緒にした森絵都である。
この森絵都の件はこちらのブログ様が詳細を残してくださっている。

「フィギュアスケートを死なせたくない」様の
「ギネス認定 何にでも世界一って......」 (37) という記事だ。
↑リンクしてます。

たったこれだけのコラムだが、この悪意には赤ランプが点いた。
映画版「カラフル」を息子と一緒に見た勢いで、原作を読んだ日が懐かしい。

彼女の本は処分。
売りもしなかった。
捨てたのだ、ゴミ箱に。

そんな過去がある私だが、
あのひろのが書いた角川つばさ文庫の「浅田真央物語 Princess Mao」をガン無視したままだったので、今なら読んでも破り捨てない自制心がある気がして、図書館から借りてきた。

全編へどが出そうだったが、私が知らないことも情報として書いてあったので、そこは面白く読めた。

よく知られているのは、浅田選手の母、匡子さんが、舞&真央姉妹をバレエのための足首強化のためにフィギュアスケートに連れて行ったことである。

匡子さんが尊敬したバレエダンサーが「ニーナ・アナニアシヴィリ」。

このバレリーナが最初フィギュアスケートをしていたために、足首が強かったという話を匡子さんが知っていらしたため、娘たちをスケートリンクに連れて行ったということだ。

wikiによれば

ニーナ・アナニアシヴィリ (具:ნინო ანანიაშვილი, 英: Nina Ananiashvili, 1963年3月28日 - ) は、グルジア共和国のバレエダンサー。2004年よりグルジア国立バレエ団芸術監督、および付属のチャブキアニ・バレエ学校校長。

ボリショイバレエ団のプリマ・バレリーナを20年以上、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のプリンシパルを16年務めたが、2009年6月、ニューヨークでの 『白鳥の湖』 公演を最後に、ボリショイに続いてABTからも引退した[1]。今後はグルジア国立バレエ団で指導をしながら出演を続けるという[2]。

シルヴィ・ギエム、アレッサンドラ・フェリ、M=C・ピエトラガラとともに、1980年代後半~2000年代を風靡したバレリーナの一人である。

地質学者の父親、言語学者の母親の長女としてトビリシに生まれる。先祖はグルジアの貴族だったが1930年代に粛清され、父親は男性としての唯一の生き残りであったという[3]。4歳でフィギュアスケートを始め、10歳のとき地区大会で優勝、その後誘われてバレエに転向した。地元のトビリシ・バレエ学校で学んでいたが、13歳のときにモスクワの関係者の目に留まり、ボリショイ・バレエ学校に編入した。






ニーナ・アナニアシヴィリ
ニーナ・アナニアシヴィリ

グルジアと言えば、エレーネ・ゲデヴァニシヴィリを思い出すが、顔だちも同じ系統な気がする。
美しい人。

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引退公演が「白鳥の湖」だったそうだ。
浅田の「白鳥」をお母様はきっと喜ばれただろう。


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ニーナ・アナニアシヴィリ の黒鳥の32回グランフェッテも
瀕死の白鳥もつべで見てしまいました。

ドン・キホーテも、華があって力強くて、素敵です。
この方がいなければ、フィギュアスケーター、浅田真央もいなかったのかも、と思うと、不思議な気持ちです。
浅田選手とはタイプも全く違いますが、美しい。


https://www.youtube.com/watch?v=vk1Nokw232k

こちらから、「Nina Ananiashvili in Swan Lake 」が見られます。
リンクができないタイプのようですので、youtubeでどうぞ。




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2015
10.07

氷上のソリスト

プリンシパル、という華々しさとは少しだけ違った。

町田樹の「継ぐ者」だ。

ジャンプに衰えもなく、
淡々としたピアノ曲なのに全く飽くことがない演技だった。

もしかすると現役選手よりも
身体の動きはキレていたかもしれない。

バレエダンサーを氷上で見ている、そんな時間だった。

これまでの演技に見られた力みは、
バレエのレッスンでポジションを確かめるような僅かなタメにとって代わった。
美しかった。

最後にわずかに足にきている揺らぎを見た時、
6分もある演技だったことを思い出した程、
あっという間。

このまま競技に復帰できないものかと
今さらながら、残念だった。



滑走路をぶっ飛んで行ってしまった後に、
こんな演技を見せてもらえるとは。

ありがとう。




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2015
10.05

蝶々夫人

Category: 浅田真央
「マダムバタフライ」という名のバラがあるそうだ。
淡いピンクの可憐さ。

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浅田選手については、落ち着いてからと思っていたが、
落ち着いても時間をかけても、とてもきちんとしたものは書けそうにないので、忘れないうちに
素人目の感想だけ。

6分間の時に何度か確認していた2A3T。
最初の2Aがでかい。
セカンドの3Tが高い。
3Aは入りの確認は何度かしていても、今までのように
何としても跳んで確認しておきたい、という感じではなかった。

クリック女子にはいい思い出がない。
だから余計、3Aが認定されたかどうか、それだけが気がかりだった。
リーザも回りきっての転倒になっていたらしい。
彼女がいることで、回ってるだろっ!という浅田の3Aを
試合によっては絶対に認めない、ということはできにくくなるのでは、とかすかな希望を抱く。

どのトリプルジャンプも、あのふわり感。

ローリーの振付は、「浅田真央」の蝶々夫人であって、バタ臭さは鼻につかない。

浅田の儚さ、芯の強さ、花びらのような個性が、このプロを成功させているように見える。

スピンもステップも、新鮮だった。

浅田が、音楽を完全にものにしている。
そういったところも、彼女が「コントロールできた」一つかもしれない。

彼女の言葉通り、3Aでさえ、エレメンツの一つ。


さて、『蝶々夫人』はアメリカの作家ジョン・ルーサー・ロング作の同名の小説を元にしたダヴィッド・ベラスコの戯曲。
ロングの小説から、時代は日清戦争があった1894~5年頃の19世紀末、舞台は長崎の長崎港を見下ろす丘の上にあった外国人居留地と推測されているそうだ。
普通に考えると、修学旅行でお馴染みのグラバー園側から港を眺めて暮らしていたイメージなのだが、原作では「ヒガシヒル」、つまり東山手という、「オランダ坂」側に住んでいたことになっている。
ここからでは港は見えにくいようだ。
現地に行かずして書かれた小説だということで、実際の地理はどうでも良いわけだが、勝手に南山手からの風景を想像していたものとしては驚きだ。

世界の檜舞台、ロンドンのアルバートホールで演じた蝶々夫人が大成功を収めた日本人プリマドンナ三浦環。
プッチーニからも「世界にただ一人の、もっとも理想的な蝶々夫人」と最大級の賛辞を受けたといわれている。

今、プッチーニが浅田の「蝶々夫人」を観たら、何と言うだろう。

「世界にただ一人の、もっとも理想的な蝶々夫人」は、間違いなく浅田真央だと言われるだろうと信じてしまう。


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2015
10.02

MY BEST トリプルアクセル

Category: 浅田真央

「MY BEST SHOW ~スゴい人自ら選ぶNo.1~'」

テレビ東京
2015年10月2日(金) 19時00分~20時50分
http://www.tv-tokyo.co.jp/mybestshow151002/

明日553日ぶり完全復活“浅田真央”緊急出演!!独占取材で明かす自身最高のトリプルアクセル



1日12時間の練習の合間を縫って、真央ちゃん、番組のために選んでくれていました。
「MY BEST トリプルアクセル」!!!

「ひとつだけには決められない」ということで、思い出深いジャンプを挙げてくれました。

ところどころ、「はい?」と突っ込みたくなるところもなきにしもあらずでしたが、
ソチの6種8トリプルについての言及は勿論のこと、
これまでスルーされ続けてきた浅田選手の偉業を
ポイントポイントで押さえていました。

よっしゃ。

写メの画質が悪すぎるのですが、とりあえず貼るだけ貼っておきましょう。

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ちゃんと「伊藤みどりに憧れて」という夢をいれてくれましたね。

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2002年、小学生ながら特例で出た全日本の話も。




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伊集院光さんが言ってくれました。

「今、しれっと流してましたけど、最後に言った
『今日の練習の方がベストジャンプだと思います』って、すごくない?

あれだけのもの見せて、ブランクがあって、今、復帰戦寸前で、それ言われちゃうと、またオレらすげえもの見せてもらえるのかな?って。」




すごいですよ、そら。
浅田真央ですから。


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