2017
07.11

my垂涎本

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あかね書房の推理・探偵傑作シリーズは、1975年頃が初版だったと思う。
責任編集にあの『福島正実』が名を連ねる。

黄色い部屋の秘密 (推理・探偵傑作シリーズ 15)


『オペラ座の怪人』を書いたガストン・ルルーの状態の良いこのシリーズの本を見つけて、即買い。
綺麗だと思ったら1997年に再販されたものだった。

シリーズのお仲間には『少年少女世界SF文学全集』もあって、昨日古書店ではこちらのシリーズまで見つける時間はなかったが、次は必ず見つけ出そうと決めている。

私が小学生の頃、このシリーズは出版されたばかりだったはずなのに、誰も来ない図書室の本は、もうすでに落丁があったり傷みが激しかった。
図書室の書架から外れてしまったページを探し出し、1人で補修して読んだ。
推理小説の数ページが欠けているだなんて、残念すぎる。

このシリーズで海外の有名どころの推理作家を知った。

翻訳に勢いがあり、選び抜かれた作家と作品は、私をそのままハヤカワミステリや創元社文庫に誘った。
『各務三郎』の名前を小林信彦の本で見つけた時の興奮といったらなかった。

『World Famous Mystery Stories 』
原題のタイトルが裏表紙に載せてある児童書の翻訳本なんて、今時あるだろうか。

しかも海外大人向けの基本のキ、を児童向けにした一流の翻訳で。
ルビが振ってあることは当然だが、小学生が教わらない難しい漢字はひらがな表記にしてある。

翻訳そのものが子ども向けなので非常にわかりやすい。

挿画は『横山まさみち』と、これまた珍しい。この方の作品では、間違いなく異色の仕事だろう。

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2017
06.14

路面電車の休日

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『袋小路の休日』

小林信彦の連作短編集。

乾いた、と評されるクールな文体で東京の人、街の変貌をスケッチしたかのように描く。

文字で残さなければ、という小林の意識がそこここに感じられる。
私小説に限りなく近い文学。

彼以外に誰がこの高度成長期の東京と、そこに生きる人々をこんな風に描けただろう。

彼の物事の捉え方、笑いのセンス、透徹する目。
全てが教科書だった。

芥川賞、直木賞に5度もノミネートされながら受賞を逃した。

山田詠美が直木賞を獲った時にもノミネートされていたというから驚きだ。

今これを読むと、解説とは違う見方になってしまう。
小林信彦はその時代には早すぎる才能だったと言うが、
同時にバブル期に咲くには遅すぎた文学、だったのではないか?

小林氏御本人が1番良く描けているとあとがきで述べた『路面電車』。

瞬く間に東京から路面電車が消えて行った頃。
最後に残った都電荒川線に娘を乗せてやろうと
主人公は家族で出かける。

ところが
荒川線の始発が早稲田からなのか、
早稲田のどの辺りに乗り場があるのかも心許ない。

結局早稲田から王子で一時下車、飛鳥山で子供を遊ばせる。

『東京からずいぶん離れてしまった気がする』

主人公にとって、当時の王子は東京ではなかった。
何しろ転居した先を三鷹辺りかと思って読んでいたら、杉並だと言うではないか。

この辺りがとても興味深い。

『街』でも環状7号線ができる前後の街の変わり様が描かれる。

ゴリオを連れて環七を通るバスで王子に向かい、飛鳥山で遊んでから都電で荒川まで足を伸ばしたことがあった。
クタクタになったあの日をふと思い出す。

小林信彦の描く世界に、自分との接点は一つもない筈だった。

まさか彼の小説で、時代もシチュエーションもこれ程違うにも関わらず、
何か郷愁めいたものを感じるとは思いもしなかった。

奇妙な感慨を胸に、『唐獅子』の世界へまた舞い戻ることにしよう。

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2017
06.13

カエルの君

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『青木雨彦』

紫陽花の頃、雨といえば思い出すのが、コラムニストだった青木雨彦のことである。
最初に出会ったのが、高校生の時、この『夜間飛行』だったと思う。

私が只一度、著者のサイン会の行列に並び、サインを貰った人である。

おじさんおばさんの列に1人混じった19か20歳の私は、場違いな雰囲気に恥ずかしくて堪らず、
終始俯いていた。
青木氏の顔は、見ることもできなかった。

ミステリを語りながら男女のなさぬ仲をいつの間にかチョロリと読ませる。
彼が書くサラリーマンの背中は、カッコ悪く、憎めなかった。
照れくさがりな人柄が滲むコラムを夢中で探して読んだ。

評論家という肩書きも、ご本人の容姿コンプレックスから『雨彦』と名乗るお茶目さにかき消えてしまう。
堅苦しさも難解さもない文章の数々。

堤中納言物語の『虫めづる姫君』が蛙につけた『雨彦』がペンネームの由来だったと記憶している。
違ってたらごめんなさい。





訃報を知って以来、悲しくて一度も彼の本を開いていない。

あの頃の彼の年齢になった今なら、もう一度読めるかもしれない。




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2017
06.06

出会いのタイミング

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『あしながおじさん』を数十年ぶりに読んだ。

言わずと知れたウェブスターの名作。
アステアの映画は借りてきたのに見ることができなかった。

原作もアステアも好き過ぎて、どちらのイメージも壊したくなかった。

大人になって読み直すと、以前は気づかなかったことに気がつくものだ。

ジューディーが『普通の女子学生』の中に入る時の第1のハードルは、皆が成長過程で当然知っているはずの一般常識的事柄がすっかり抜け落ちていたことだった。
たわいない冗談も『メーテルリンク』もわからない。

そこから彼女は猛然と読書を始める。

どんな本を読んだのか、その内容の彼女的解釈、感想、文体、登場人物の言葉を真似て『おじさん』に手紙を書き送る。

女性に参政権がなかった時代に、この手紙は読み手の「ミスター・スミス」にとってどれほど痛快で画期的なものだっただろう。

辛かった少女時代を『今この瞬間を生きることにする』ことで徐々に克服していくジューディーは、
ユーモアと客観性に富んだ物の見方で、学生生活を謳歌し、作家としてデビューする機会を得る。

この本のチャーミングな所は、惨めな思いをして育った「孤児」が知的な、でもごく普通の女子に変貌していくところでもある。
スイーツや服や帽子や靴、室内装飾、家具に至るまで、その抗いがたい興味関心がつぶさに描かれる。

さて、それにしても、だ。

自分が思っていた本の世界の数十分の一しか、実は文字としては描かれていなかったことに今更気が付く。

何度となくこの本を読み返していた頃は、きっと本の文字の間に埋もれる未知の世界を『想像』で膨らませ、はっきりと本の世界を脳内に描きながら読んでいたのだろう。

人生のどの時点でその本に出会ったか。
その映画に、音楽に出会ったか。

これはとても重要なことではないのだろうか。

もし今、私が初めてこの本の読者になっていたとしたら。

この時代のこの階級のお金持ちの言うところの「コミュスト」、「フェミニズム」がどの程度のものだったかを調べ、
慈善施設を作ることの困難さをクリスティーの「魔術の殺人」と比較もするだろう。

本の中に描かれなかった「抜け」にツッコミを入れ、
所詮「シンデレラ」だなんて、思ったかもしれない。

人と出会うことも同じ。

人生のどの時点でその人と出会っていたら、どう変わっていたかわからない。

岩波書店の箱付の本を今も大切に持っているのに、
本がこれ以上いたむのが嫌で、文庫本を買いなおした私は、

『あしながおじさん』に9歳で出会って、幸せだった。


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2017
05.13

Chitty Chitty Bang Bang

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『わたしの絵本、わたしの人生』
ジョン・バーニンガム/著

高かったが、どうしても買わずにはいられなかった。

IMG_0431.jpg



この素晴らしい挿絵は、007シリーズで有名なイアン・フレミングが書いた、あの『チキチキバンバン』のためにバーニンガムが描いたものだ。

バーニンガムの挿絵に、フレミングは殆ど注文を付けなかったそうである。

この本の挿絵がバーニンガム、映画の脚本はあのロアルド・ダール!

『チキチキバンバン』は私が本当に小さな時、初めて映画館で観た映画で、洋画好きな母に連れて行かれた記憶がある。

IMG_0433.jpg


ジョン・バーニンガムについては➡Whadayamean で一度書いているのだが、「わたしの絵本、わたしの人生」を読むまで、「チキチキバンバン」の本の挿絵については全く知らなかった。


1年ほど前、バーニンガムの絵本『いつもちこくのおとこのこ』の朗読をさせて頂く機会があった。

原題にもなっている、主人公の名前、
『ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー』と書かれた、そのままを読むことに違和感が拭えず、原書で読み直した。
「マクヘネシー」ではリズムが取れなかった。

これ程名前を繰り返すには、何か意図があるはずだ、と思っていたら。
絵本の中で主人公の名前が何度も繰り返される理由は、バーニンガムの本で解き明かされる。

『法廷では、被告人はフルネームで呼ばれるという慣習がある』

これにヒントを得てこのタイトルと文章になったのだそうだ。(私の絵本、私の人生p158より)


『良心的兵役拒否』。
バーニンガムについて調べていると必ず出てくる言葉だが、
戦時下のイギリスにこんな制度があったことを全く知らなかった。
彼の父は一度兵役に就いたのだが、
第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じ、親子2代でこの「良心的兵役拒否」を選択している。

「何でも屋」のように、トレーラーハウスで各地を回りながら様々な仕事を無償で行う。
それが良心的に兵役を拒否したものの仕事だった。

彼の作品を数多く収めたこの本には、その生い立ちについて辛かったことは何も書かれていない。

学校生活でも、売れない画家だった時も、
彼は洒落者で、ちょいワルで、そしてアーティストだった。

最初の絵本、『ボルカ』以来、強烈な主張があるように思って読んでいたが、
自伝に書かれた絵本に込められた思いは意外なほどサラッとしている。

表現しているものの豊かさと、彼自身のあっさりとした軽やかさに、ますます魅了されている。


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2017
05.09

「たつのこたろう」も少年だった

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「赤神と黒神」は2人の男性に慕われるモテ女子の話だった。➡「赤神と黒神」

今回、松谷みよ子の名作『たつのこたろう』=少年ジャンプ説を私は唱えたい。

私が読んでいるのは絵本なので、元の話はかなり端折られていると見た。

にしても、パロディーにしたらワンピースっぽくなった、というより、
話そのものがアクションシーン満載のマンガなのだ(と、私には読めてしまったので松谷さんの偉大な本を尊敬こそすれ揶揄する気持ちはみじんもございませんm(__)m)。



たつのこたろう (新装版日本の名作)
松谷 みよ子 (著)



以下は絵本のざっくりとしたストーリーと、一部私のツッコミですので、
物語はネタバレしております。


―たつのこたろう―

父は無く、母は青龍にされ、自分の目玉をお乳の代わりにたろうに与えて姿を消した。

たろうは母の目玉をしゃぶって育ち、村では『たつのこ』と囃し立てられながら、ばあさまに育てられた。

ばあさまの作る団子を食べ、只ぶらぶら暮らしていた彼に、ある日「あや」と言う名の友達ができる。

彼女は横笛を吹く少女で、笛でけもの達を魅了する能力者だが、ある日鬼にさらわれる。

突如として目覚める たろう。

鬼退治に行こうとする たろうに、ばあさまは天狗の最強アイテム、『力のつく酒』をもらって行けと言う。

団子ばかり食べてぶらぶらしていた時にそれを言ってあげていれば、
彼ももう少し早目に覚醒したんじゃなかろうか?

でもそこはそれ、たろうは赤天狗と白天狗の酒を無事に頂いて、最強のパワーを手に入れる。

たろうは太鼓好きな鬼を投げ飛ばし、あやを奪還して帰ってくるが、
ただ投げ飛ばして来たわけではなかった。

赤鬼は空へ投げられ、彼が望む雷様になった。
黒鬼は望んだかどうか知らないが、岩となって動けなくなった。

考えると、鬼たちは音楽が好きなだけだった奴らではないのか。
バンドのメンバーに「横笛」を加えたかっただけではないのか。

でも鬼はいつの日も悪者にされるので、
鬼退治を果たした たろうは、ふもとの村で大そう感謝される。

見返りは米の握り飯だったが・・・。
もしかすると、その握り飯は天狗の酒の数百万倍のパワーを秘めた握り飯だったかもしれない。

さて、たろうは、ふもとの豊かな村で広い田畑を見た。

そこでばあさまの待つ貧しい村にも、こんな土地があったらなあ、と何がしかのミッションを感じる。

たろうは握り飯をもらって、そのまま母を探しに旅立つ。

途中ふしぎな婆様に出会い、これから先に待ち受ける困難を諭されるが、もちろん先へ進む。

9つの山を越え、勇敢に困難を乗り越えてゆく。

婆様の予言通り、雪女があらわれ、たろうは道を阻まれるが、そこに黒鬼退治で奪ったらしい白馬に乗った「あや」が助けに来る。

1日百里(約3.9km×100=約390㎞)走る、という触れ込みで登場した子馬
(ちなみに百里= 「JR中央本線 東京駅―名古屋駅 : 396.9km」“Yahoo知恵袋より”なので現代ならどうってことはない)
は、なんと東京―名古屋間どころか空飛ぶ白馬となって あやと再登場した。
すごいバージョンアップである。

白馬は2人を母の住む五色に輝く湖に運ぶ。

もちろんナビなど付いていなくとも、白馬には何もかもわかっているのだ。
理屈などいらない。

湖に到着した たろう。
「のどから血がでそうなくらい」叫んでも湖から母が出てくる気配はない。

しかし「お通さん」(吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場する)かと勘違いしそうな『あやの横笛』の能力により、
湖は真っ二つに裂け、
サンダーバードならぬ、龍となった たろうの母が現れる。

母が龍にされたのは、村が貧しく食べ物が足りなかったせい
(この山国では「一人で岩魚を三匹食べると贅沢な所業とされ龍になる」という悲しいオキテがあったんで)
だとわかり、
たろうは湖を開いて田んぼにしようと、母である龍の背中に乗り、山にぶつかっていく。

と、そこに現れたのは、かつてたろうと戦ったあの赤鬼ではないか!
しかも仲間を引き連れて。

鬼たちの手助けもあり、湖の水は川となって海へ流れ落ち、平野が生まれた。

そして青龍は、母の姿に戻った。

//////////////////////////////

いやこれ、少年ジャンプでしょ、と思うのは私だけだろうか?

後は黒鬼なんかが実の父親だったら、
コンプリート?

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2017
05.04

アンでダイアナで

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CMでもよく見る眼鏡型ルーペで続けざまに本ばかり読んでいたら、目・肩・腰、全身に痛みが・・・。

そうだった。

私はハドソン夫人。
老眼鏡どころか、ルーペで目の疲れを癒さなければならないほどキテいたのだ。

最近読んだのは

重松清 『きみの友だち』

これは構成が・・・。
良い話だが読み辛かった。
この書き方を敢えて押し通してもそうしたかった理由があったのだろうとしか、思いようがない。
ただ、最後まで読み通して、本当に良かったと思える本。
2人の少女に、周りを囲む人々が時を行き交いながら交差する。
哀しみが根底にあるのに、きちんと救いもある。



さて、連休中もゴリオにも休みはない。
夜、夕食と洗濯が終わってからゴリオの弁当を作っておく。
ついでに私は夜型なので、掃除機の代わりに拭き掃除を寝る前にやってしまう。

家事が終わってから読み始めると、一晩で大体ハードカバー1冊が限度。
それでもかなり早いペースなのかもしれないが、
心動かされる本だったりすると後が大変。
しばらくボーっと浸ってしまうのでそのままでは眠れない。

「きみの友だち」を読んだ日もそうだったが、
その前日もそうだった。



335531_xl.jpg

柚木麻子  『本屋さんのダイアナ』

作者の柚木麻子氏が好きだったという児童文学と私のそれとがほぼ重なっているのでこれはたまらなかった。

「ダイアナという友人がいたからこそ、アンは村の人々に受け入れられた」
確かにそうだったと記憶をたどる。

一応ダブルヒロインではあるが、敢えて言えば主人公にあたる大穴(ダイアナ)の少女時代は
まるでリンドグレーンの「長靴下のピッピ」。
小学校までのダイアナと、アンの役を割り当てられた彩子の役回りは逆のようにも読める。
作中のキーとなる、とある「本」の中のダイアナも勇敢なヒロインだ。

一方2人のヒロインが成長するにしたがって、マシューとマリラと現代のアンが「これ?」とばかりに主張を始める。

本書のダイアナとアンは2人とも美少女で、聡明だ。
どちらがアンでどちらがダイアナかなんて、あまり気にしなくて良いように思う。

作者がダイアナと彩子に其々託したものは、夢ではなく、現実世界のアンとダイアナだろう。
どちらもアンであり、どちらもダイアナ。

多くのレビューで「これはいらなかったのでは」と書かれていた「事件」と、その扱いの少し軽い印象も、
私はそう気にならなかった。
彩子の本当の人生(と払わなくてはならない代償)はこの後から始まろうとするのだから。

面白かったのが、「アンの愛情」からはアンのキャラクターが変わってしまって面白くないと主人公達が思っているところだ。

私は真逆で、一作目の「赤毛のアン」には正直うんざりしていた。
アンが大学に行く頃から好きになりはじめ、一番好きなアンを巡る登場人物は「ミス・ラヴェンダー」だった。

アンが流産した巻の悲しみの日々は、哀しい記憶として今も残っている。
本の中のほんの一部分なのに。

アンのシリーズは全て、幾度となく繰り返し読んだが、多分9歳頃から20代の終わりまででそれも終わってしまっていた。
カナダ制作のドラマは、何となく「口に合わな」かった。

それなのに、数十年ぶりにもう一度新しい「アンとダイアナ」に出会ってしまったら、読み終わった後も、しばらく涙は止まらない。

後になって自分でも驚いたのだが、
私は「ダイアナ」と自分を重ね合わせたことがなかった。
大人から「良い子」と見られた覚えも一度もない。

ひねくれた娘だった自分が
全く変わっていないことに、笑ってしまう。


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2017
04.26

活字中毒の業

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2017
04.21

はなのすきなうし

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2017
04.20

誰にも見えない

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2017
03.25

牛飼いになるには

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2017
03.11

沈黙の中の饒舌

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以下の日記は本の内容に踏み込んでいます。
キリスト教に関しては知らないことも多いので。
単に「沈黙」を読んだ感想を書いた日記ですのであしからず。 続きを読む
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2017
03.05

アマリリスが残すもの

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2017
02.19

Dilly Dilly

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2017
02.08

マオリ族の昔話(追記あり)

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3月公開のディズニー映画
「モアナと伝説の海」の元になったというニュージーランドのマオリ族に伝わる物語の絵本を読ませてもらった。

maui1.jpg
「Maui and Other Maori Legends: 8 Classic Tales of Aotearoa」
PETER  GOSSAGE /著


映画では風と海の守り神となっている「マウイ」が主人公。

最後の方はマウイは出てこないが、自然豊かな伝説が美しい絵と共に描かれる。

何しろ絵が素晴らしく大胆でアート。

maui2.jpg
太陽から放射される光を「マウイの綱」というように言うそうだが、その元となったお話の絵。
中央の男が持っているのがでかいハンマーのような魔法の釣り針(に見えるが、実は顎の骨らしい)

著者はNZでは有名なアーティストだそうで、昨年お亡くなりになられたということもあり、
現地でも今この本は数週間待ちでしか手に入らないという。

「モアナと~」
映画.com   http://eiga.com/movie/81261/

「アナと雪の女王」や「ズートピア」など、ヒット作を連発するディズニー・アニメーション・スタジオが、新たなヒロイン、モアナを主人公に描く長編アニメーション。監督は、「リトル・マーメイド」「アラジン」のロン・クレメンツ&ジョン・マスカー。南の島で生まれ育ち、海を愛する美しい少女モアナ。ある時、世界を生んだ命の女神テ・フィティの心が何者かに盗まれ、世界が闇に包まれてしまう。島では1000年にわたり、島の海の外へ出ることは禁じられていたが、モアナは愛する人々や世界を救うため、父親の反対を押し切り、テ・フィティの心を取り戻すための冒険に出る。やがてモアナは、伝説の英雄として知られる風と海の守り神マウイと出会うが、マウイこそがテ・フィティの心を盗んだ張本人だった。




映画も観てきた同僚は「すごくいい映画だった」と薦めてくれたが、私はこの絵本の方に釘付けになった。

このまま漫画にしてもいけそうなストーリー。
私が読んだ絵本は勿論英語だが、固有名詞がマオリ族の言葉で一杯なので私の能力ではわからない部分も多かった。
以下短時間にざっと読んだところの「マウイ編」前半部分のみ書き残すので、
くれぐれも正確なものではないとお含み頂きたい。
(この本、同僚の宝物なので職場でしか借りられなかった(T_T))

女神が、産んだばかりのわが子を海の神様に捧げようと海に投げる。
女神の赤ん坊は死なずに叔父に海岸で拾われ、マウイと名付けられ息子として育てられる。
ある日母のいない自分の出自を叔父に問うたマウイは母を探す旅に出る。
遠い道のりを経て彼は母に会うことができた。
しかし今度は母の謎の行動と、父が誰なのかが気になる。
母は毎日、地下に続く深い穴に入って姿を隠すのだ。
ある日母を追って穴に入ったマウイは、そこで地下世界の楽園的美しい浜辺で母と逢瀬中の男を発見。
母と一緒にいた男はマウイの父だった。
父に聖なるパワーを授かったマウイだが、父はそれを授けるとき、ほんのちょっとしたミスをするのだ。のちにそれがマウイのリスクになるような。

祖父がいることもわかったので祖父に会いに行くとその爺様は「マジックあごの骨」(注:なんと訳せば良いのかわからない。大きな釣り針の形だが、爺様は口の中に入れていた。入れ歯かと思ったらあごの骨だったようだ。)という究極の秘宝的、武器的なものを持っていた。
マウイは父からマジックパワーと永遠の命を授かったが、爺様の「マジック(あごの骨)」も欲しくなる。
策を弄して(毎日地上から爺様に持って行っていた食物をわざとあげないようにする)マウイは爺様からその秘宝を手に入れる。

爺様はこの武器を使うにあたり、マウイに3つ、注意をするのだ。
これがこれからのマウイの冒険の伏線になっていて、
読んでいくに従い、巻によってお供が変わる桃太郎的様相を呈する。

マウイはそこから
「思ったとおりに」行動を始め、爺様のウェポンを使って伝説となる冒険をしていく。
そしてクライマックスで「死の女神」を退治に行く、という話になる。



さあ、「神を退治に」行ったマウイはどうなるのか?

これが驚いたことに、「2001年宇宙の旅」を思い出させる不思議な世界なのだ。
この主人公、冒険編では原文で名前の後に「trickster」とカッコ書きで書かれているくらいなので
要するに元は「うつけもの」。
その彼が、最後に癒しの女神の手に抱かれ、もう一度生まれ変わろうとする。

絵の美しさと相まって、息をのんだ。

素晴らしい絵本。
子供にも理解でき、若者はワクワクするだろう。
そしておばちゃんはその絵の美しさ、話の面白さに圧倒された。

映画はともかく、本は何とか手に入れたい。
高いから買うのは辛いけど。

あ、つべでも探せば見られるらしいので、興味のある方はそちらで。
私は週末につべで楽しむ予定。

2/14 追記

随分前に、マウイ伝説の一部が翻訳されているのを見つけた。

「マウイたいようをつかまえる」
ピーター・ゴセージ/作 浜島代志子/訳 MOE出版


maui.jpg

翻訳がわかりやすくて素敵。

絵の大胆な迫力もそのままに、原書の良さを存分に引き出していると思う。

これ、今回載せた原書もそのまま翻訳して頂きたいと切に願う。


もひとつ追記

このマウイの神様のマジック釣り針は「さそり座」の伝説としても残っている。
星座の本や神話に出てくるマウイは「トリックスター」などではなく品行方正な神様で、
この本では爺様にもらった釣り針は、婆様に貰ったことになっている。

しかも本によって兄弟の数がマウイの他に3人だったり4人だったりし、
彼らが本当の兄弟だったかのように書かれている。
婆様に食事を持って行かなかったのも悪い兄弟たちの仕業で、
マウイだけが食事を持って行ってあげたため、婆様が自分の顎の骨を取って「これで釣り針をつくるんだよ」とマウイに与えた、という話になっていたりする。
色々な話があるのも伝説や神話の特徴だろうが、ゴセージの描くマウイには何をしでかすかわからない魅力がある。



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2017
01.27

全員探偵団でチェロも弾く

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パソコンを開く余裕のなかった間も、寝しなの本は開いていた。
1度に何冊も読むのは好きではない。
でも致し方ないこともある。

「読書日記」や「記録」を付けている方々は偉いと思う。
読書系のWebサービスやSNSもわんさかある。
使いこなせれば本当に便利だ。
私にはそういうことができない。
「きちんと」記録を残すということができない。
なので日記に時々忘れないための記録を残すのみ。

最近読んでしまったり、読んでいる途中だったりするものが以下。

森見登美彦   「四畳半神話大系」 角川文庫
まはら三桃    「伝説のエンドーくん」 小学館
万城目学 他  「みんなの少年探偵団」 ポプラ社
藤谷治      「 船に乗れ!Ⅰ合奏と協奏」 JIVE 
フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 早川書房
中島敦 小前亮現代語訳   「山月記」  理論社
森見登美彦   「新釈 走れメロス 他四篇」 祥伝社





『四畳半神話大系』
そもそも森見登美彦の「夜は短し~」がアニメ映画化されるというのでBSうじで「四畳半~」が再放送され始め、私はまたしてもあのアニメにハマってしまっているのだ。
毎日毎日時間があれば何度も繰り返し見ているのだから我ながらしつこいと呆れる。
オープニング音楽、声優の怒涛のナレーション、同じ登場人物が様々なサークル活動の中で暗躍するそこはかとない笑い。
原作の「森見節」は更に絶好調。
これは癖になる。

『伝説のエンドーくん』
まはら三桃の「伝説のエンドーくん」は軽く読み流せるのに、読みながら色々考えることも多い。
主人公たち学校の先生が一人を除き、皆類型的で感情移入できない。
ただ、作者がどうしても書きたかった、そこは伝わるし、泣ける。
途中で「エンドーくん」が何者だったのかは何となくわかってしまうのでそこは「ナゾ」ではないのだが、
あと書きを読むまでもなく、この人を描くため書いたのだという動機が美しい。
「風味さんじゅうまる」はまあまあ好きだったのだが。


『みんなの少年探偵団』
乱歩の「少年探偵団」シリーズを見事に新しく蘇らせた5人の作家による短編集。
他にも表紙も中身も「乱歩」を模した同じシリーズが数巻出ている。
この巻で一番好きだった「解散二十面相」を書いた藤谷治が、あの「船に乗れ!」の作者?と驚いた。
そこで
『船に乗れ!』
主人公の経歴は殆ど作者そのものだという。
「船上でチェロを弾く」を読んでもあの「森見節」と重なるところがあってとても好きだ。
中身はバリバリのガチ「クラッシック音楽」なのだが、筆の運びで読ませる。
この藤谷さん、「みんなの少年探偵団」シリーズでは第二弾「全員少年探偵団」も書いており、タイトルだけでも今すぐ図書館に走りたくなる。
ラストはお決まり「ワッハッハッハッハ! アーハッハッハッハッハ!」と空のかなたへ去っていく二十面相。
愉しい。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
これは言わずと知れた映画「ブレードランナー」の原作。
映画の方はよくわからないというのが正直な感想だが、
小説は紛れもない傑作だと信じる。
映画のオープニングとは全く違う「朝」の迎え方から小説は始まる。
小説世界にこちらが馴染むまで、作家はゆっくりと人類の発達した科学力を見せつけてくれるのだが、
これだけのものを作ることができる人類が「死の灰」ひとつどうにもできないところが怖くて不思議だ。
「死の灰」と被爆国日本を結び付けたのがあの「ブレードランナー」の映像世界なのかと穿ってしまう。
映画だけ見た時には暗い「未来」はアジアン文化が生き残るのか、くらいにしか思っていなかった。
人間がいかに「自然」を希求するのか。
絶望的な灰色の世界で生き続ける主人公を始め、どうしようもない「人間臭さ」をSF世界で描き切ったところに私は感嘆する。
単なるアンドロイドと人間の戦いが、私にはこの本の主題とは到底思えなかった。

『山月記』
これは短編なので昼食時に読んだ。
なぜ今?
ああ、昭和のミーちゃんハーちゃんは今も変わらず。
要するに今「文スト」と呼ばれる「文豪ストレイドッグス」の主人公を再び読んでみたくなっただけという・・・(=_=)

『新釈 走れメロス 他四篇』
森見節を更に味わいたく、でも「有頂天家族」も何なのでこちらにしてみた、というのでこれ。
森見ワールドが思い切り「山月記」「藪の中」「走れメロス」「桜の森の満開の下」「百物語」で楽しめるのでこれは買いだと思う。
「文スト」からこちらにスライドするのもアリ、だと思う。
「山月記」が良かった。
森見ワールドを知らない人は、この極端なパロディーには入り込めないかも。

チェーン読み、とでも言うのか。
ひとつ読んでいて作者や作品を調べていくと次に繋がってしまう。

私は今それどころではないのだ。
メインディッシュは「袋小路」なのだ。

小林信彦コレクションを揃える。読む。
「袋小路の休日」をゆっくり読む。何度も読む。
自分の「ホーム」を確認しながら、
新しい本を開く。



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2017
01.07

レッツゴー ROAD TO THE DEEP NORTH

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『ちはやふる奥の細道 (新潮文庫) 』

tihayafuru.jpg


小林信彦/著

W.C.フラナガンという、日本文化研究における第一人者と自称する架空のアメリカ人が書いた“芭蕉と日本”を、あの小林信彦が翻訳した、という設定の元で書かれた、小林信彦による著書。

なんだか回りくどくて面倒くさいのだが、実際の著者は小林信彦ということだ。

私がこの本と再び出会ったのは、PTAの会議場になった、ゴリオ(仮名)の学校の図書室だった。

なんと、「俳句・短歌・和歌」のコーナーに置いてあった。

1人笑いが止まらなかった。
もしかすると、中身を知らずに「松尾芭蕉とか、俳句とかの勉強になるかも」と、
選んで本棚に置かれたのだろうか?

真面目な生徒や先生がこの本を開き、ページが進むごとに

『なんか、変?』と

珍妙な顔になっていく有様が目に浮かぶ。

これが意識的に置かれたものであったとしたら、
それこそ素敵だ。

実際、この本は疲れる。
注釈が多すぎるし、一行たりとも笑いを逃さず読まないわけにはいかないからだ。
悪ふざけもここまで高度になると、「ええい、もうわかるところだけ笑っておけ!」と
「すべて」を笑うことに匙を投げてしまう。

この本を一番楽しめるのは、小林さんご本人だろう。

「唐獅子株式会社 (小林信彦コレクション)」を注文したが、すぐに届く様子はない。

ということで、この「ちはやふる奥の細道」がうまく手に入ったので再読している。

不思議な時空の超え方、オールスターキャストっぽい登場人物。
大人の「銀魂」のようで、やはり楽しい。
待ちわびている「唐獅子」の世界と同じ匂いがそこここに感じられるのがたまらない。

光圀公の登場シーンなんて、まるでオヨヨ大統領その人のようだし(笑)

巻末の「作者ノート」には、本書出版当時新聞や雑誌に書かれた、実に微妙な感想を述べたコラムや書評が紹介されている。
それらがまた本書の抜群のパロディーになっていて、最後の最後までクスクスと笑わせてくれる。
様々に誤解曲解されながら今日まで生き続けるW.C.フラナガン。

これからも、ひっそりとどこかで、
「俳句」や「紀行文」のコーナーなんかに置いてあると、楽しいだろうな。













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2016
12.27

ライムライトの君の名は億単位の価値がある

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「自分と戦うからだよ。諦めてはいけない。幸福のための戦いは美しい。幸福は実在しているよ。」


映画「ライムライト」より

私も道化師となって、真央ちゃんにこう言ってあげたい。


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2016
12.24

「絵と言葉で語る」―アリスの同類

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本当は全日本の後にゆっくり書くはずだったが、
今夜の試合を思うと落ち着いていられないので、先に書いてしまおう。
但し、私の中で不消化、不勉強なままなので、この記事は随時更新となっていくかもしれない。

今年読んだ中で、一番面白かった本。

この本一冊の価値は、諸々の本をもっと読みこまなくては私などには理解できないだろう。
豚に真珠と言いたくなるほど、私には珠玉の本だった。

鳥獣戯画などの絵巻物を、「十二世紀のアニメーション」として紐解いていく、あのジブリの高畑勲氏による著書である。



「十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」高畑勲/著
徳間書店



「紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている」 
佐々 涼子 (著) 早川書房
この本で日本の製紙技術と職人魂に、いたく感動を覚えたのだが、まさに日本の「製紙技術」はこれまでも繋がれ、これからも繋ぎ続けていかなければならない「技(わざ)」なのだと思う。

さてこの「紙」の技術の上に、何故日本人がこうもアニメーションの世界で、世界でも稀に見る「大国」となったのか。


高畑監督という、アニメーション映画の監督にしか描き得なかった絵巻物の解説本。
傑作だと私は思っている。
「マンガやアニメ」との歴史的つながりから更に踏み込んだ「カメラのアングル」で語る内容は、二次元世界を三次元に引き上げるかのようなものだ。

冒頭で高畑氏は、「なぜ日本でマンガやアニメが盛んなのか、その根本にひそんでいる最大の要因」を外国で説明するならば、『鳥獣人物戯画』や『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵詞』を見せる方がずっと早道だと書いている。

しかもこれらは850年近く以前に書かれたもの。
これら連続式絵巻が、アニメ的、マンガ的であり、いかにカメラを用いずして、同様の効果を上げているか、人々や動物の姿態や表情をマンガっぽい「線」で捉えているか、速度感をあらわす「流線」や、現在のマンガやアニメを思わせる表現が当時すでに用いられていたかを、著者は絵巻物の画面に往復する物語の流れを読み解きながらわかりやすく解説してくれるのだ。

「ドラマが繰りひろげられる」という言い回しも元をたどれば絵巻物に行きつき、浮世絵や草双紙にを劇画的映画的表現がすでに含まれていることなど、当たり前のように読んできたマンガ、アニメの世界が実に奥深く、ある種の「日本人論」と言ってもよいほど的確に述べられている。

日本のマンガやアニメを定義づけ(これは読んで頂いた方が楽しい)、それらが突然出てきた文化現象ではなく、長い伝統に位置付けられるものであること、それを絵巻物のページに現代の映画の手法を見出しながら「繰り広げて」いく。
こんなに難解なようでワクワクする本にはそうそうお目にかかれないと思う。

日本人は漢字を、(言語とは違う部分だと私は理解したのだが)仮名とは違う脳の別の部分に蓄えているらしい。
漢字を視覚的イメージとして、つまり殆ど「絵」として捉えているという話には頷かざるを得ない。

この本の「はじめに」を読むと、高畑氏自身がこの本を読む私たち同様、絵巻物と映画的・アニメ的表現の類似性を指摘した論評を、ときめきを持って読んでこられたと記してある。
何故「鳥獣戯画」なのかも、ここを読むとわかるようになっている。
画面における構図の重要性が見るものに伝わる。

絵巻物は、その見方によってカメラが移動し、パンした時と同じように見え、移動の速さも視野の広さも自在に変えることができる。
実に不思議なカメラワークが一枚の紙の上に連綿と広がっていくわけなのだ。

どのような頭の構造をしていれば、このような絵物語を描き得たのか、想像もつかない。
絵巻の絵の流れに沿ってひとつひとつを丹念に読み解いていく、著者の眼のその繊細さに驚く。

移動撮影、パン、水平アングルなどなど、著者の解説によって、
「昔の貴重な絵巻」が、俄然生き生きとした映像に見えてくるのだから不思議だ。

十二世紀の京都の絵師たちが、中国伝来の表現法を学びながら「絵画に時間軸を導入し」、ついに「時間的視覚芸術」を産み出したと結論に持っていくまでの目から鱗の数々。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H3P_S6A001C1CR8000/

鳥獣戯画、絵順入れ替わる? はけ跡から判明
日本経済新聞 2016/10/2 22:01

 京都市の高山寺に伝わる国宝絵巻「鳥獣人物戯画」(平安~鎌倉時代、甲乙丙丁の4巻)の甲巻について、絵順の入れ替わりが和紙に付いたはけ跡から裏付けられたことが、2日分かった。このほど出版された修理報告書「鳥獣戯画 修理から見えてきた世界」(京都国立博物館編)で明らかにされた。


 従来、絵に連続性がない箇所があることから入れ替わりは指摘されていたが、和紙の調査でも確認され、よく分かっていない制作当初の姿を知る手掛かりとなりそうだ。
nikkeic.png



秋に話題になった日経の記事を読み返してみた。

製紙工程ではけを使って和紙をなでた際に付いた筋の跡がつながることが判明。



この記事は2016年10月のもの。

高畑氏の著書の初版は1999年。
私の手元にある本は2015年の五刷。

けれど134ページでは日経の記事の「新たに連続する場面とわかった」はずの、23紙に続いてそのまま11紙がすでに続きで掲載されている。
記事によれば2009年の修復時からすでに想定されていたことが、2016年に証明されたということかもしれないが、それ以前から研究者の間では通説となっていたのか。

高畑氏の134ページの記述にも、23紙から11紙の間に

「復元でつながったサルの僧へ鹿が届けられる場面はすっかり俯瞰となるが」

とある。

これが近年訂正されたものでないとすれば、当時から相当な研鑽を積まれて書かれた本かと思われるが、出版当時はどのように見られていたのか興味深い。

この記事タイトルの「アリスの同類」とはいかなるものなのか、読んでのお楽しみである。
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2016
11.24

二番目の悪者

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2016
10.14

イノセンスとナンセンスの間(10/28)追記

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「絵本ジョン・レノンセンス 」
ジョン・レノン (著), 片岡義男 (翻訳), 加藤直 (翻訳)

Amazon内容紹介より


奔放自在なことばあそび。つぎつぎに生み出した詩、散文、ショート・ショート。余白せましとちりばめられた自筆イラスト――。ビートルズの天才詩人ジョン・レノンが、その底知れぬ笑いの世界をこの一冊にこめて贈る、ナンセンス絵本決定版。

出版社からのコメント
新版の初版には、片岡義男さんの特別エッセイを付録。




ええと、以下は音楽には全くド素人の私見のみで書いております。
「それ違うんじゃない?」というところも多々あるかと思います。
本を読んだら思い出した、程度の話ですので、
音楽にお詳しい方は、どうか読み飛ばしてくださいませ。



この本には、さすがのAmazonにもまだレビューが載っていない。
感想の書きようも、おススメのしようもないからかもしれない。
ちくま書房の文庫の方には2つほど載っていたけれど。

私は勿論、「有名になる前のビートルズが好きだった」という内容の、本文とはほとんど関係のない片岡さんの特別エッセイから読んだ。

そしてジョンが書いた本文を、少しだけ真似したかのようなポールの「序文」に、一瞬泣きそうになった。

「日本語に翻訳は不可能」と言われた「In His Own Write」は、「かたちの変化ではなく、口に出して言うときの音の変化」で紡がれた、意味をなさない、詩や散文、戯曲めいたものの集まりだ。

それでもショートショート的な話には、えっ?というオチがあったりする。
意味を考える必要はない。楽しめれば、というのは本当だろう。

少しダールっぽい感じだと言えば近いだろうか。
でも、形のないふわっと消えてしまう言葉の数々は、何にも例えようがない。

ジョンの挿絵はエッチングのようで素晴らしい。

片岡義男の解説には、原文を例にとってどのように翻訳を進めていったかが述べられているが、気の遠くなるような作業だっただろう。
私は不可能だと思われたこの日本語訳の語り口がとても好きだ。
声に出して読みたくなるほど。何度でも。
日本語の奇妙奇天烈な言葉の選び方も、全部気に入っている。

それらがどんなにヘンテコな言葉の羅列であろうとも。

//////////////////////

忘れないうちに、記録のための追記

同僚によると、このタイプの「言葉遊び」は元々イギリスでは珍しくなく、
「A Book of Nonsense by Edward Lear 」=エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』などが邦訳されている詩人が有名だとか。
その詩人、エドワード・リアは画家でもあったそうだ。

同僚が自分のお気に入りのエドワード・リアによるリメリック詩をいくつかと、ナンセンス詩を原文で見せながら読んでくれたが、(スマホってほんとに便利)全く意味はわからなかったし、わからなくても当然らしい。
ただ、何と心地の良い言葉転がしであったことか。
お返しに太宰の「女生徒」の出だし、息継ぎもできないような中々終了しないあの文体を読んで笑った。
元ネタのファンレターを書いた女性の日記(?)の話と相まって、話はつきなかった。

さて、エドワード・リアのナンセンス詩は「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルが継承したと同僚の話は続いた。
ダールの「ダール語」と呼ばれる造語にも通じるが、あれは物語にしっかりとした意味があるので、区別した方が良いらしい。

同僚の好みとしては、ルイス・キャロルのわかりにくさよりは、言葉の一つ一つは難しくないが、話の飛び方が異様に面白いのがエドワード・リアなのだそうだ。
ジョン・レノンが19世紀の詩人の作品を読んで育った可能性はあるだろうが、そのあたりは詳しい方はよくご存知の話なのかもしれない。
絵の才能も似ている気がして、興味深い。

wikiより
リメリック(またはリマリック、リムリック、limerick)は厳格な形式を持つ五行詩で、滑稽五行詩、五行戯詩とも呼ばれる。イギリスでは、エドワード・リアによって広まった。リメリック詩はウィットに富んだものやユーモラスなものであることが多く、時には笑いを目的とした猥褻なものもある。




さて、話は「ジョン・レノンセンス」の流れに戻る。

この本は、井上 夢人の「 ラバー・ソウル 」(講談社文庫) と合わせて読んだ。
「ラバー・ソウル」は衝撃だった。
ミステリとしても十分面白い作品なのに、
ビートルズの蘊蓄が勘弁してほしいくらい出てくる。
こんなに分厚い贅沢な愉しみは、ほんとに、勘弁してほしい。

作品世界に、持っていかれる。

色々考えながら読まずにはいられなくなるのだ。


井上夢人の「ラバー・ソウル」は、アルバム『Rubber Soul』の曲の順にそれぞれの章立てがリンクしていて、それだけでも十分に魅力的なのだが、ビートルズナンバーの歌詞に潜むストーカー気質、変質者傾向が同時に明らかにされていくようで、胸がざわざわした。

私が初めてビートルズを聴いたのは、たしかベイシティ・ローラーズのデビュー当時ではなかったかと思う。
姉のカセットテープ(時代が知れますね)には、ラジオからかき集めた洋楽が色々入っていたのだと思う。
その中にビートルズの「Hello, Goodbye」も入っていた。
当然聞き比べたわけだ。

何も知らない小学生だった。
そのくせ、この2曲を聴いた私は、姉にこんなことを言ったのを覚えている。
「残るのはこっち(ビートルズ)だから」。

姉は当時荒井由実に夢中だったので、ピアノでは彼女の曲しか弾いてもらえなかった。
多分、彼女は内心ベイシティ・ローラーズの方が好きだったのだと思う。

流行りのタータンチェックを拒否した私は、姉に次から次へとビートルズのアルバムのカセットテープを入れてくれるよう頼みこんだ。
テープは何本もダメにした。

中学生になって、姉のおさがりではない、自分のレコードがようやく買えるようになった。
「アビイ・ロード」を真っ先に買った。
「ホワイト・アルバム」はレコードではなく、カセットを買ったと思う。
他のLPは全部姉が進学する時に残して行ったものを貰った。

けれど多分それらには日本語の歌詞まではついていなかったのだ。

姉からもらった文庫版の「ビートルズ詩集」を持っていたが、それを読んでも物足りなかった。
そこで「Maxwell's Silver Hammer」を自分で辞書を引き引き日本語訳してみて、びっくりした。
この作詞者は「レノン・マッカートニー」となっているが、言葉遊びがふんだんに使われていて、歌っていても楽しい曲だったが、こんな歌だったのかと・・・。

他の歌詞も時折「なんじゃこりゃ」と迷宮入りする部分があった。

無垢でいて、ナンセンス。

意味なんて考えるほうがナンセンス。


「ジョン・レノンセンス」と「ラバー・ソウル」を合わせて読んでみて、
何となく、歌詞の不条理、というか、rhymingの妙、そして時折牙をむく陽気な残酷さというものが、これか、と腑に落ちる気がした。

ジョンの才能は、ビートルズのメンバーの、他の誰とも違っていたのだと思う。

音楽の枠に囚われない、実はどんな芸術でも良かった、そんな自由な才能だったのかもしれない。

本は過去を運んでくる。
希望もかもしれないが、年齢と共に、過去の方が圧倒的に多い。

ああ、そうだったのかと、今頃納得したり、意外に思ったりすることも多い。

私の眼がまだ見えるうちに、
読めるだけの本を、読んでおきたい。








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2016
10.09

フェアウェルパーティー

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連休は特に約束もなかったので本を読んでいる。

ゴリオ(仮名)に3連休などあるわけもなく、弁当持参で通常通りの生活を送っているため、
私にとっても連休なんていう実感はないのだ。

先日から続く「青春小説」の流れで「いちご同盟」以前の「青春」を読んでみようかと思ったが
手に取った立原正秋の「恋人たち」(ドラマになった後、夢中で読んだ)、あれは大人の話だった。

そこで、出版されたばかりの本を読むことにした。

読んでいたのはこちら



「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79 」
新井 啓介 (著)

尚、作者の新井さんのブログは、拙ブログからリンクを掛けさせて頂いている。
http://kei1959.blog43.fc2.com/

偉そうに感想など書いてしまって、申し訳ありません。


//////////

この本は日記の体裁をとったある種の青春ストーリー。
後半に「体験的 赤い鳥ヒストリー」や「体験的 70年代フォーク論」が掲載されているため、
純粋に小説とも言えず、友人と昔話をしているような不思議な気持ちになる。
赤い鳥は勿論、日本のフォークについて知らなかったことが多く書かれているので興味深い部分も多い。

1970年代の音楽や映画、TV番組に興味のある方にはきっとたまらないだろう。

「赤い鳥」は昨シーズン、さっとんがEXで滑った「翼をください」を歌っていたフォークグループ。
のちに「ハイファイセット」と「紙ふうせん」に別れ、其々の活動に入るのだが、
「紙風船」、「竹田の子守歌」などの忘れ難い曲を歌っていた。
「翼をください」は私にとって新しい音楽の走りだというイメージがいつまでもあったためか、
初めて教科書に載り、合唱曲になった時には驚いた。



私が特に興味をひかれたのは、「赤い鳥」のリーダー、後藤氏について、後年ハイファイセットのボーカルとなった山本潤子さんが語っていたという、音楽評論家・伊藤強氏の著書からの言葉の引用だ。

「後藤さんはひとつの歌を歌うとき、その背景にあるもろもろすべて理解しなければ気がすまなかった。それに対して私たちは楽しく歌えればそれでいいじゃないか、それでお客さんが満足してくれれば。」
後略

「僕たちの赤い鳥ものがたり」P209 より

これが、私にはとても気になった。

聞き手としてはハイファイセットがとても好きだった。
軽く聞けるのに、切なくもあるから。
聴いていて、楽しく心地よかった。
聴いている音楽に、意味は求めなかった。

けれど、「ひとつの歌を歌う」ように、自分の仕事をするとき、
私は後藤氏と全く同じことをする。
他人から見れば不必要な背景をすべて頭に入れなければ、前に進めない。

非常にメンドクサイと思われていることは間違いないが、それが表現する土台になるからだ。

後藤氏が「伝承歌」を大切にされるのは、何事も「系統立てて理解する」必要があるからだと思う。
「基本」と言っても良いかもしれない。
これを外すと、「今現在」までの流れがわからなくなる。

組織の中でこれをやろうとすると、大変だ。

目指すところが高すぎると、万人の理解は得難いし、商業的にも成功しにくいのではないか。

日本の音楽の今昔を両方併せ持つことで、「赤い鳥」は幅広い魅力的を持つグループだったはずだ。
「伝承歌」と「Jポップ」を結ぶ糸はここから始まったのではないかとさえ思う。

あ、これは同じことを作者も書いていらっしゃった。

話を戻そう。
予備校生、男子3人女子2人の「僕たちのものがたり」は紛れもない青春小説。
背景に流れる懐かしいもの列伝と共に語られる主人公たちの人間関係は、
今と同じで密なようで儚い。

「いちご同盟」では「変わったな」と思った今時の小説の主人公たちだが、
もう少しさかのぼると、この差って、もしかすると「一部の少年たち」と「よくいる少年たち」の違いかもと思ってしまった。



・・・・というわけで、ゴリオ(仮名)のセンパイおススメの「青春ラノベシリーズ」から遠く離れたところまで来てしまった。

遠いところまで来すぎて、帰り道もわからない。
仕方がないので、寝るとしよう。


この曲を聴きながら・・・。




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2016
10.06

「キミスイ」

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「キミスイ」と、呼ぶらしい。

「君の膵臓をたべたい」のことだ。

ゴリオ(仮名)のセンパイに本好きオタクがいるので、彼が遊びに来ると、
私もおススメの本を貸してもらえる。

ゴリオにだけしか見せない怪しげな本もある。
それも貸してよ、と言うと
「お母さん、これは勘弁してくださいよお~~( ;∀;)」と心底困った顔をされるが、
「いやいや、別におかしな下心はないのよ~~~」と
気持ちの悪い会話が今や小芝居と化している。

彼の薦める本には意外とハズレがない。

110キロあった体重が部活で20キロ減ったというが、
失礼ながらその体型で彼女のハートをガッチリと掴んでいるのは、
もしかすると彼の豊富な読書量と選書眼、その上に類まれなるプレゼンとコミュニケーション能力があるからではと、私は推測している。

センパイ情報によると、
流行った本は新人や押しの俳優で映画化するという世の流れに従って、「キミスイ」も来年実写化されるという。
早速ググった実写化情報には疑問だらけ。
何故12年後の思い出話に?
ダブルキャストにしたかったから?

ラノベではあるし、アニメ化の方がましだったかもしれないと思えて仕方ない。

さて、センパイに勧められて「キミスイ」を読んだ私は、驚いたことに泣いた。

元々この手の話は好きではないので全くそんな気はなかったのだが、なんでまた泣くのか?
よくわからないまま、ゴリオ(仮名)とセンパイの感想を聞いてみた。
2人の評価は同じ。
「最初と最後はすごくいいけど、中盤は現実味がなくて怠い。」

ふーむ。

そこで思いついたのが「いちご同盟」だった。

今私の手元にある「いちご同盟」は“三田誠広”の1991年集英社文庫版。
「君の膵臓をたべたい」は今年の本屋大賞2位に輝いた、“住野よる”のデビュー作。

両方とも、ざっくり言えば、学生が自分の好きな女の子を亡くしてしまう話である。

「いちご同盟」はその名の通り、一五(いちご)歳が結ぶ同盟。
「生きる」という、シンプルな、でも力強い同盟だ。
可愛いタイトルとは相反する男同士の約束である。

一方の「君の膵臓を食べたい」。
なんだこのタイトル?と最初は思ったが、確かに、このタイトルが全てを語っている。
グロいだけのタイトルかと思いきや、こちらも良い意味で裏切られる。


「いちご同盟」と「君の膵臓をたべたい」の間には、其々の主人公の年齢、15歳と17歳という年の差以上に、プラス四半世紀もの時代の違いがある。



以下は小説の結末としてはネタバレですので、
興味の無い方、またはこれから「君の膵臓」を読まれる方はスルーしてくださいませ。



「いちご同盟」の主人公良一と、彼が生きる現実には漫然とした「ばかやろう」が潜んでいる。大人はまだ反発の対象であり、自殺した少年、不登校になったかつての仲間や、好きになってしまった少女直美の死を間近にしながら、これから歩き出そうとする大人社会への危うい橋を渡っていく。
ピアノという媒体を通して、母親をはじめとする大人社会の「楽譜通りの」生き方に折り合いをつけようとする姿が、ここでの「成長」なのだろうか。
解説では「自分とおとなの社会との価値観の差、その違いによって生まれる心の痛み」と、解説者の青春時代を重ねて語られている。

一方「キミスイ」の方にはそんな葛藤はほとんど見られない。

「キミスイ」の主人公は自分も人も傷つけたくない。できうる限り他者とのかかわりを持たず、じっと目立たずに生きていきたいだけである。
その生き方は“三秋縋”の「スターティング・オーヴァー」の主人公の2周目の人生とも似ていて、その他あらゆる今どきの主人公にありがちな青少年のデフォルトであるかもしれない。

世の中や大人への反抗心を持たない主人公の学校生活はごく短調だ。
いわゆるボッチだし、友人がいなくても読書で色んな経験を積んでいるつもりでいる。
主人公の両親は共働きとはいえ健康でごく普通の、いや、息子の全てをお見通しなのに口も手も出さず、只見守ることのできる、素晴らしい親だ。
ヒロイン桜良の家族も同様。
親の立場で読んでも、その辛さは想像を絶するのに、抑制のきいた素晴らしい家族。
これだけでも「いちご同盟」の大人のカッコ悪さとは随分違う。
大人の狡さや本音に気が付かないほど、主人公は他者に興味がなかったのかもしれない。

「キミスイ」の主人公の名前はなぜか小説の最後に明かされる。
それまでは「〇〇なクラスメイトくん」と呼ばれ、「〇〇なクラスメイトくん」はヒロインを名前ではなく「君」と呼ぶ。
名前を呼ぶとそれは記号ではなく意味を持つようになるから。
2人は初めから別れを知っていたし、恐れてもいたということか。

友人であることと「好き」の狭間で、2人は揺れる。
踏み込めないけれど、明と暗の両極にある2人は確実に惹かれ合っている。

性的な部分ではむしろ「いちご同盟」の方が中学生であるにもかかわらず、僅かに進んでいる。 
「キミスイ」」はせいぜい、「言葉」と「ハグ」で終わってしまうのである。
 
ところが何故か、「君の膵臓」は私を泣かせ、そうでなかった「いちご」をあわてて読み返したわけだ。

センパイが指摘した「キミスイ」の中盤の穴は、「いちご」の方がきっちり描きこんであると思う。
でもなぜだろう。
今読んでも、「いちご」は私のタイプではない。
多分何がしかの「説教臭さ」、「大人の目線で描かれた思春期」を感じるからだろうか。
でもそれは小説としてよくできている証拠ではないだろうか。

モモエちゃんの赤いシリーズでも見たように、「10代の死」、あるいは10代の死生感を扱ったものはドラマにも映画にも、本にも連綿と続くテーマのようなものなのだろう。
私には、それが何の感動にも恋愛にも、ましてや美しい結末にも結び付かない。
自分をヒロインに置き換えようとしても、家族や周囲の友人たち、ましてや同級生の男の子が、あんなに悲しんでくれるとは到底思えなかった。
17歳の自分なんて、稀薄で狭い人間関係の中で、何も考えられずにいたのだから。
もしかすると他の読者もそうだからこそ、密な人間関係から紡ぎ出された喜びや悲しみを小説の中に見出したいのかもしれないが。

「キミスイ」の伏線の無駄遣い、病気に関する無知、言葉遣い、設定の現実味の無さ、粗を探せば確かにきりがない。

でもその抜けた「穴」が、どうでも良くなる「書き手の若さ」が、今の私にはリアルなのかもしれない。



センパイの薦めで、この前に三秋 縋の「スターティング・オーヴァー」を読んでいた。

「スターティング・オーヴァー」も、最初の数行で一気読み決定だった。
寄る年波には勝てず、老眼鏡の度数を上げて貰いにメガネ屋さんに行ったのに。
行った先の待ち時間にまで読みふけっていた。

「スターティング・オーヴァー」は、サリンジャーを読み、ジョン・レノンを聴いてきたものにはまるで映画のようにわかり易く頭の中で映像と音楽がシンクロする。
「あのバナナフィッシュを書いたサリンジャーが、ライ麦を単なる青春小説に書くわけない」といった内容の台詞にニヤリとする。
1990年生まれの2chから産まれた作家らしいが、センパイ一押しの「三日間の幸福」も、「君が(僕が)電話をかけていた場所」も読むことにした。

センパイが押さなかったのがやはり映画にもなった七月隆文の「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。
一応読んだが、タイムパラドックスというのか、最後は正直考えるのも面倒くさかった。
勿論それでも最後まで読ませる力が小説にはあるのだが、設定がフクザツになればなるほど、主人公に感情移入している暇もなくなる、という感じか。
「君の名は。」も映画以前に本を読む気が失せたのは、同じ系列かと思ったからだが、どうだろう。


ところで先日CSで寺山修司の映画を観てしまった。
ついでに原作「書を捨てよ、町へ出よう」も読んでしまった。


本の方には、マザーコンプレックスとセックスがごちゃまぜの人間臭さの中に、鋭い真実が垣間見える。
凄まじい生命力。

映画はどう感想を持ちようもないものだったが、
美輪さんが丸山さんの名前で出演されていて、
そこだけは別世界のようだった。
かなり際どい台詞を軽々と言ってのける。

本も映画も、簡単に時間を超える。

「若さ」が世代の違いでこうも変わろうとは。

現実世界への抵抗がなく、
セックスにさえ振り回されることのなくなった「若さ」は
身体的にではなく、心の引きこもりに陥っているのだろうか。

「君の膵臓をたべたい」で桜良が書き残した「生きる意味」は
主人公「春樹」の名を彼が名乗ると同時に彼をシェルターから引きずり出した。

これを書いた作者の年齢がまだ20代後半ということは別にしても、
大人が少年少女に向けて書いた「青春小説」ではないことは明白だ。

それが、私を泣かせたものだったのかもしれない。






Comment:2
2016
09.24

ゴリラの生態

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我が家にもゴリラがいるのですが、彼はどうにか私が産んだ子なので、一応「ヒト科」に属しているようです。

では、一般的なゴリラとはどのような生き物なのでしょう?

ふとそう思ったのは、キングコングの映画の最後のあたりをチラ見したせいだと思います。
ジェシカ・ラングの1976年版ですね。

king1.jpg


うら若き美しい女性を命をかけて守り、散って行った大きなゴリラ・・・。
んなわけないだろ!
巨大なゴリラを何故美化する?
意味わからん、と、昔映画を観た時は思いましたとも。
ええ、ジェシカ・ラングに一目ぼれだった私ですので、キングコングにはさして興味がなかったのです。
あの時は。

数年後、ジェシカ・ラングの「郵便配達は・・・」にノックアウトされ、
ジャック・ニコルソンのねちっこさが好きだったもので、あれだけは繰り返し見たものですが。

ジャック・ニコルソン演ずるフランクなんて、今にして思えば、ゴリラ以下。
コーラを不幸から救うどころか、ドツボに落としたのは君じゃ・・・と、突然ゴリラ株が上昇しております。

理由はこの本です。
絵本の体裁をとってはいますが、中身は非常に濃い、と思います。

350_Ehon_109708.jpg
『ゴリラが胸をたたくわけ』
文: 山極 寿一
絵: 阿部知暁

http://www.ehonnavi.net/ehon/109708/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%81%8C%E8%83%B8%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%91/

上記「Ehon Navi」に「みどころ」が掲載されておりますので、一部抜粋させていただきます。

ゴリラといえば、両腕を振って胸を叩く勇猛な姿!
その動作を「ドラミング」と呼びます。

敵を脅し、戦いをはじめる合図として鳴らす恐ろしい音……
以前はそう考えられていました。

そう、ゴリラはただ敵を威嚇するために胸を叩ているわけではなかったのです。
そこには、ゴリラのおどろくべき高度な社会性や、平和を愛する穏やかな性格に関係する、実にさまざまな意味が隠されていました。

観察レポートという形をとっている本作、小学校中学年以上を対象としていますが、大人でも楽しめるとても充実した内容です。
なぜドラミングをするのかという表題のテーマ以外にも―

子どもはドラミングをするときに胸を叩かない!?
ドラミングは大人のオスにしかできない理由がある!?
胸を叩く時の手の形はグーじゃない!?

大人にとっても興味深い、ゴリラに関する新鮮な知見がふんだんに盛り込まれています。
一方で、「ゴリラになんてぜんぜん興味ないや」という人にもぜひ読んでもらいたい作品でもあります。
というのも、この作品はゴリラの生態を通して、人間である私たち自身に他人との接し方を振り返らせ、多くを反省させてくれる本でもあるからです。

「仲裁してくれる仲間がいるからこそ、ゴリラたちは自己主張しあい、対等な関係を保っていられるのです」

作中で描かれる、自己主張しつつも互いを認め合い譲り合うゴリラの精神からは、大人も学ばされることがたくさんあります。
ゴリラに興味がないからと知らないでいるにはもったいない一冊!

(堀井拓馬 小説家)



ゴリラのドラミング=ウッホウッホと胸を叩く様子は、ゴリラのことを良く知らないものにとって、「威嚇」あるいは「何か嬉しいことでも?」というようなイメージを抱かせるものです。

この本の作者は元々サルの研究をしている方で、サルとの比較を織り交ぜながらゴリラの生態を追っていきます。

年端のいかないゴリラが、「シルバーバックス」と呼ばれるボス的オスゴリラにすり寄っていくのですが、
それはボスの食べている木の(多分そうだったと・・・)皮に興味を持ち、
食べさせろとアピールするんですね。
これがサルの世界ならいっぺんに撥ね退けられるそうですが、ゴリラはそうしないのです。
わけてあげるんですよ、ちびっこゴリラに。

「絵本ナビ」でも紹介されているように、私もこの本を読みながら驚いたのは、
基本、ゴリラの世界は「争いは避けられないが、決して争いを好むものではない」ということを知ったからなんです。

オスのゴリラは、興奮したり怒ったりすると、独特の匂いを放つそうです。
作者の目の前で、相対峙した2匹のオスゴリラが一触即発になった時にも、
たちまちこの匂いがし始めたそうです。

そこに少しヤングめのゴリラがやってきます。
まだ若いゴリラは、若さゆえの「お調子者」的役割でもって、
喧嘩の仲裁に入るのです。

大人のゴリラ2匹は結局、互いを傷つけあうことなく離れて行ったそうですが、その時にはもうあの「独特の匂い」は消えていたそうです。
いい大人が、中学生くらいの少年に「何やってんの?おっちゃん」と言われ、
「ふん、バカバカしいや。喧嘩なんかやってられっかよ。」ってな感じで出した拳を引っ込めた感じでしょうか。

驚愕の社会性を持った生き物、それがゴリラなのではないでしょうか。

自己主張はするけれど、喧嘩の場に割って入ってきてくれる誰かがいる、ということ。
子どもが大人の懐にスッと入っても拒絶されないこと。

作者は何ら意図なく淡々とゴリラの生態を追っているだけなのに、
何故だか親としての自分を、気が付くと反省してしまいます。

ゴリラと言えど、すんげー高度な調和社会の形成では?

ということで、「キングコング」の「愛」と「散り際」が、俄然リアルなゴリラの生きざまとして私の胸に迫ってきたのでございました。

「ドラミング」を「威嚇」ではなく、「挨拶的なもの」と捉えると、
平和を好む生き物が、ジャングルで活きる術は
人間にもそのまま相通ずる、ということではないのでしょうか。

ゴリラを見る目が変わってみれば、
あの映画『キングコング』の最後の切なさは、
意外に真実を突いたものだったのかもしれません。

人間同士にも、「仲裁役」が機能すればいいのにと、願わずにはいられない昨今です。


追記
これとセット読みしたのが
『学校生活 自分防衛軍』 宮田雄吾/著 という本です。

うーむ。
ゴリラと人間の違いが
【言葉】であることをひしひしと感じます。

こちらの本では、人が離婚したり、誰かが人を刺したりするときには、
「別れよう」という言葉を実際何度も口にしてきた、または心の中で「言葉」として意識してきた、
「やれるもんならやってみろ」と実際に相手に言ってしまった、
そういった経緯が高確率であるそうなのです。

「言葉」「言魂」の尊さと怖さが精神医学の観点から浮かび上がります。


ゴリオ(仮名)の自己肯定感が低いのは、
私のドS発言が彼の中で積み重なった結果では・・・とまたしても反省いたします。

なんだよー。

ジェシカ・ラングとキングコングの話じゃなかったのかよー。

ブログトップの写真でここまで読まれた方、
2転3転するオチでごめんなさいっ


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2016
09.19

王妃の冠

Category:
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柚木麻子/著 『王妃の帰還』

Amazon 内容紹介より

"『ランチのアッコちゃん』の次はコレ!
いま最も注目を集める著者が贈る、
パワー全開! 永遠のガールズ小説!!

王冠を手にするのは誰?
教室は少女達の戦場!

私立女子校・聖鏡女学園中等部二年の範子は
雑誌の編集長として勤める母と二人で暮らしながら、
チヨジ、スーさん、リンダさんという気の合う仲間たちと、
地味ながらも楽しく平和な学園生活を送っていた。
ところが、クラスである事件が起き、
公開裁判の末に滝沢さん(=王妃)がクラスの頂点にいる姫グループを追われてしまう。
なりゆきで滝沢さんを迎え入れることとなった範子たちだったが、
彼女の傍若無人さに、グループの調和は崩壊!
穏やかな日常を取り戻すために、範子たちはある計画を企てる……。

傷つきやすくて我がままで――みんながプリンセスだった時代を
鮮烈に描き出すガールズ小説!

【目次】
第1話 ギロチン
第2話 マカロン
第3話 ディアマン
第4話 ハンカチ
最終話 王政復古
解説 大矢博子



私が昨日読んだものは文庫の方だったのですが、
ハード本の表紙が好きだったのでこちらで。

【目次】とタイトルであれ?っと思ったお方はするどい。

これ、女子中学生のクラス内派閥闘争と、フランス革命、マリー・アントワネットの首飾り事件などを重ね合わせたストーリーなのです。

ほんのわずかの間にクルクルと変わる少女たちの気持ち。
人間としての成長と少女たちのそれとは、少しだけ異なる気がします。
面白くてあっという間に読んでしまいました。
解説がまた良かった。

自分の学生時代と重なるところが多かったこともあるかもしれません。

私は高校だけが女子校でしたので、派閥を越えた友達というのはいくらでもいて、
彼女たちも大切な友人でした。
時にクラス内では派閥を越えた親密な付き合いを秘密にしたりすることもありましたが、
別に王政が布かれていたわけでもなく、民主的なクラスだったと思います。
それでも「いたいた、こんなやつ」と思うような女子キャラが色々と出てきますと、
自分は一体あのクラスで、どんな立ち位置だったのだろうとヒヤっとしたりするのです。

今日の午後は友人に付き合って、吹奏楽で賞を獲ったという、とある学校の演奏会に行ってまいりました。
まさにこの『王妃の帰還』の年齢の少女たちの演奏です。
男子も数名混ざっていますが、ほとんどが女子。

読んだばかりの小説世界の女子と、懸命に演奏する彼女たちとは全く違う学生生活を送っているわけですが、
舞台に立って最後の演奏に向かう3年生1人1人の挨拶の中に、
ああ、きっとこの子たちの中にも、これだけの演奏をやり抜けるようになるまでには、
様々なことがあったんだろうなと思わずにはいられませんでした。

これまでの思いがあふれ出し、
観客の前で一瞬言葉を失い涙する子や、泣き笑いする子、
自分のパート仲間や先生方に感謝の言葉を口にする子、
その短い挨拶の一言一言に、隣ですすり泣く友人と共に、もらい泣きしました。

彼女たちの笑顔の下の、『闘争』がいかなるものであったのかは知る由もありませんが、
スポーツ同様に、実力の世界の厳しさを
演奏の中に感じてしまったのでした。

3年生だけの最後の演奏は、挨拶の後だったこともあり、
個性が際立ったものでした。
それまでの演奏とはうってかわって、てんで、バラバラだったのです。
自分たちの気持ちを込めて吹くトランペットの音は大きすぎ、
サックスは横を向いていました。
オーボエの少女、チューバの少年は、上を向いて涙を堪えようとしていましたが、
楽器を持っていては、堪えようもなかったのでしょう。
きっと、其々が初めて自分のためだけに、演奏した曲。

指揮棒の王政、調和という絶対から、其々の王冠を取り戻したのかと、
どっぷり中二病のようなことを思いながら
会場を後にしてきたのです。




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2016
09.15

君は時計塔に登ったか?

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若い頃はジェットコースターも平気でしたが、
最近は高いところも苦手です。

ましてや時計塔になぞ登れやしません。
「登る」というだけでもドキドキします。
そんな私も、これには「登って」しまいました。
なぜなら、これがあの宮崎駿ルパン映画「カリオストロの城」のモチーフになっているそうだからなのでございます。

うーん、「カリオストロ」とは全然中身が違いますので、
何とも言えないところですが、ここはぜひ、「幽霊塔」として映画にならないものかと・・・。
あのカラクリの緻密さはジブリの世界そのもののように思えるのです。

黒岩涙香版は漫画に描いたものもあるようですので、いつか読んでみたいと思います。


『幽霊塔』 江戸川乱歩/著 岩波書店

こちらの口絵がなんと16ページ!
宮崎駿の描く秋子のなんと美しいことよ!
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画像はアマゾンサイトからお借りしました。

昨年ジブリ美術館で開催された「幽霊塔へようこそ」展のために書き下された口絵、ということですが、
これはもう絵コンテでしょう。
このまま映画化されると良いのにと、
まことにじりじり致します。

「幽霊塔」や宮崎駿のインタビュー記事など、
スタジオジブリ非公式ファンサイト「ジブリのせかい」で紹介されておりました。
http://ghibli.jpn.org/news/ranpo-miyazaki/

「BOOK」データベースより

時は、大正のはじめ。26歳のまっすぐで血気盛んな青年北川光雄は、絶世の美女、野末秋子に出会った。場所は、九州の片田舎にある幽霊塔と呼ばれる時計塔。惨殺された老婆が幽霊となって徘徊すると噂されるところだった。秋子は、そんな場所で何をしようとしていたのか。秘密を抱えた秋子に、光雄は惹かれていき…。夥しい数のクモを飼う男、「救い主」と呼ばれる不思議な医学博士、猿をつれた太った女―怪しい人物たちが二人の周囲で暗躍する。そして時計塔の秘密とは?江戸川乱歩の名作が、宮崎駿のカラー口絵とともに蘇る!波乱万丈、怪奇ロマン。



この『幽霊塔』、乱歩のオリジナル作品ではありません。


A.M. Williamson  『灰色の女』



黒岩涙香  『幽霊塔』

アマゾンレビューによると、この作品は1899年〜1900年に新聞小説として連載されたものだといいます。
他にも『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情(あゝ無情)』などを翻訳した人ですので、
時代を考えると驚きです。
黒岩涙香の小説は「青空文庫」で読むことができますので助かります。
乱歩が自分でこれを書き直してみたいと思ったのも無理からぬ話運びの勢いがたまりません。
正直、読みにくくて疲れますが。



江戸川乱歩 『幽霊塔』

乱歩が舞台を完全に日本に移し、異国情緒から選んだのか、舞台を一地方都市(の田舎)としています。
世界観はそのまま乱歩もので何ら違和感なく読めます。
ミステリでもありスリラーでもあり、更に冒険譚。
そして何より絶世の美女と、全てが揃った怪奇ものでしょうか。


江戸川乱歩 『時計塔の秘密』
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いやもう、こちらは主人公がお年頃の少年で、探偵として有名になる前の学生明智小五郎が先輩として登場するので安心感抜群です。
ちょっぴり怖いところでも、明智パイセンがいればきっと大丈夫っ!ということで、
設定の少年風な変え方も話の筋も、宝探しの冒険も、意外とどうでもよくなってしまいました。
何が面白かったって、例の「仮面的なもの」を作った博士とはここで知り合い、
その後あの明智探偵の変装癖が生まれたのでは?とか、
いやあの仮面こそ二十面相の大元になったのではとか
そちらに食いついてしまったのでした。

子どもの頃には気にもしなかったことに突っ込むのは大人になった故でしょうか。
でもとっても気になります。

さて、「怪人二十面相」が世に出たのはwikiによれば昭和11年なのですが、
私の手元にある短編集には大正14年に書かれた「百面相役者」なる小品がございます。

私はこれ、殆ど乱歩の独白というか、内的実体験デフォルメではないかという気がしています。
芝居小屋で黒岩涙香の翻訳という「怪美人」(実際にはこの題名の翻訳はありませんが)という劇を見た主人公と友人が、その「百面相役者」が老若男女問わず、全く違う人間に変身する様に感嘆するのです。
きちんとオチのついた、けれど不気味な余韻を残す作品ですが、
これは二十面相に黒蜥蜴、そして黒岩涙香、遡って「雨月物語」など、乱歩を形作る世界が凝縮された短編のように思えます。
本文中にはこの役者について、こんなことも書かれています。

「こんな男がもし本当の泥棒になったら、きっと永久に警察の眼をのがれることができるだろう」

「江戸川乱歩」 ちくま日本文学より

この芝居の変装に使われたものが「人面の肉」ではなかったかという妄想。
ここには「幽霊塔」のマッドサイエンティストの手になるあの仮面がすでに描かれているではありませんか。


あ、そういえば天地小五郎さんも時計塔に登っておられました。
TVでは見ていませんので、つべで一部を拝見。
tokeitou.png


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2016
08.12

コーナー本

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『Olympic Winter Games, Sapporo 1972 氷雪賛歌』 朝日新聞社/編

図書館に行くと、夏も冬も取り混ぜたオリンピックの本のコーナーが作ってあった。

私の目を引いたのは、真っ白な表紙に、黒文字の表題と、
一目でフィギュアスケートの女子選手であるとわかる黒いシルエットのみの非常にシンプルなハード本だった。

札幌冬期オリンピックの記録写真集である。巻末の入賞者一覧も非常に簡潔。
この時の各国メダル獲得数は、この本によれば
ソ連16、東ドイツ14、ノルウェー12、スイス10、オランダ9、アメリカ8、西ドイツ5、イタリア5、オーストリア5、スウェーデン5、そして開催国日本が金、銀、銅の1メダルずつ計3個であった。

目次のトップにはフィギュアスケート。
このOPでフィギュアスケート女子シングル銅メダルだったジャネット・リンの写真が、「リン(アメリカ)」とだけ書いてあるのだが、彼女一人に5ページを割いてある。
あの時の彼女の「旋風」を思うと、さもありなんである。
が、金メダリストのシューバ(オーストリア)の写真は1枚もなく、ジャネット・リンの次は6位のモルゲンシュテルン(東ドイツ)で、ようやく銀メダルのマグヌセン(カナダ)の写真が。

ベストショットを載せたのだろうが、この偏りも今なら許されなくても、当時を思えば微笑ましいもんである。

1972年当時の写真技術を考えれば、競技の写真も開会式の各国選手団のファッションも、カメラマンの渾身の一枚だったことがうかがえる。
写真には見事なまでに何の説明もなく、個人選手には名と国名、選手団の写真には国名のみ。

日本人の女子フィギュアスケーターでただ一人、バレエジャンプの写真が掲載されていたのは
山下一美さん。巻末の記録に、男子フィギュアシングルの「豊の部屋」の主、ユタカ先生の16位が載っている。

この本の「美のなかのドラマ」で、川本信正氏は

「お行儀がよくて、ファッション・スクールの卒業式みたいな、札幌オリンピックの閉会式だったが、・・・」
と冒頭述べている。
北欧ヨーロッパが強かった冬期(この本での冬のオリンピック表示は「冬季」ではなく「冬期」表示)
この大会で、スペインの選手がはじめて冬のオリンピックで優勝したと続けている。
どんどん世界が狭くなり、グローバル化していく、世界が変わっていく一端が垣間見える。
「テレビ・オリンピック」と呼ばれ、公式記録は「手持ち時計による記録」と「公式記録」で分けずとも、その場で公式記録を見ることができる技術の進歩を見た初めての大会だったらしい。
会場の電光掲示板で競技が終わるやいなや、記録が発表される。これはレースが終わってから記録の発表まで、場内アナウンスを待つ楽しみを奪うものだったとも記してある。ネット時代に生まれた人々にはもう想像もつかないであろう。

川本氏の巻末のコラムは、「オリンピックでは、むきだしの人間を描いた”人間ドラマ”が見られるのだ。」と続く。
1972年当時の「律義でお行儀のよい」日本のオリンピック。
2016年のリオ大会の日本人選手に、国を背負い悲壮な顔で臨んだ選手は、すでにあまりいない気がするのは私だけだろうか。

想像を絶するプレッシャーの中、団体で金メダルを獲り、その後、疲れた体であっただろうに、個人総合でも連覇を果たした内村選手。
団体金を獲った時の笑顔の表彰式、笑顔の国家斉唱には、やりきった選手の喜びがあふれ、見ているこちらが「幸せです」と言った彼に幸せを感じさせてもらった。

札幌OPスキージャンプの笠谷選手は、70m級ジャンプで優勝したものの、90m級で失速した時、「人間に戻れる」と言ったそうである。試合に臨む選手である間は、「人間ではなかった」ほど過酷な生活だったのだろう。
当時の日本の開催国としての在り方も、選手のメンタリティーにも、未だ戦時の影響から脱しきれていない「悲壮さ」が随所に書き込んである。
「人間に戻れる」という言葉も、戦争が終わった時の兵士の感慨と同じだと書いてあった。

スポーツ選手の過酷さは、今も昔も変わることはないだろうが、日本の代表として戦うと同時に、競技者としての幸せをかみしめることのできるメンタルに、計測器の進歩以上の進歩を、選手は遂げている。

ロンドンの時の競泳陣がそうであったように、強く、明るく、チームワークが良いように見える。
柔道競技でさえ、前回のロンドンOPの時と今回はずいぶん違う。
結果を出している、それも大きいとは思うが、井上監督も若く、素敵なヘアスタイルになったが、選手世代も若返り、オシャレ化したのである。
身長でも世界の選手に引けを取らず、6パック割れした美しい体型だ。
金メダルが全員獲れたわけではなかったし、各々悔しさはあっても、前回のような見るからに、な悲壮感が無いというのは、私は良いことだと思っている。

さて、悲しいことに、比べ読みが習慣としてある私は、この写真集を見つけると同時に、こちらの本も同時に読んだ。

「オリンピックと商業主義」
小川勝/著 集英社

2012年に記されているからには、もっと掘り下げてもよい事実はいくらでもあっただろうに(特に五輪マネーの分配についてとか)、少々食い足りない感も残るが、オリンピックが商業化されていく経緯が興味深い。

売り物になったオリンピックは今に始まったことでも、ロサンゼルス大会で始まったものでもなく、もっと以前からあったのだという。フィギュアファンにもおなじみの名前が出てきて、とんでもない必要経費を使うIOCの元会長の驚く話も載ってはいるが。
茶番には踏み込んでいない。
一つや二つではなく、様々な利権が絡んでいるからだろう。
この本はニュートラルと言ってもよいスタンスで書かれているため、そこが良いところでもあるのだが、本に書けないことは山のようにあると思われる。
OPの商業主義を否定できないのは、歴史的経緯を読んでいけばなんとなく理解できる部分もある。
ただ、それが行きすぎた利権とビッグマネーを産み、権力にしがみつく亡者が競技を破壊した挙句、そのしわ寄せが選手に行くとしたら、もっと糾弾されるべきだろう。

前会長が会長の任に着いていた間のホテル暮らしの経費など、驚きを通り越す話も多い。
貴族が私費を投じて運営していた頃のからどれほどの変遷があったことか。
てか、もう別物。

さて、オリンピックの申し子とかつては言われたお方、リオでも「あたしが主役だから!」とばかりに手を振りまくりつつ先頭切って行進されておられたこの方も、本を出しておられます。
ロンドンOPの翌年ですね。

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「オリンピック魂」 橋本聖子/著

「人間力を高める」という副題に、思わず手に取って読んでしまいましたよ。
キワモノは誰しも覗いてみたいもんです。

彼女は自分が「苦難に打ち勝ってきた努力の人」であり、「あの時もこの時もバッシングも受けたけど頑張りぬいた人」であり、「良き母(でもあるのにバッシングされた)」でもあり、政治家までやっているという、強烈な自負を本にしたわけだ。
東京OP招致のCM本にしても、人選を誤ったものである。
「魂を磨くことに限界はない」そうだが、ご自分の行為行動を振り返る謙虚さを身に着ける機会には恵まれなかったようだ。
これほど傍から見た彼女と、彼女自身が自分に抱いているセルフイメージがかけ離れているのは、まるでポンデリングの人と同じ。
素敵な乙女の気持ちを、ああ怪物化した今も持ち続けている。
怪物と呼ぶにも怪物に失礼か。

スケ連もJOCも、進化し続ける選手に、本当の意味でのサポートを。
金の亡者となり果てた一部役員が選手の邪魔をすることが、ないように。


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2016
08.04

ある意味紹介本より面白い

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「第2図書係補佐」
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又吉直樹/著

コラム的な短文が好きだ。
コラムやエッセイで慣れ親しんだ作家は、大抵独自の「くすぐり」と笑いのツボを持っていて、そのくすぐられる感じが心地よく、気分転換にはもってこいだ。
又吉のコラムも同じく、その語り口がもう「くすぐり」に満ちている。
言葉の使い方そのものが、すでにくすぐっている。

「第2図書係補佐」は、開いてすぐの「はじめに」から涙腺にきた。
誰でもそう感じるとは決して思わないが、
気持ちの琴線に触れる文章とはこのようなものではないか。

彼がものを書く作家に、それをプロとして批評する人々に、どのような生きざまを感じ、望んでいるかが喉から手づかみで引き出されたように書かれる。
その言葉が卑屈や謙虚さを装っているのではないことは本文を読めばわかる。
ある意味真っ向からベタな前書きだが、まじめなベタを書いて泣かせる人などそういないだろう。

短い「はじめに」を読むと、劇場に置かれたフリーペーパー、そこに集まる人々の熱気、分け合った菓子パンの悲しさと美味さ、「生活の傍らに常に本という存在」がボソッとした彼の語り口調と少し前かがみな立ち姿まで思い起こさせる。彼が「芸人」としてテレビの画面に映っている、その場面までぼよよんと立ち上る。着物姿の彼ではなく、ネタを披露している彼だ。

本を枕に自らを語る、まさにそういったコラムの数々。
この込み入ったアイロニー。

孤独と空腹を満たす読書。
心も体も乾いている中に注ぎ込まれた作家の魂は濃度をもって彼の中に浸透しただろう。

「昔日の客」の中で、古本屋めぐりの話を彼はこう書く。

「気になる本は手に取り裏の紹介文を読み、帯文を読み、ページを開く。するとそこに宇宙が現れる。」

本文より

少ない手持ちのお金で本を選ぶ時の、本棚いっぱいに詰まった本のタイトルを前にした時の、切ない欲望が蘇る。
彼もまた、本は借りずに買って読む人なのだろう。
それは金銭感覚とは別のところにあるものだ。
私も今でこそ図書館を利用するが、かつて「借りる程度の本なら読まなくてもいい」とさえ思っていた頃があった。
読み進むと、これはほとんど青春小説に思える。
又吉直樹が描いた、彼自身の。

西加奈子の「炎上する君」、パトリック・ジュースキントの「香水 ある人殺しの物語」、「人間コク宝」なんて本当に笑える。笑えるが鋭い。彼の心のつぶやきが奇妙奇天烈だ。
「人間コク宝」のサッカー部の男子の話なんて、いるいる、こんな奴、である。

中二病の胸の奥に潜むガラスを割った凶器のような鋭さを見せるかと思えば、子供に寄せる温かな目線、サッカー少年であった意外な一面、祖父母の故郷、自らのルーツを書く。
本そのものの紹介はほとんどなく、それが却って読みたい気持ちを増幅させる。
バラエティーの豊かさは意外なほどである。

「ヴィヨンの妻」では又吉と太宰治の奇妙な縁(えにし)が綴られる。テレビでこのあたりの逸話を語る彼の話を聞いてはいたが、「自意識過剰」と呼ぶにはあまりに「何か」を感じさせる偶然にやはり鳥肌が立つ。
私の亡くなった父は、あの斜めな横顔が太宰と瓜二つだった。
初めて太宰の本を文庫で読んだ時、その写真に「これ、お父さんじゃないの?」と本気で疑ったほどだった。精神科の医者だった父は、仕事に向いていなかったのか若くして自らアルコールに溺れるようにして亡くなった。父はお酒を飲みに行っても、必ず母によく似た女性にお酌をさせたそうである。不器用な父は、彼なりに妻である母を愛していたのだと今ならわかる。あんなに太宰を繰り返し読んだ高校時代、太宰の描く男たちの中に父の不運と不幸をなぞらえながら、誰からも理解されなかった父を私くらいはわかってあげたいと思っていたのかもしれない。
理系頭の構造も、容姿も性格も身体が丈夫でないところまで父に似ていると家族に半ば嫌悪されて育ったと思う。
ところが幸いなことにアルコールは体が受け付けず、繊細でありたくともゴリオ(仮名)にすっかり鍛えられ、人生に疲れるには世の中が面白すぎる時代に生まれてしまった。
体脂肪は多いが肝機能は勿論、内臓はめっぽう良い状態を保って父が亡くなった年齢をとっくに超えた。

さてこんなことまで書いてしまうほど、
又吉の引き出しの多さに、こちらの感傷まで引き出される、といった具合である。

対談もあり、本編だけでも楽しめる。
これ、大好きな一冊だ。



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2016
08.03

静かなパッション

Category:
齋藤孝のガツンと一発シリーズ第12巻
「最終指令 ミッション!パッション!ハイテンション!」
saitoutakashi.png


面白いので読んでいたら、小学生向けの本だった。

鑑真や「スパイ大作戦」、伝統芸能、マイケルジョーダンや野球選手の逸話を盛り込みながら、気さくな語り口調でぐいぐい読ませる。

別に説教くさいわけではないが、この本を読んだからといって、人はすぐにミッションを感じるわけでもパッションがわいてくるわけでもハイテンションになるわけでもないのだろうが、面白い。
「人のためになる生き方をしよう」なんて書かれていたってこちとらそうはいくまいと思ってしまう。

けれど

「僕がわかっていることは、お金だけを追求する人には、最終的にはだれもついてこないってこと。仲間がつくれないよ。ひとりぼっち。」


ああ、これはソチで起こったモーゼの海割れ某スケート選手を彷彿とさせる言葉。

さて、興味深かったのは「パッション」の項だ。

「パッション」=情熱
「メラメラと燃え上がるエネルギー」
「悲しみや苦しみを燃料に変える力。“逆境(思うようにならず苦労の多い境遇)”をあきらめずに乗り越える力」といったことが書いてあるのだが。

パッションとただの情熱との違いは、強さだと作者は言う。

そしてその強さの源は「受難」。

この受難は、「自分のせいじゃないのに、ひどい目に遭う」、「いわれなき災難」だという。受難にあった時にへこんだ心の穴のようなものに一端パワーを溜めて「ナンダコンニャロー」と噴き出すのが「パッション」なのだそうだ。

「passion」が「the Passion」になればキリストの「はりつけ」のことになるそうだ。

「情熱」と「受難」の言葉の出自が同じだとすれば、この二つをセットで持っている人が強いのは当然と言えば当然なのかもしれない。あとはその大きさの違いだろう。

チェロスイートを延々とリピした後、この本に余計大きく頷いてしまった。

このpassionをもってしてあの綿菓子感。

そこが浅田真央の本当の凄さかもしれない。

情熱は、他人に向けるものではないのだろう。

静かなスケートと浅田だけの囁きに、耳を傾けよう。

Comment:0
2016
08.03

東京ガールズエレクション

Category:
東京ガールズ選挙(エレクション)~こじらせ系女子高生が生徒会長を目指したら

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長嶺超輝/著


アマゾンレビューではけちょんけちょんに言われている。
出来の悪いラノベではある。
がしかし、青少年なら面白く政治の話を自分たちに置き換えて読めるのではないだろうか。


少しネタバレ

校庭に立つ樹齢300年のイチョウの木を自分の根城として一人「ぼっち」をこじらせている女子高生「イチョやま」。
彼女の元にある日現れた徳川家基の霊。若くして謀殺された将軍候補が、今の世に政治家を作り出すことに成功した時、生まれ変わることができる・・・。
選挙コンサルタントとして「イチョやま」に政治や議会制度、民主主義について講義をしていく家基。
講義部分は少し眠くなるが、これは誰もが知っておくべき知識である。
何しろ国民、選挙民の一票は世の中を変えられるのかという18歳選挙権時代に合わせてユーキャンがぶつけてきた本なのだから、ためにならないわけはない。
「イチョやま」の高校の生徒会長は自らアイドル気取りの日色冴。
校庭のイチョウの木を保存するか撤去するかの戦いは、そのまま日色冴とイチョやまの選挙戦へとつながっていくのだが・・・。

この本に唯一重みを与えているのはイチョウの木の話である。
イチョウは火に強い樹木。
「火災に見舞われれば、水を吹き出し、火を消す」と言い伝えられていると家基が語る。
江戸の大火から町を守るため、多く植えられたとも言われているそうだ。

途中、議会制度の説明では眠りかけたが、最後の最後まで、面白かった。
気持ちよく読めた。
生徒会長選だって選挙戦。
不利な選挙戦の場合、浮動票をどう取り込むかの作戦が重要だ。
こじらせマスク女子はウソツキと言われ、イチョウの木の季節によってはひどい臭いをまとった嫌われ者だった。
いよいよ立候補してから、彼女の中身と同様、外見がどう変わったか。
鎧を脱いだ彼女に家基ではないリアル選挙参謀や友人たちがついてくる。


小池さんの初登庁がニュースで流れた。
ゾエやそれ以前の都知事の初登庁と比較して放送される。
大人気ない都議会の面々。
人として自分たちがどう見えるか、わかっているのだろうか。
やればやるほど小池さんを応援する層が増えるだけだ。

「東京ガールズ選挙」の終盤、生徒会長の改選にあたり立候補を決めたイチョやまに、家基が指南する。


「議論の相手を尊重(リスペクト)せよ」


「もちろん、選挙における対立候補じゃから、おぬしが戦うべき敵ではあるんじゃが、同時に、この学校を良くしたいという、共通の目的を持つ仲間でもある」



小池さんはこの通りに言い、やってみせたのだ。
それを入口から拒否してみせる。公衆の面前で。
オヤジたちは面目をつぶしたつもりだろうが、さて、テレビの前の公衆の眼にはどう映っただろうか。

蛇足だが、北区選出おときた駿@ブロガー都議会議員のブログにネット記事からリンクで直接飛んでしまったので読んでみた。
ブロガーはネット記事を書く人(多分それはもう、記者とも呼べないであろう)より余程まともな文章を書く。

「都民の意を受けた都知事にあからさまな対立姿勢を示しているのは一体誰なのか。」と太文字で書いてある。

都議会のオヤジは私の人生には関わりのない人たちではあるし、小池さんを特別応援する人間でもないが、私は人の挨拶を無視する奴は大嫌いなのだ。


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2016
07.22

ランチタイムポピンズ

Category:
『ランチのアッコちゃん』
『3時のアッコちゃん』
柚木麻子/著



「アッコちゃん」は大人にとってのメリーポピンズだ。
次はどんな魔法を見せてくれるのだろうとワクワクしながらページをめくった。

私にも1時間の昼休みが保証されているはずだが。
そんなもん普段から無いに等しく、これからしばらくはその無いに等しいものすら「無い」状況に陥っている。
仕事しながら毎日ゴリオの弁当ついでに作るおにぎりか、何でも挟み込んだサンドイッチを手にするのが精一杯。
「NO」と言えないのはこの本の主人公ばかりではない。
それに周りだって皆忙しいのだ。


「アッコちゃん」は孤独な派遣社員の味気ないランチタイムを冒険と出会いの時間に変えた。
神出鬼没、あらゆる東京と、そこに生きる人々を垣間見せてくれる。
深く立ち入ることはなくとも良い。
これは大人の「夢」なのだから。

主人公三智子の彼(になる人)が経営する古書店で、「アッコちゃん」が所望するのは懐かしい海外児童文学。
「風にのってきたメアリー・ポピンズ」「パディントンのクリスマス」「クマのプーさん」「ライオンと魔女」「不思議の国のアリス」。
そういやみんな映画化されている。

三智子が初めて彼に出会った時に「アッコちゃん」がお使いを頼んだ本はリンドグレーンだった。
なぜリンドグレーンなのか。
やかまし村の子どもたちも、「冷たいジャガイモ」を地下室に取りに行ってお腹を満たしていたではないか。
クリスマスには美味しい料理を村の皆で囲んで。
長くつ下のピッピはおいしいパンケーキをトミーとアンニカにふるまったではないか。

やはり「アッコちゃん」はファンタジー。
美味しいランチや夜食や、おやつ付きの。

アッコちゃんと三智子さん編も、他の短編も、展開はファンタジーであれ詳細はとてもリアルだ。

私も芝公園傍の某社で派遣社員として働いたことがある。
さすがに芝公園で冬に弁当を広げたことはないが、主人公と同じくお弁当持参で、
東京タワー近くへの通勤は胸躍るものだった。


それでも、派遣社員は難しい立場だ。
ランチ時にも社員との格差を見せつけられる。

水道橋で働いていた時は、オフィスのフロアでお弁当を食べる人などほとんどいなかった。
社食は華やかで、お洒落でも若くもない私は気後れした。
ランチ代を惜しまない女子社員と一緒にあちこちで食事することはお財布にも気持ちにも負担で、
途中からは一人でワンコインランチに通った。

その頃にはゴリオ(仮名)がいたので、私はすでにおばさんだった。
昼休みは食事の後に、本屋でゴリオに読む絵本を探すことが楽しみだった。

田舎出の子持ちおばさんの都会でのランチタイムは、すでにそれそのものが冒険だった。

私におかっぱ頭の「アッコちゃん」が訪れることはなかったが、街が私の「アッコちゃん」だったのかもしれない。

「アッコちゃん」を読んだからには夕食はポトフ。
ブーケガルニ抜きなのだから、急ごしらえのただのスープだったが。

それにしても少々憂鬱なランチタイムに
今こそ、お昼休みのメリーポピンズ、求ム。



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2016
07.22

オレンジの太陽

Category:
『さようなら、オレンジ』
岩城けい/著 




第二十九回太宰治賞受賞作品。

アマゾンのレビューはそれぞれだったが、私には共感するものがあった。

最後で書き手の正体がわかるまで、その事情がわかるまでは、何度も翻訳ものじゃないのかと、表紙や奥付で確認した。

作者は意識していたのだと思うが、これは英語で思考するものが日本語で書いた物語だ。
言葉と文化、人種の違いが複雑に重なり合い、徹底的に重なるところのない部分もあり、なのに普遍性を持って女の気持ちに訴えかける。

自分が生きるべき場所を探して。
自分がそこにいるべき場所を探して。
そこにたどりつくにはまず、言葉が必要だった。
言葉を学ぶことは自由を手に入れる一歩。

オレンジは主人公サリマの故郷、アフリカの象徴でもあり、この物語の書き手である「ハリネズミ」の新たな故郷、海、許しの象徴でもある。
サリマは難民。どこから来てどの国に落ち着いたのかは、本書の中の部分的な言葉から推測するしかない。

物語の始まりはサリマの灰色の日常から。彼女にも、読み手にもまだ右も左もわからない。
とにかく彼女はどこからか難民としてとある国に流れ着き、そこで二人の息子と共に、夫に捨てられたのだ。
夫が務めていた精肉工場で働き始めたサリマには、肉から放たれる異臭、滴り落ちる血が恐ろしく、仕事は辛い。嫌悪と孤独、不安と焦燥、怒りと嫉妬。様々な気持ちを塗りこめるようにして働く彼女は、英語圏であるその国で生きるために、英会話学校に通うことにする。
そこで出会う女性たちについても、サリマと読者は最初、ほとんどわかっていない。
イタリアから来た年配の専業主婦、オリーブ。アジアから来た黒くて太く真っ直ぐな髪の毛の、赤子を抱えた「ハリネズミ」。

サリマの物語の合間に、「ハリネズミ」の手紙が差し込まれる。
アジアの物静かな若い母親、「ハリネズミ」の事情がわかってくる。
更に短い英文メールの私信であろうか、そこから彼女たち夫婦が日本人であること、彼女たちに起きた不幸と再び恵まれた命についての詳細が読者に知らされる。
サリマの英語が少しずつ上達すると共に、物語には色彩が増えていく。
サリマの眼に触れるものがあらゆる意味を持ち始めると同時に読者にも彼女が暮らす田舎町の風景が広がり始める。

サリマにとって他国に暮らす困難さや、差別や言葉の克服だけが問題なのではない。

「自分がもともと持っていたものをあきらめて、ごまかして、黙り込んで。」(本文より)

それが嫌なのだ。

「あたしの生まれ持ってきたものは誰も奪えない、そして掴んだものを奪うことは二度と許さない-」(本文より)

サリマは自分が子どもの頃暮らした祖国について、下の息子のクラスでプレゼンする。
素朴な英語であれ、真実は子供の心にも訴えかけた。そのプレゼンに費やした準備期間は英語の先生や「ハリネズミ」と過ごした大切な時間。

「自分の生まれ育ちを知らず誇りにできないで、この先、彼が何を掴めるというのか。」(本文より)

サリマの強い思いは、それを息子に与えることによって彼女に新しい希望を授けることになる。

中編といってもいいような小説で、1時間半もあれば読み終わる。
なのに読後しばらくは様々な気持ちが涙と一緒にあふれ出て、正直疲れた。

何でも浅田選手に結び付けるのもどうかと自分でも思うのだが、やはり考えてしまう。
スポーツである以上、ルールに縛られることは仕方のないことなのだろうが、ルールのために

「自分がもともと持っていたものをあきらめて、ごまかして、黙り込んで。」

彼女はそうしてはこなかった。

もっともっと、彼女は彼女らしく、自分を解き放って良いと思う。

諦めず、こだわるところに拘り続けても良いと思う。

勝ちにいっても、彼女が変わることはないと私は思っている。


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2016
07.09

数行の行間

Category:
和田誠さんが好きだから、和田さんの手になる表紙の本を買ってしまうのか、
それとも好きな本に限って和田さんが表紙を描いているのか?

相当な数の表紙を描いてこられた方なので、
どこかで和田誠の装丁や表紙、挿絵に出会うことは当然と言えば当然なのだろう。

「ほんの数行」 和田誠/著 七つ森書館
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「週刊金曜日」に連載された和田誠さんの「名言に類するものを紹介するのが目的」(あとがきより)というコラム集である。

和田さんの手になる表紙と共に、本の中の「数行」(あるいは一文と言ってもよい)を紹介し、本の内容、その著者との思い出、装丁や表紙の技法についてまでを語っている。

こうして和田さんの仕事の一部でもまとめて本で見てしまうと、
何という「表現者」だろうかと思わずにはいられない。

若山富三郎と勝新太郎兄弟について書いた山城新伍著「おこりんぼ さびしんぼ」の
ユーモラスではあるが、「兄弟」の個性を描ききった表紙。
星新一がなぜ真鍋博と和田誠の二人だけをイラストレーターとして起用したか。
赤塚不二夫のニャロメを和田さんが描いて表紙にした「赤塚不二夫1000ページ」。
和田さんの映画好きがよくわかる映画監督や女優、俳優、舞台関係の人による表紙の数々。
映画関連の本に関する和田さんのコラムは「数行」で泣きそうになる。
「ビートルズの社会学」でのジョン・レノンの描き方。
いくつも描いた絵をコラージュにして一つの表紙にしたものや、
版画家の山本容子さんに教わったばかりの技法を用いたもの、
段ボールや厚紙を使ってライブハウスを作り、自然光で自分で写真を撮って装丁を仕上げたという作品もある。
嬉しかったのは、常盤新平訳のアーウィン・ショー、常盤さん自身の本の表紙も数冊紹介されていることだ。
表紙にまつわる話がまた楽しくて、時に感動を覚える。

表紙絵だけではなく、挿絵から装丁までを手掛ける和田さんは、編集者の次にその本の原稿を読むことができる。
ある意味でプロの本読みだと思う。
本の中身を損なわず、「ネタ割れ」することなく、
本のハラワタを引きずり出しながらユーモアにあふれる表紙の数々。

カポーティの「ローカル・カラー/観察日記」という本は知らなかった。
この本の紹介を読んで買わずにいられようか。


三遊亭圓生、圓楽著の本に其々表紙を描いているのだが、同じ落語家の本でも似て非なる内容に合わせ、趣も違う。
「江戸散歩 上」の圓生、「古典落語」の志ん生の似顔絵など、ゾクッとするほど素敵。
「古典落語」の文庫シリーズはそれぞれの噺家の高座姿を和紙にペンで描いたという。
線が素晴らしく自由自在。

本の中身、作者との思い出、その本が描く世界の話まで和田さんの見識と交友の広さ深さには脱帽ものだ。

都筑道夫「サタデイ・ナイト・ムービー」の表紙の凝り方。
こうして描いた本人が語らなければ、相当な映画ファンでなければ気が付かないところである。
映画にまつわる本が多く紹介されているのは、思い入れが強かったためか。
本の中身だけでなく、その周辺についても詳しく語っている。
戸田奈津子「字幕の中に人生」の装丁の書名を、字幕の文字を書く名人にお願いした話など、
映画に関しては裏話も面白いものばかりなのだが、
装丁を通じた和田さんの映画への心の込め様、敬愛の情に心打たれる。

寺山修司は友人としても語られ、彼の本だけではなく
その詩は「IFの世界」の石川喬司の本の数行の中でも紹介される。

最後の「和田誠 切抜帖」の「数行」は和田さんのお父様の言葉で締めくくられる。
この数行には首を垂れるしかない。
築地小劇場の創立メンバーであり、戦前からラジオ局で音響の仕事をされておられたという。



ひとつ残念だったのは、福永武彦、中村真一郎、丸谷才一の「深夜の散歩」が入っていないことだ。
この本の装丁、
決定版「深夜の散歩」あとがきの中で、丸谷さんが「和田誠さんのおかげできれいな本が出来あがって、非常にうれしい。」と書いているのに!
推理小説の神々が、洒落たタッチで描かれているのに!

「Book Covers in Wadaland 和田誠 装丁集」
「和田誠シネマ画集 」
「Posters in Wadaland―和田誠ポスター集 - 和田 誠」

全部欲しくなってしまった。

追記

書き忘れた。
樋口尚文「グッドモーニング、ゴジラ」に、ゴジラはアメリカの「原子怪獣現わる」をもとに、企画を進めた方々は本家をご存じないまま原作とゴジラの姿を産み出したのではと、ゴジラ誕生のいきさつを本のゲラから推察している。
映画がお好きな和田さんは、リアルタイムで両方の映画をご覧になっているのだ。
和田さんの本を読むと映画が観たくなる。


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2016
05.27

前を向いて生きること

Category:
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夜7時のニュースを見ながら、本書の主人公の美甘さんはどのようなお気持ちだったろうと、ふと、思った。

「8時15分」。私は以下のサブタイトルは個人的には不要だと思っている。
作者である美甘章子 さんは広島の被爆二世。

本書以外にも、このような本を上梓されている、心理学者だ。
『「ゾーン」はここだ!―スポーツ&人生で最高レベルのパフォーマンスをゲットする10のレッスン 』



Amzon 作者紹介より
美甘/章子
心理学博士。広島大学教育学部卒業、同大学院生物圏科学研究科在籍、教職(高校英語)を経て渡米。北アリゾナ大学とカリフォルニア臨床心理専門大学院(CSPP、現アライアント国際大学)にて教育学修士号、臨床心理学修士号、同博士号を取得。多人種を対象に教育現場、精神病院、地域クリニック、薬物中毒治療機関などで幅広く臨床経験を積み、1997年カリフォルニア州サンディエゴにて臨床心理ドクターとして開業。USジャパン・サイコロジカル・サービス代表として、日米において、スポーツ心理、エグゼクティブ・コーチング、産業組織心理、心理療法、精神鑑定、多文化コンサルテーション、大学院教育等に従事





Amazon 内容紹介より

1945年8月6日午前8時15分、広島上空でピカドン=原子爆弾が炸裂した。瀕死の重傷を負った父子は、地獄絵さながらの街をさまよい歩く。やがて父を亡くして生き延びた息子は、しかし、怒りと絶望のさなかにも「許す心」を見出し、過去よりも未来を見つめて歩き始める――。
「何かをなくしたときは、何かを得るときだ」
至近距離で被爆しながらも生存している数少ない生き証人である父――その静かで、壮絶な物語。



図書館でふと手に取って読んだばかりの本である。

紹介にあるように、言葉にすれば壮絶だが、読後感は他の被爆体験本とは決定的に一線を画す。

本は返却してしまったので、具体的な名前や良かった部分の紹介には不足するかもしれないが、
これまで読んだどんな「平和関係」、「原爆関係」の本とも違う。
昨年から20冊を超える人権、戦争関係の本を読みこんできていた。
アウシュヴィッツ、人権問題、自由公民権運動、第二次世界大戦、原爆、それに派生する絵本、写真集も含めて。

この系統の本の体験集の中には、「怨念」とも感じられる辛さが時として伴った。
ろうあの方が、全く耳の聞こえない状態で受けた原爆を、手話で語ったものを書き起こした本もあった(これは素晴らしい本だった)。

美甘さんの父は、多くの原爆犠牲者の中でも、孤児となり、全身にわたる重度のやけど、放射線被ばく、片耳の切断など、心身共にズタズタに引き裂かれた命を持って、それでも恨み節で生きることをしなかった方だ。
原爆で亡くなった祖父、戦地で亡くなった兄の生き方を胸に、戦後を生きる糧とした。
やがて父となった彼は、自分の娘、人間として大きな器を持った兄そっくりに生まれてきたこの本の著者の、アメリカ行きを後押しする。
戦争でやったやられたといつまでもその場にうずくまることなく、前を向いて生きることを、娘に教えた。
自分の身体を、人生を破壊したに等しいアメリカに行き、両国の架け橋となるように、娘に託した。

同じような体験をした方の本は多くある。
図書館によっては何種類も置いてあるので手に取って読むことが可能だ。

この本は体験の中身は同じでも、人間の生き方の「表明」が違うと思う。
自分はこんな目にあった。
けれど恨んだままでは終わらない。
それより、これからどのように戦争という最後の手段を取らず、国と国とが協調できるかを考えようとする。
自分はできなくても、子孫にその宿題を託す。

私も親の身体に残された原爆の傷跡を見て育った。
何度もあの日の話を繰り返し聞かされて育った。

その私が、読みたかった本はまさにこれだった。
きれいごとではない。
怨念の渦にいたままでは、一歩も前に進めないのは本当だ。

これをきれいごとだと思う方は、本書を一読されると良いと思う。

本の終盤、亡くなった祖父の唯一の形見、「8時15分」が焼き付けられた懐中時計を、
善意で展示のため差し出した先のアメリカで盗まれてしまうという話がある。
その時の相手先の対応は全く誠意のないものだった。
孫である美甘さんでさえ怒りで震えるほどの出来事だったはずが、
本書の主人公である彼女の父は、物より心、とでも言わんばかりに、拘ることをしなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「オバマ大統領は謝罪しろ! 賠償せよ!」蕎麦人被爆者がシュプレヒコール、入国審査を“妨害”と怒り
産経新聞 5月27日(金)13時8分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000526-san-pol


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2016
05.20

本棚に知性

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Booklog(ブクログ)と呼ばれるweb上の本棚サービスをご利用の方もいらっしゃることと思う。

私はイマイチ上手く使いこなせず、色々な方のレビューを読んで楽しませて頂いている。
web上とはいえ、本棚を自分流にカスタマイズしたり、レビューを書いて公開したりと、
みなさんマメなことこの上なしで、素晴らしいのだ。
レビューは本を借りたり買ったりする時にはとても参考になる。

と、ボカロ本とラノベと昔から捨てられないクレしん漫画以外に、
我が家の本棚には何が入っているんだろうと、
思い立って覗いてみた。

小学校を出たあたりから、ゴリオ(仮名)の本棚が見るも恥ずかしいものになってきたので
仕方なく扉付の本棚に変えたのはいいのだが、
そこに増殖している本は、すでに私のチェック範疇から遠く離れたものになっていたのだ。

ネタにできそうなエッチなのとかないかなあ、と少し期待したが、
今はそういう時代でもないのであろう。
なかなか突っ込みにくい。

さて、ネタ探しである。

あったあった。

「おかんメール」
「中学のときイケてなかった体験談」
「爆笑!学力テストおバカ回答!」
「中二病取扱説明書」
「中二病取り扱い説明書コミック」
「ひとりっ子の取扱説明書」



本棚を見ればその人の知性が測れるとすれば、
ゴリオ(仮名)の知性って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

そして何が悲しいかと言えば、

自分の本棚のラインナップが、
息子とさして変わらないことであろうか。





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2016
05.12

褒められたい人に褒められる

Category:

「褒められたい人に、褒められたいところを、褒められると、嬉しい。」


これですね、伊集院光さんのラジオ。

今、「小林信彦」でググると、「伊集院光」がセットでヒットするんです。

私が聴いたのはこちら
リンクしてます➡「伊集院光 深夜の馬鹿力  2010年11月15日放送分より」ですので、ずいぶん前の話です。

もうちょっとアクが出てくれば一時期の巨泉さんに似たタイトルコール。

やっと買い戻した小林信彦の「神野推理氏の華麗な冒険」と「中年探偵団」を読んでおりました。

この番組で「褒められた」と喜んでいる伊集院光が、
小林信彦がどんなものを書き、何がすごいのか、
その小林に褒められたことがどんなに嬉しかったのかを語っていらっしゃいました。

嬉しかったんです。とても。

神野推理氏の母、トメ女史にでもなった気分でした。
勿論、この場合「神野推理」は小林氏ですね。

小林信彦の論評について、芸人としてその著書を一生懸命勉強したのでしょう。
出てくる出てくる、フリートークで彼の仕事がスラスラと。

そして読み続けていたんですね、今言うところのスプリングセンテンスの小林コラムを。

「オレの信彦が他のラジオを褒めてるよ!」


などと嫉妬したりしながら。

でも伊集院光氏、元落語家なんですもん。
このラジオに関してだけポッと褒めてるわけじゃないのではと思ったりしながら、
伊集院さんのハイテンショントークを聴いておりました。


中でもいいなと思ったのが、小林信彦がその著書において芸人を述べる時の「距離感」のようなものについて語っていた部分。
このラジオで彼が語ったのは渥美清についてだったのですが、萩本欽一然り、横山やすし然り、
そうだった、そうだったのよと頷きながら聴きました。

嬉しかったな。


「褒められたい人に、褒められたいところを、褒められると、嬉しい。」


これは小林信彦を好きだった者が、このラジオを聴いても同じ嬉しさなんだと思います。


さて、浅田ファンにとって、伊集院光といえばこちらのラジオ

リンクしてます➡「伊集院光とらじおと 2016年04月19日 【ゲスト:浅田真央】 #006」

浅田真央が18歳の時のインタビューで、「人と競って勝つ方が、ただショーなどで滑るより楽しい」的なことを言ったという話から、今も本質的には変わっていないという彼女の言葉を引き出してます。

母の匡子さんについても、具体的にどんなところが「子どもに全てを捧げる母だったのか」に切り込んでいます。

決して上から目線ではないのに、相手へのリスペクトはしっかり感じられる。
で、「核心」にすっと切り込める。

今のマスゴミができないことを、ラジオでサラッとやってる人がいるんだなと唸りました。

先日のスグリ妹がテレビでやらかした「みどり神とマオの3A比較」というくだらない番組。
根底から何かが違うアプローチに、フクザツな思いが致します。
ましてや、その後のスグリ妹のブログは、愛息とのひと時を写真と共に載せていましたね。
「トーマス」と題して。
幸せなド素人。
スケートに関してもテレビのコメンテーターとしても素人すぎる。
自分が幸せであるが故の無知、鈍感さを恥とも思わない。

彼女はスケートを愛してもいず、先輩方に尊敬の念も持ち合わせてはいないのでしょう。
勿論、番組の作り手も。

マスゴミと呼ばれるものには絶望しかないのですが、
そんな世界で、
自分の領分を磨きぬいた小林信彦と伊集院光のお二方に、私は希望にも似た敬意を覚えるのです。



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2016
04.30

猫語の教科書

Category:
連休とはいえ、ゴリオ(仮名)には休みがない。
当然のごとく家事にも休みはない。

朝飯、洗濯、買い物、おやつおやつおやつ買い物、夕飯、洗濯、夕飯後のラーメン、ゆで卵ゆで卵、トリの胸肉、弁当。

完全夜型の私は朝が全く使い物にならないので、できる準備はほとんど夜中のうちに終わらせて寝る。
夜中過ぎてから卵を茹で野菜を切り、肉を焼くのは日常茶飯事だ。

最近諦めがついた私は、すっかりインスタント味噌汁に頼っているが
同じように働いていても、夕飯にきちんとネギを刻み、手作りの味噌汁に浮かべるえらい母さんもいる。

友人のSちゃんが、味噌汁用に切った「ネギがハート」と、こんな写真を送ってくれた(⋈◍>◡<◍)。✧♡

20160430220009.jpg

こんなにカワイイネギを発見して、思わず写真に撮ったSちゃんも本当にカワイイ。

幸せのおすそ分けを貰った気がして、とても嬉しかった。

さて、Sちゃんの家にはそれは美しい雄猫が2匹いる。
彼らは親子だそうで、縁あって捨てられて寄る辺ない猫たちの里親になったSちゃんは、
下の世話から遊び場作りまで、献身的に彼らの世話を焼いている。

そこで、ポール・ギャリコの「猫語の教科書」である。

nekogo).jpg

この本は見開きの筆者紹介の写真にツィツァと呼ばれる猫の写真と、その経歴が載っている。
そう、作者は猫。
ということになっている。

タイプで打たれた暗号のようなアルファベットを解読し、編集者と称するギャリコの手によってこの本は人間にもわかるように翻訳された。
ということになっている。

写真家一家の飼い猫ツィツァの写真と共に、猫語の教科書は第1章「人間の家をのっとる方法」から始まる。

副題は「子猫、のら猫、捨て猫たちに覚えてほしいこと」。

人間との付き合い方、そもそも人間とはどのような生き物なのか。
男の場合、女の場合、子どもの場合と、実に見事に観察と経験の結果を記してある。

声を出さない「ニャーオ」の効果的な使い方。
人間をいかに訓練し、自分の思い通りにするか。
ベッドを乗っ取る方法。
子どもの育て方。

猫にとっておよそ必要なこと全てを書いた、「教科書」なのだ。

傑作なのが「第15章 別宅を持ってしまったら」。

猫が実は何でもわかっているような気がするのは、気のせいではなかったのだ。


ポール・ギャリコは映画『ポセイドン・アドベンチャー』の原作者としてご存知の方もいらっしゃるだろうか。

私には「ハリスおばさんパリへ行く」などのハリスおばさんシリーズの作家として忘れ難い。

フィッツジェラルドのジャズ・エイジが終焉を迎えたそののちの世代。

スポーツ記者として名声を得、その後作家活動に入った。

「猫語の教科書」のおわりには、
大島弓子氏による漫画「わたしにとっての“猫語の教科書”」が載っている。

ポール・ギャリコの筆致は最後まで大真面目なユーモアにあふれているが
大島弓子の短い漫画には泣ける。


・・・こうして私がのんきに「猫」のことを考えていると、隣の部屋からダミ声の「ドラえもんの唄」が聞こえてきた。
ゴリオ(仮名)の熱唱である。

ふと、のび太を日々助けているはずのドラえもんも、本当は未来にいるより
居心地の良い野比一家を乗っ取った猫だったのかも、と思ったりして。




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2016
04.21

Whadayamean

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「WHADAYAMEAN」ジョン・バーニンガム/著 

「南紀熊野体験博」wikiはこちら


「南紀熊野体験博」のためにバーニンガムが書き下ろしたと言われるが、日本語訳をまだ読んでいないのでそのあたりの詳細は知らない。
英語版のはじめには、「世界を変えたかった母と父へ」と書かれている。

ジョン・バーニンガムは「くものこどもたち」(Cloudland)、「いつもちこくのおとこのこ」など、ほかにも多くの素晴らしい本を出しているが、谷川俊太郎の翻訳はこの二冊でも真骨頂ともいえる素晴らしさ。

この「WHADAYAMEAN」はメッセージ性の強さではバーニンガム作品の中でも異色と言える作品かもしれない。

「くものこどもたち」でも使われた写真と絵の合成がここにも部分的に使われる。
「地球」の写真だ。

神様が何百万年もかかって地球を作り上げた時、地球は水と空気で人も動物も生きられる楽園だった。

杉の木の下で遊んでいた子どもたちを伴い、神様は自分の作った地球を見て回る。

神様が目にした地球は、汚染された海で汚れた鳥や魚、排気ガスと悪臭でいっぱいの空気。
草木や鳥や動物の家である森は伐採され、焼かれた姿。
絶滅した多くの生き物は二度と戻らない。
地球を託した人間は、最も賢い生き物だったはずなのに。

子ども達は神様から伝言を預かり、世界を回る。

金の亡者、神の使いを名乗りながら諍いの絶えない人々、武器を持って戦う兵士に、子ども達は神様からの伝言を伝える。

最後の愚者が、私には衝撃だ。

自分たちの周りで起きていることを知ろうとしない群衆。

その愚かな群衆に、「地球を救わなくちゃ。生き方を変えようよ。」と訴える子どもたち。

絵本の中で、神様は姿を見せない。
でも子どもたちにも、動物たちにも神様の存在はしっかりと見えている。


子ども達が神様からの伝言を伝えたことで、より良い世の中になった時、創造主の象徴のように上る太陽。

最後のオチがとても可愛らしいが、中身は硬派な絵本である。


自分の目で見、耳で聞き、判断したことよりも、メディアに流されてはいないか。
自分で考えることをやめ、世論という姿のない魑魅魍魎に乗ってはいないか。

考えさせられつつも、同時に幸せな気持ちになれるのが、この絵本だ。

子どもの本とは、大人にとってもなんという贈り物だろうか、と思う。

エリックカールの「"Slowly,Slowly,Slowly,"said the Sloth」(ナマケモノが最後に言い返す言葉の一つ一つが最高)
A. Birnbaumの「Green Eyes」(緑の目の猫の話。猫の過ごす1年が本当に素敵)
これに「長ぐつをはいたねこ」を図書館で借りて癒されている。

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2016
04.18

ぼくはうちゅうじん

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「ぼくはうちゅうじん」

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中川ひろたか/著  はたこうしろう/イラスト  アリス館

地球も宇宙から見ればひとつの星。
君も、私も、宇宙から見れば宇宙人。

なんでもない発想の転換に、あ、と思わされる。
この絵本の良いところは、
「うちゅうじん」でいる自分に前向きな子どもの姿。

イラストの星々が美しく、本当に夜空を眺め、明け方を迎えている気がする。

おとうさんのダジャレはこの際いらなかったかな。
言葉を減らした方が良かったと思った絵本は珍しい。

それにしても、「重力」がない「空気」もないシンとした宇宙空間は孤独ではないのだろうか。
星の王子様のあの悲しみは、宇宙に住む孤独ではなかったのだろうか。

地面の上に暮らしていると、忘れがちだ。
私たちも自然の一部であり、宇宙の一部。
時に人間をも一掃してしまいそうな牙をむき出すが、
それでも地上は暖かく、自然にくるまれていなければ、生きてはいけない。



地震は、わかっていても、怖い。

建物だけではない、日常そのものが破壊される。

皆無事でありますようにと、祈らずにはいられない。

熊本に住む友人とは、本震があって以降まだ連絡がとれずにいるが、何もできないことがもどかしい。

早く地震が収まって、避難を余儀なくされている方々が少しでも安心して休むことができますよう。
命がけで救助にあたっておられる方々のご無事と合わせてお祈りしています。


追記

アメリカに住んでいる友人から、

「災害が起きたときの日本人の行動はアメリカでも本当に驚かれてるよ。
助け合う国民性、他には見れないみたい。鼻が高い!」


とメールを貰った。



日本の報道は色々な意味で疑問が多いのでうんざりするが、
海外報道でそんな風に伝わっているとは、ありがたいことだ。


もひとつ追記。

その後熊本の友人からlineで連絡をもらった。
車に避難していたそうだ。
家族もあり、仕事がある以上実家に戻ることもできず、
今の生活を続けていくしかないようだ。

どうか今後も無事でと、祈ることしかできない。

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2016
03.16

考える人(ちょっと追記)

Category:
めったに地上波テレビは見なくなったが、
時々家族が見ていたつけっ放しのテレビ番組を見ることがある。

以前「しくじり先生」の舞さんの時も見ていたが、
先日の「しくじり先生」、元プロボクサーの亀田(さんを付けた方がいいのだろうか?)の回も良かった。
関根さんは何でも知っているのでなくてはならない「生徒」だと思うが、
若林がなぜか立ち上がって何か言うのを、私は注目している。


芸人。「若林正恭」。

テレビのリアクションがどうというわけではないのだが、
理由はこの本を読んでしまったからだ。

「社会人大学人見知り学部卒業見込み」
shakaizinn.jpg

大げさでも言ってしまおう。
近年読んだ本の中でもとても面白い一冊だと思った。
笑ったし、共感したし、考えさせられるし、そして何度も泣きながらページをめくった。

彼があの一見無表情な顔の下で
たくさんたくさん考え、感じていたもの。


文章の切れ味。
「わかる」微妙なきもち。

ピース又吉とはまた違った感性で、その違いがまた何とも言えず面白かった。

勿論この本は小説ではないので「火花」とは比べられないが、
「第2図書係補佐」の又吉は本の世界を描いているようでいて、
やはり彼独特の感性と日常が浮かび上がる鮮やかさを持っている。
彼の描くものはある意味華やかにさえ見える。

一見暗く見える、内省的な内向的な又吉の方が、
「こだわり」や「お洒落」な点でも、外向きな気がする。

オードリー若林の話は彼の「頭の中」で完結する。
じっと周りを見ていながら、じっとひとりで考えている。
外から見てもわからない。
一つにはこの人に物欲というものが無いからだろうか。

舞台の話はとても彼にしっくり合っていて、
彼はこの仕事に向いているんじゃないかと
その舞台を見てもいないのに思った。

「お笑い芸人」は多くいるが、
こんな人もいるんだと
何とも感慨深かった。


「創刊! 読むスポーツ ヨムスポ」
 2016/3/14放送分 スポーツ古書
こちら➡http://www.nicovideo.jp/watch/1457933614
多分収録場所はこちらではないかと・・・。
「ブックカフェ二十世紀」
https://www.facebook.com/bookcafe20seiki/

ここでの若林が、私はとても好きだ。

ポッと出ではない。
下積み時代に蓄えたものが彼を今ここに座らせている。

「昭和」な感じを扱う番組に、新しい人若林が入る。

ここで彼が一人心の中で突っ込んでいるのはどんなことだろう。

「そんなんどーでもいい」なんだろうか?

それとも本当に楽しんでいるんだろうか。

そんなことを観る者に探らせる初めての芸人かもしれない。



さて先日、ようやく老人ホームへの入居が決まり、近年になく明るい顔をしていた母が、
「規則正しく」「健康的な食生活」になじめず、
ちょっとうつ状態になっていた。

出来るだけ時間を見つけて外に連れ出したり
顔を出すようにはしていたが、
ある日部屋に入ると、テーブルの上に「火花」が置いてある。

80過ぎてすっかり本も読まなく(というか、目が疲れるから読めなく)なっていたのに。

「〇〇さんが面白いって言ってたし。
芸人さんがどんなこと書くのかって思ってさ・・・。」

驚き。

「この人、すんごく文章うまいんだよ。」
「これ、いいと思ったよ。」

80過ぎの元文学少女から又吉を薦められ、
「読んだよ」と言えなかった。

「へえ」と答えた私は、

若林が書く「ディヴ(分人)」に、近づけたのだろうか。
少しは、母親とどうしても上手く付き合えなかった娘として成長できたのだろうか。


追記

さてこのエッセイによれば「成長したな」と各所で言われているらしいオードリー若林だが、
この本の何がそんなに私に「これスキ」と思わせたのだろうと考えた。

実は今私はまた変な仕事をしていて、
それは面白くもないことをラップに乗せて歌ってしまおうという試みのお手伝いなのだ。

ある曲を聴いていたら、あのクソ面白くもないラップが、この曲のリズムにぴったりだとふと気が付いたのである。
発案者は私より年長の方なのでこれはお手伝いした方が良いと思い、又いらん仕事を増やしたわけだ。

この年になってラップ。
サランラップじゃないほうのラップ。
何故今更ラップなんだろう。

ゴリオ(仮名)が音源をPCに落としてくれたのでそれを持って職場に行き、
この私がラップの見本(!)を披露することになった。
どう見ても馬鹿じゃないか。
そう思いながらもハマって練習したら、これがなかなかうまくいく。
リズム感と「間」が高く高くおばちゃんの前に立ちふさがるのだが、「間」さえわかれば変化球でもなんとかいける。

「間」がわかってくると一回一回違ったバージョンになってもそれなりに楽しい。

若林の本にも、同じく「間」の心地よさがあった。

この人の本なら私は繰り返し何度でも読める。
絶妙な言葉のリズムと間の取り方。

文章の間には頷かずにはいられない真実のようなものが沢山つまっている。

面白いのに気が付くと泣いてもいる。

私から見ると彼はまだ若いのに、彼なりに人生の中盤にさしかかった変化を描くさまも清々しい。
自分の人生とようやく折り合いがついてきた感じがまたいい。

「落語家」の話も素晴らしかった。
全盲の高校生が高座に上る話だ。
生まれつき全盲の少年がいかに落語の小道具に触れ、理解していくか。
師匠とのやり取りを実に的確に若林は描く。

少年の「笑い待ち」(客席に笑いが起こった時に笑いが収まるまで次のセリフを言うのを「待つ」こと)の上手さ。
目の見えない少年に教えられた

「自己の確認なんかじゃなかった。共感の確認なんだ。」



笑いというものを真正面から捉えた言葉にやられた。


ラップの練習のし過ぎか、すっかり間延びしてしまったのでこの辺で今日はやめにしておこう。

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2016
02.15

「三四郎」

Category:
1991年版、集英社文庫の、夏目漱石「三四郎」。

sanshirou.jpg


この文庫の表紙を飾っているのは漫画家の吉野 朔実さん。
彼女の漫画が好きだったのですぐにわかった。
美禰子と思しき女性が日傘を手に佇んでいる姿を、袴に下駄ばきの三四郎が後ろからちょっと間抜けな感じで眺めている。

何故今頃「三四郎」かというと、某所で、エミリー・ディキンソンの「頭の中は空よりひろい」と同じような言葉が、漱石の「三四郎」のセリフにもあるという文章に行きあたったからだった。

この集英社文庫、昔読んだ漱石本とは装丁も違えば、注釈、解説も違って、文庫とは言いながら漱石の写真や年譜の内容も豊富。
「当時の」若者向けシリーズ「ヤングスタンダード」の一冊。

さて、あまりにも有名な漱石の「三四郎」だが、舞台は日露戦争後の日本。
熊本の高校を卒業し、大学進学のために上京する三四郎の物語は、当時の朝日新聞連載で、丁度当時大学の入学時期であった9月に連載が始まり、お正月明けの三四郎の実家帰省の後、再び東京へ戻って来る時期に小説も終わる、という現実と小説の季節や出来事がぴったり一致するという状況を上手く取り入れながら編まれた小説だったそうだ。

このあたり、解説の小森陽一氏の筆の冴えには素晴らしいものがあって、語注も詳細でわかりやすかったのだが、この解説を読むだけでも十分面白い。
絵画の光彩と陰影を、そのまま小説に移し替えた部分を明らかにする解説の鮮やかさに、本編よりも引き込まれたのは私が黒田清輝の絵を思い描いた部分を、そのままそのように評しておられたからだ。
小説世界に散りばめられたその時代の事象と共に、女性の立ち姿の美しさの表現が絵画と重なり、そのまま目に浮かぶように描かれる。
漱石を読む楽しさの一端だと思う。

この解説に続くのが、小説家、三田誠広氏の「鑑賞-十五歳の春」だ。

三田氏の「僕って何」の主人公は漱石の「三四郎」の現代版だと言われたそうだが、
「三四郎」がそもそもツルゲーネフの「初恋」、武者小路実篤の「友情」、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の主人公同様、綿々と続く青春小説の主人公の原型、だという。

漱石の書いたものに関しては、青春小説という読み方では終わらない引き出しが山ほどある小説だと思っているので、却ってこの三田氏の書きかけの小説の形をとった「鑑賞」は読後を爽やかにしてくれるものがあった。
そう、またしても私は、本の中のロマンスの部分を完全にすっとばしてこれを読んでいたのだ。
おかげで、甘やかな気持ちで本を読み終えることができた。

三四郎は、熊本から東京までの長い列車の旅の途中で運命の女性と出会うのだが、他にも幾人かと言葉を交わしている。
列車の中で出会った男は、
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎の言葉に、
「亡びるね」と言葉を返し、更に言う。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・。」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持がした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

夏目漱石 「三四郎」 集英社 1991年より



この男は車中から見た西洋人を「美しい」と評し、後に英語教師だということがわかるので、西洋文化に触れた人物として、九州から出てきたばかりの三四郎に含蓄のある言葉を投げかけたのだろうが、三四郎が東京で出会う人々のほとんどが英語を理解し、英文学に原書で触れているというところに、この時代の空気を感じる。
漱石自身が投影される登場人物たちは、坊ちゃんの別バージョンのようでもあり、解説の「新聞小説」という特徴を余すところなく使った作品だったという説にも頷くばかり。
寄席や大きな図書館、電車の路線、事件、芸術文学、その他諸々。
当時「三四郎」が、地方に住みながらこの小説を読む人々にとって主人公に自分を投影しながら都会の華やかさや教養と呼ばれるものに触れた心持になれる、新鮮な読み物であったことは想像にかたくない。


「日本より頭の中が広いでしょう」という三四郎の言葉は、エミリーのそれとは全く違う意味だと思う。
二十年も実家に籠り切りだった女性が描く内的宇宙の深さと、
田舎の国粋主義から抜け出ることのできない若者が、広く世間を知った男との日本でさえ小さい国だと言わんばかりの会話の中でのちょっと虚勢を張ったとしか思えない言葉は、別のものだ。

けれど、どちらも純粋であることに変わりない。

それにしても、一言でつながる小説と一篇の詩。

エミリーの残した詩の世界は、やはり空より広いのかもしれない。

昔読んだ本を違った目線で読めたのは、またしてもエミリーのおかげだった。




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2016
02.06

一冊~にさつ~

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この1週間、仕事に追われていた。
PCを開くと疲れてくるので、夜は本を読んでいた。

面白かったのは

山ン本 眞樹
「怪の壺 復刻版: あやしい古典文学」

kainotubo.jpg


とにかく一つの話が短い。
短いが、とびきり怖いし不気味。
みな参考文献や資料が残されている話の書き起こしである。
こりゃドッペルゲンガーじゃん、という話や、
え?もしかして地球外生命体?円盤?宇宙人?とか。
海の生き物と人間の交じわる話とか。
日本人が大自然と「夜」「闇」をいかに恐れていたかが伝わる小編集だ。

小川未明にも似た話があるが、
あんなにロマンティックでもない。

人間と人間でないものが逢魔が時に出会う一瞬、
それがごくごく短い逸話の中に次々に現れる。



重松清
「卒業」

瀬尾まいこ
「図書館の神様」

浅井リョウを2冊。
「桐嶋、部活やめるってよ」
「少女は卒業しない」(再読)

あとは、西加奈子「サラバ!上・下」。

重松清はともかく、自分より若い作者の作品は、どうしても粗の方が見えてしまう。

ただ、浅井リョウの「桐嶋」も、西加奈子の「サラバ!」も、書かざるをえない気持ちは伝わる。

もう一つ、
映画「2001年宇宙の旅」を思わずまた見直してしまうことになった本が

徳井いつこ
「ミステリーストーン」
mistery stone

こちらも参考文献の多さに驚く。
世界は石でできていて、石によって回っているのかもしれないと思ったほど、
石の世界にグッと引き込まれる。

宮沢賢治の描く世界が石のキラキラに満ちている理由、
ユングと錬金術への開眼、
インディアンの伝説、
そして
「2001年宇宙の旅」で超強力な信号を送ったとされる「1:4:9」で出来た板状の巨大石「モノリス」。
この映画の難解さはアンサイクロペディアに面白おかしく書かれているが、
本書的見解によれば、このようなことらしい。

“この映画が二十世紀を代表する作品になり得たのは、人間と石板の関係が、ユングの言葉を借りるなら人々の心の「元型的なるもの」を強く喚起したからにほかならない。”

徳井いつこ 「ミステリーストーン」 筑摩書房より



普通にあの圧倒的な映像だけで永久保存版にしておきたい映画になったのではないかと思っていたので、驚いた。

他にもかのマリーアントワネットを悲劇に導いた(かもしれない)宝石の話や薬になる石、
とにかく石、石、石のありとあらゆる逸話が飽くことなく語られる。

あとがきは映画「ベルリン・天使の詩」が象徴する石の話。

何かを徹底的に好きな人の書くものは、もうそれだけで面白い。

という、なんともオチのない読書録。






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2016
01.24

空より広い

Category:
エミリー・ディキンソンについては「なぞの女性」「The Brain-is wider than the Sky-」で書いたが、一番好きな詩のきちんとした翻訳をなかなか探し出せなかった。


ところが、ひょんなところから発見。

「ぼくには数字が風景に見える」の著者、ダニエル・タメットの著作「天才が語る」の冒頭に

古屋美登里氏の手による「The Brain-is wider than the Sky-」の訳が載っていた。

ネット上には上手に翻訳されたブロガー様の訳は載っているが、それとは重ならないように、拙ブログには適当コンニャクをとりあえず載せていたが、きちんと載せられる翻訳者の訳が見つかった上に、この本そのものが、とても面白かったのが儲けものだった。

51kkuRLsHeL.jpg


著者は冒頭、この詩を紹介するにあたって

「小学生は全員この詩を学ぶべきだとぼくは思っている。」と書いている。


The Brain -- is wider than the Sky

The Brain -- is wider than the Sky
For -- put them side by side
The one the other will contain
With ease -- and You -- beside

The Brain is deeper than the Sea
For -- hold them -- Blue to Blue
The one the other will absorb
As Sponges -- Buckets -- do

The Brain is just the weight of God
For -- Heft them -- Pound for Pound
And they will differ -- if they do
As Syllable from Sound


頭のなかは空より広い
なぜなら、ふたつを並べてごらん
頭に空が入るだろう
いともたやすく、あなたまでも

頭のなかは海より深い
なぜなら、ふたつを重ねてごらん
頭が海を吸いこむだろう
スポンジがバケツの水を吸いこむように

頭はちょうど神と同じ重さ
なぜなら、ふたつを量ってごらん
ふたつに違いがあったとしても
音節と音の違いほど

エミリー・ディキンソン「頭のなかは空より広い」
『天才が語る―サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』
ダニエル・タメット/著  古屋美登里/訳  講談社 より 抜粋




エミリー・ディキンソンの詩を冒頭に紹介したダニエル・タメットについては、こちらの動画を見て頂いた方が本の内容をまとめるより早いと思う。
https://www.ted.com/talks/daniel_tammet_different_ways_of_knowing?language=ja

彼は高機能自閉症のサヴァンと呼ばれる人々の中でも、「自己認識と、高い言語能力のある」数少ない一人だ。

この本が上梓されたのは2009年、私の家族が重度の脳血管疾患にかかった数年後である。
日本語訳は2011年に出版された。

私は家族のリハビリの過程で脳血管疾患患者に関する医療関係者のための専門書を読みこんだものだが、
当時この本を読んでいたら、どんなに救われただろうと思うことが沢山書いてある。

それは彼が頭の中を「検査される側」でありながら、自分の頭の中で起きていることに関して、実に公平な立場で語っているからだ。

今手元で読んでいる『天才が語る―サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』 は、人間の「脳」の複雑な働きや、知能指数の指標の真偽、サヴァンと呼ばれる自分の能力について、更にインターネット時代の脳と情報のかかわりについてなど、翻訳の柔らかさと相まって、医学書よりはるかに読みやすい読みものになっている。

「脳内で起きていること」が「美」という言葉と共に綴られている不思議。

「2001年宇宙の旅」を思い出す。

「赤ん坊の誕生は一種のビッグバンと言える。小さいけれど、とても複雑な脳という宇宙の始まりだ。」

『天才が語る―サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』
ダニエル・タメット/著  古屋美登里/訳 より 抜粋



歳をとるのも悪くないなと思える文章だってある。

「歳を重ねていくことは、英知の土台を作る脳にはきわめて大きな強みになっているのかもしれない。たとえば、歳をとると情緒が安定するのは、脳が否定的な感情を抑え、肯定的な感情を育むようになるからだという研究結果がある。知識が積み重なるにつれて、老人の脳のシナプスのネットワークはさらに広がり、働きがよくなるのだ。」

同 抜粋




興味深いのは彼が第二言語(母国語ではない言葉)の修得に関して、子どもの頃に言語を学ぶ「臨界期」という言葉が、母語の獲得に関する言葉であって、第二言語の習得について言っているわけではない、と説明している点だ。
「世界中の言語には普遍的な特徴がたくさんある」、従って外国語を学ぶ多くの人が、「外国語を覚えるのは辛く難しいと思っているのが不思議でならない。」と言うのである。
彼はイギリス人なので、日本語を母国語とする私たちとは違うことが多々あろう。
下手に希望は持たないことにするが、なにやらこれも元気の出る話だ。
おまけにここには「正しい刺激を与えると、大人の脳でも第二原語の音声を正確に習得できるよう再訓練される」という研究についても述べてある。発音の正確な聞き取りと発声についてだ。
続けて第二原語を学んだ時期によってその言葉を保存する脳の場所が違うという研究の話も載っている。
「脳は、言語を学ぶ年齢に合わせて、それに見合った対策を立てている」とか。

そして「創造性」について。

「なぜなら創造性とは、規則に従って結果にたどり着くのではなく、むしろその規則を曲げたり壊したりしていくことで手に入れられるのだ。」

同 抜粋


アスペルガーの天才たちが「世界を変えた」とする精神科医マイケル・フィッツジェラルドの分析から繋がる独創性に関する彼の考察は何という優しさと美しさかと思う。
第6章の最後は、

「偉大な芸術作品がぼくたちの心を豊かにするのは、そういった作品がすべての者の心の奥深くに埋もれている宝物を思い出させてくれるからなのだ。」

同 抜粋


と結ばれている。
人類には共通する何かがあるから、美しさも芸術性(と言われるもの)も人の心を揺さぶるのだろうが、これを信じられないほど詩的に述べている章だ。

第8章の「思考の糧」ではWikipediaにも言及している。
wikiは便利で有難いと常々書いている私は、かなり痛いところを突かれている。

先日「池上彰のメディア・リテラシー入門」を読んだのだが、衝撃度がぜんぜん違う。

「言葉は与え、そして奪い給う」!!!!!




素人がたまたまこういった類の本を読んで、「ふんふん、わかった!」という気になるのも、脳の成せる錯覚のひとつだろうか。




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2016
01.04

ゆうき

Category:
スウェーデンの作家、レイフ・クリスチャンソンの岩崎書店「あなたへ」シリーズをご存知の方もいらっしゃると思う。



私が今手にしているのは10巻の「ゆうき」だ。

レイフ・クリスチャンソン著 「ゆうき」 岩崎書店 1997年より

「円盤投げ
夢の100メートルに挑戦する気にもならない人


そんな人は失敗しない」





「正義も自由も平和も
はじめからあきらめている人


そんな人は失敗しない」




「ゆうき」がタイトルなのに
勇気とはこんなもの、と、この本は語らない。

「そんな人は失敗しない」
と繰り返すことで、「失敗する」ことがどんなことなのかが徐々に伝わってくる。

そして

「失敗をおそれない ゆうき をすこしだけもってくれたら」



と、結末に続いていくのだ。


昨年復帰したばかりで、
ほんの2、3試合の不調。
それも、浅田真央比、でだ。
大体あれが普通の選手なら不調と言えるレベルか?

「ゆうき」がなければ、「失敗」もしない。

失敗を恐れずに挑戦し続けることは
「ゆうき」。

練習でできることが、試合で成功しない。

それでも試合に出続けようとする、それだって
 「ゆうき」。

失敗することを恐れる人より、
失敗する「ゆうき」を持つ浅田真央が、
私は大好きなんだと思った。

堂々と失敗していい。
それでもあなたの勇気には変わりない。








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2015
12.15

こびとのくつや

Category:
こちらのサイトに
「今月の絵本 - いもとようこ」←リンクしています

絵本作家の「いもとようこ」さんの『こびとのくつや』が載っているのですが。




全文読めるようになっていて、最後のいもとさんの言葉に、胸が詰まりました。

転載禁止のため、載せられませんが、
最後に

「こまったとき、たすけてくれる だれかが あらわれるのですね」


とあります。

夕方、JOに一緒に行ったSちゃんのlineに、
こんな言葉が書いてありました。


「真央ちゃん、大丈夫かな」

「誰か、ご飯作ってるんかなーとか、心配よ」

「ウチの近くにいれば、
ご飯作るのにな

って
ファンの人はみんな思うよね」




私は薄情な女ですので、
「私らも、ご飯は作ってほしいよね」とふざけた返事を書いてしまいましたが。

Sちゃんの優しさに、
ほろっときそうでした。

ファンには直接何もできないけれど、

「こびとのくつや」のように、
夜中に活躍できるといいのにな。

ある朝真央ちゃんが目覚めると

美味しくてヘルシーなご飯ができていたり、
部屋がピカピカで、クリスマスデコレーションが目いっぱい飾ってあったり、
手作りスイーツも置いてあって、「シーズン中は、ちょっとだけね」とカードがついていて。

衣装だって、新しくできてたり。


だけど、こびとにもできないことはある。

会場で、多くのいらんマスゴミに囲まれて、にっちもさっちもいかない時のガード。
週刊誌やネット記事のコントロール。
「大丈夫、大丈夫」って言って、そばにいること。

困った時、助けてくれる誰か。

グリム兄弟ではこびとや妖精。
日本ならお地蔵さんや河童さんらしいですが。

彼女は大人の女性ですので、
普通の人間が、いいと思います。





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2015
12.01

書く勇気 (やっぱり追記あり)

Category:
皆さま、もうすでに読んでおられる方も多いことと思います。




勿論、「WiLL 1月号」のことでございます。
前回同様、巻頭記事から全部読みましたので、今の私にとっては結構な分量でした。
面白い記事が多くて、うっかり読み飛ばせないので。

昨年の「WiLL6月号」の巻頭には「ヴィヴィアン・リー」。
この時も夢中になって読みました。

今回は「ジーナ・ロロブリジーダ」。
大昔、彼女とジェラール・フィリップが共演した、「花咲ける騎士道」について熱く語ったどなたかの記事を読んだ記憶が蘇る。
それを読んで、この映画もビデオか何かで観たはずですが。
ジェラール・フィリップの美しさは覚えていても、話の筋は記憶に残っておりません。
きっと顔だけ見ていたのでしょう、お馬鹿な私も蘇る。


総力大特集「メディアに正義はあるか」、では畳みかけるようにグイグイきました。

その中で、真嶋夏歩さんの
 「浅田真央の進化と無責任なJSF」 は
雑誌全体の流れの中ではかなり冷静なトーン。

わかりやすく、実に無駄のない、そして何よりミノルとシズカが吐いてきた数々の矛盾した言葉の記録としても
非常に価値ある記事でした。

シズカが著書で述べた

「ファンは採点の是非にこだわるよりも、衣装なども含めたフィギュアスケート本来のよさを楽しんでは」
という忘れられないアドバイスもちゃんと書いてくださっている。

それに続けて

「ファンがルールや採点に詳しくなったのは、いままで数々の不可解な採点を目の当たりにしてきたことの結果だ。
ほしいのは、判定について、あるいは採点方法について納得のいく合理的な説明だ。」


と書いてあることに拍手喝采。

記事は日本スケート連盟の財産とその選手へのサポート体制についても言及していらっしゃいます。

ソチのアルメニア砂リンクの件、2014年中国杯での選手の衝突事故の件についても事実をそのままに述べておられます。

先日のエリボン杯のフリーがテロのため中止になった時には、「選手が自分でフライトチケットの手配をする様子が映っていた。」と書いた上で、

「JSF(スケ連)の仕事は何ですか?」という問いに対しての彼らの答えは
「自国選手のサポートです」だった。



と続けています。

すっげーオチになってますね。

あったことをただ淡々と書いてあるだけですが、これだけでも大笑いしたほど、いかにJSFが無能であるかがよくわかるテキストのようでございました。

書こうにも、載せてくださる雑誌も少ない中、
フィギュアスケートに起こっていることを書いた真嶋様の勇気、載せたWiLLの好機(amazonでは本日、総合雑誌ベストセラー1位です)、にポチ押します。

続きを読む
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2015
11.03

エルトゥールル号

Category:
今年の夏、ふと手に取った絵本がこれだった。

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エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語
寮美千子/文 磯良一/絵  小学館

トルコが親日国だということは有名な話だが、こんな事件があったことは、知らなかった。
素晴らしい絵本で、実際に起こった海難事故を伝えているのだが、
子供向けとは思えない読み応えがあった。

こちらにこの海難事故の詳細が載っています。
http://dic.nicovideo.jp/a/%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ab%e5%8f%b7%e9%81%ad%e9%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6

ざっと要約すると

日本から明治天皇の甥が欧州を歴訪した折、オスマン帝国(崩壊後の一部が現在のトルコですね)も訪れた。
オスマン帝国の皇帝には、明治天皇から親書や勲章が贈られた。
このことへの答礼として「エルトゥールル号」が派遣され、「エルトゥールル号」は寄港した国々で歓迎を受けながら1890年、日本にやってくる。
「エルトゥールル号」は日本でも大歓迎を受けたが、その帰途、和歌山県沖で台風に見舞われ、乗員609名が嵐の海に割れた船体から投げ出されるのである。
冷たい海から生きて灯台へたどりついた船員が、この惨事を伝えようにも思うように言葉が通じない。
灯台守は近隣の村々に応援を要請し、村人たちは総出で乗員の救援に向かう。

多くの遺体が打ち上げられる中、生き残った69名のトルコ人も、重症者がほとんどだった。

言葉も通じない傷を負った異国の人々を、小さな村の日本人たちはどうしたか。

当時の和歌山県串本大島の村は、台風の影響もあって、自分たちの着るもの食べるものにも事欠く状況だった。
そんな状況でも、彼らは瀕死のトルコ人たちを必死で介護したのだ。

村人は少しだけニワトリを飼ってはいたが、ニワトリが産む卵を少し食べるためだけだった。
そのニワトリを食べてしまえば、自分たちは卵を取ることもかなわなくなる。
けれどトルコ人の命を救うため、彼らはそのニワトリをつぶし、供する。

命を助けられた船員たちは、国に帰った後、この話を長く語り伝えるのだ。


youtubeにこの海難事故とその後のイラン・イラク戦争下におけるトルコ政府の日本人救援について、動画がありました。




先日やっとの思いでハロウィンの雑踏を抜け訪れた先で、「これ、いいよ」と勧められた本がこちらだった。


「海の翼 エルトゥールル号の奇蹟」
秋月 達郎/著 PHP研究所

絵本も素晴らしかったのだが、更に踏み込んだ取材とフィクションとしての肉付けで現代に繋がるトルコと日本の絆を描いた「海の翼」。
こちらはエルトゥールル号事件そのものを扱った本ではない。
エルトゥールル号海難事故から100年以上もたったイラン・イラク戦争時の話である。

昭和60年、フセイン大統領がイラン領空の無差別攻撃を宣告する中、日本政府は現地イランに取り残された200名以上の駐在員やその家族などの日本人救出に手をこまねいていた。
日本人にとっては絶望的な状況の中、救出に手を差し伸べた国があった。
それがトルコ政府だった。

http://dic.nicovideo.jp/a/%e3%82%a8%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ab%e5%8f%b7%e9%81%ad%e9%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6
↑ニコニコ大百科(仮)よりこの経緯について一部お借りいたします。

イラン・イラク戦争における恩返し

このエルトゥールル号にまつわる話に関連して、こんな有名なエピソードがある。

1985年、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行った。これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、その原則から救出のための自衛隊を送り込めなかった(なお現在は自衛隊法が改正されており、限定的に派遣が可能となっている)。
ちなみにこの時、自衛隊派遣に反対したのは当時の最大野党であった社会党、現在の社民党である。
さらに民間の日本の航空会社も、イラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとした。
これもまた組合に所属する共産・社会党の面々が社内で猛反対したためである。
かくなるうえはと各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せているような余裕はなかった。

こうしてイランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えるしかなくなっていた。
イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続け、やがてトルコ大使館に辿り着いた。もしかしたら要請をしていた本人はまた断られると思っていたかもしれない。

だが、当時のトルコ大使イスメット・ビルセル氏(İsmet Birsel)は、

「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」

と答えて要請を快諾。実際にトルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やした。そのうえでトルコは自身の国民も苦難を抱える中で、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたという。それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時のことだった。
当然乗りきれなかったトルコ人が出てくるわけだが、トルコがイランからそれほど遠くなかったことから、彼等は陸路を自動車でイランから脱出したという(その数なんと日本人の倍の約500名)。

日本のマスコミは、当然そんなことなど知らないので一様に首を傾げ、朝日一部の新聞社に至っては「日本が対トルコ経済援助を強化しているからでは」という当て推量(つまり「これで恩を売った事にする気ってことかwwww金目当て乙wwww」という意味である)を紙面に載せる有様だった。その後、1992年から '96年まで駐日大使を務めたネジャティ・ウトカン氏(Necati Utkan)は、産経新聞のコラムにて1世紀近くも前の出来事を採り上げたのだ。

ただ一言、「我々はこの恩義に報いただけなのです」とのみ伝える為に。



この本を貸してもらったので、早速読みながら、何かほかに情報はないかと探していたら、来月映画が公開されるというではないか。
http://www.toei.co.jp/movie/details/1204606_951.html
<日本・トルコ合作映画>海難1890
2015年12月5日(土)公開

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日本人は、自分たちのことをよく知らない。
自らのよって立つところを、伝える努力を怠っているのではないか。

映画化されたことがとても嬉しい。





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2015
11.02

猫の矜持

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猫を飼っていらっしゃる方のブログを読ませていただくと、
その写真にほっこり癒される。

先日JOの時にお世話になったSちゃん宅にも、それは美しい猫が2匹いて、
私のパソコンの「ピクチャ」には彼らの写真がちゃんと保管してあるのだ。

で、
川村元気さんの「世界から猫が消えたなら」を読んでみたりする。
これは私の年齢になると読むのが悲しく、ちょっとばかりツラかった。


今日は目を手術されたばかりの猫さんの、実に良い面構え(こんな表現でごめんなさい💦)の写真を拝見して、
ふと
「ルドルフとイッパイアッテナ」を思い出した。



「ルドルフとイッパイアッテナ」
斉藤 洋 (著), 杉浦 範茂 (イラスト)  講談社

本はもう手元にないのでwikiをのぞくと、なんと来年映画化されるというではないか。
3DCGアニメで。
挿絵のままで映画化してくれよ、と願ってやまないのだが、どうなることやら。

wikiからあらすじをお借りいたします。

あらすじ

ひょんな事から岐阜から東京へ行ってしまった猫のルドルフは、そこで教養のある猫イッパイアッテナに出会う。ルドルフはイッパイアッテナと気が合い、イッパイアッテナはルドルフを岐阜に帰らせる方法を模索する。ルドルフはその間にイッパイアッテナから字の読み書きを習う。その後、友達となる飼い猫ブッチーとも出会い、岐阜へ帰る方法を発見した。しかし岐阜へ出発する前日にイッパイアッテナがブルドッグのデビルとの喧嘩で重傷を負ってしまう。

キャラクター


ルドルフ
主人公の黒猫。リエちゃんという女の子に飼われていたが、トラックに間違って乗ってしまい、東京にまで来てしまった。イッパイアッテナと出会い、彼に世話になりながら、りえちゃんの元に帰る方法を模索する。自分の町の名前を知らなかったため、帰る方法も分からずにいたが、甲子園に出場した「岐阜商業」の地元紹介でその町が映った事で、自分がいた所が岐阜であると知った。イッパイアッテナに習ったり、小学校に忍び込んだりして文字の読み書きができるようになった。この作品は、ルドルフがゴミ捨て場のインクを使って自分で書いたもので、それを斉藤が肩代わりして出版したという設定になっている。

イッパイアッテナ
ルドルフが東京で出会った虎猫。以前は人間に飼われていたが、飼い主が引っ越してしまったため、野良猫になった。現在は神社に住みながら、様々な人間から餌をもらって生きているノラ猫。日本語の読み書きができる。これは、元の飼い主が面白がって教えたためである。餌をくれる人間からは、それぞれ自由に名前をつけられている。そのため、初対面のルドルフに「俺の名前はいっぱいあってな…」と言った事から「イッパイアッテナ」という名前だと勘違いされ、ルドルフからはそう呼ばれるようになった。なお、元の飼い主からは「タイガー」と呼ばれていた。具体的な名前としては、近所の猫の間では「ステトラ」近所の警察官は「ドロ」近所の魚屋は「デカ」学校の先生(給食室のおばさんと通称クマ先生 本名 内田先生)が「ボス」近所のやさしいおばあちゃんが「トラ」である。

ブッチー
ルドルフやイッパイアッテナの友達で、近所の金物屋の飼い猫。ルドルフより少し年上。

デビル
近所の猫たちの間で凶暴な犬として知られているブルドッグ。イッパイアッテナのことを憎んでおり、イッパイアッテナの肩にかみつき、殺しかけた。



これは先日から読んでいる本ともつながるのだが、
誰しも読み書きに始まる「知る」を起点として、
そこから広がる世界、目に見える出来事がすっかり変わってしまうという経験が少なからずあるのではないだろうか。

これを、この本では野良猫の世界でやってしまうわけだ。

猫が読み書きを勉強して、飼い主の元に戻ろうとする。
猫が自分たちに起きた出来事を書き留めておこうとする。

猫には猫の矜持があるのだ。
きっちり筋を通す。
その生きざまが、カッコイイ。
そして、優しい。


何にも言わないけど、実は何でも知ってるんでしょ、あんたら。

猫にそう思ったことのある方には、この本は楽しいかもしれない。

シリーズが進むごとに主人公が成長していくのだが、
それが私には切ない。

大人が読んでもいい本はいい。
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2015
11.02

ハロウィンの日のカブ顔

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季節は違うが、ハロウィンを日本の行事に置き換えれば、「お盆」に最も近いと言われている。


「カボチャの絵本 (そだててあそぼう (12))」
いとう きみお (編集), ささめや ゆき (イラスト)
農山漁村文化協会

Amazon商品説明より

シンデレラのカボチャの馬車に、ハロウィーンのおばけ。自分だけのカボチャを育てて、まるごとカボチャを楽しもう。おいしい食べ方、おもしろ実験、歴史、品種紹介、栽培ごよみなどを収録する。



この絵本のシリーズは一つの作物を色々な視点から語っており、いわゆるお話し絵本ではないのだが、面白くてためになる良書だ。
子供向けのはずだが、情報量と中身の幅広さは大人がちょっと調べ物をするのにピッタリである。

私はこの絵本でカボチャの種類が世界各地にどのくらいたくさんあるかを知った。
形、色、大きさの違いも一目瞭然である。
栽培についてもいい加減ではなく、まじめに取り上げてあるところが好ましい。

私はハロウィンの起源や、古代ケルトのカブのジャック・オー・ランタンについてもこの絵本に教えてもらったのである。



さて、ハロウィンの前日でした。
私は所要で繁華街を急ぎ会場に向かっていた。

奇天烈な格好の若者たちを遠近両用メガネの端で確認しながら、
彼らを避け、会場の裏口から中に入る。
待ち合わせの同業者に連絡すると、
やはり表の入り口で私を待っていたと言い、
ハロウィンの行列が面白いのでギリギリの時間になったら会場に上がってくると言う。

ハロウィンの日、職場は早朝から丸1日忙しい日で、その後駆けつけた息子の学校でも行事の準備を手伝い、
それを抜け出してこんなところまでやってきたのだ。

疲れ果てた私の顔は、きっと「カブのアイルランド系ジャック・オー・ランタン」になっていたに違いない。

カブのジャック・オー・ランタン(アイルランド)
800px-Traditional_Irish_halloween_Jack-o-lantern.jpg

カナダ在住のギフティッド(天才)である大川君のブログに、「大人のハロウィンの過ごし方」が書いてあった。
「11月2日 行事」の記事だ。
こちらをどうぞ→「実録!翔の『極楽カナダ生活』」

カナダのハロウィンについて書いてあるのだが、日本でいえば、彼はふつうなら高校1年生なのである。
その彼が、ハロウィンでの大人の立ち位置について、実に的確なことを書いている。

彼自身が、すでに大人としての振る舞いを心得ている。

大川君の著書はこちら


コスプレして、楽しむのは子供である。
自分たちがしてもらったように、子供たちを楽しませホスト側に回るのが、
大人というものだと大川君はサラッと書いているのだ。

私にはこの少年が(ギフティッドとしてすでに大学2年生なのだが)とてもクールだと思える。



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2015
10.19

正義を水のごとく

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1963年、キング牧師が行ったワシントンでの演説の折には、多くの支援者がリンカーン記念堂に集まった。

その中には世界で名を馳せたアルトの歌姫、
「マリアン・アンダーソン」もいた。
この時彼女はすでに66歳。
どんな思いでこの場に立ったのだろう。

彼女は1939年、アフリカ系アメリカ人で初めてリンカーン記念堂で歌った人物だ。


キング牧師の演説で歌った時は、3度目だったという。

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youtube、「Nobody Turn Me Around: A People's History of the 1963 March on Washington」1分56秒あたりに、歌う映像が残されていた。


初めて彼女の絵本を読んだ時、
差別に苦しんだ彼女の時代を、知りたいと思った。

彼女は1924年、27歳の時にアフリカ系アメリカ人で初めて、大手レコード会社ビクターで、ゴスペルのレコーディングをしたコンサート歌手だった。
8か国語で歌うことができたというが、その努力は当時の状況を考えても並大抵ではなかった。

余談ですが、私の姉もかつて声楽を勉強していました。
発音、発声、言葉の壁は厚く、しかも文化的な素養の違いもあり、苦労していたことを覚えています。
それを、あの時代に、アフリカ系アメリカ人で、
正攻法な歌い手を目指すという途方もなさを感じずにはいられませんでした。





ヨーロッパでは歓迎されても、自国でのコンサート開催には度々横やりが入った。
そんな彼女を支援する人々の中には、内務長官ハロルド・イックス、エレノア・ルーズベルト大統領夫人がいた。

マリアンは自分の問題がすでに黒人全体の問題になっていることを自覚した時から、白人と黒人の座席を区別しないホールでしか歌わないことを宣言した(1952年)。
自分の後に続く歌い手たちのために。

自らの歌声で、彼女もまた黒人差別により閉ざされた扉を、一つ一つ開いていった。

そしてついに、黒人であるという理由で、彼女が歌うことのできなかったホールは、なくなるのである。

1953年、日本でもコンサートを開いている。
N響が招いた海外からのソリストとして、客演していた。
http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/222106.html←NHK-FMブログより
ピアニストのワルター・ギーゼキングとバイオリニストのアイザック・スターンと共に招かれているが、HPによれば、マリアンの録音は残っていないそうだ。


絵本、というには美しく、重厚でさえある。




「マリアンは歌う 」
パム・ムニョス ライアン (著), ブライアン セルズニック (イラスト)


Amazon(「BOOK」データベースより)

「あなたのような声は、100年に一度しか聞けない」。世界的な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは、マリアン・アンダーソンの歌声を、こういってたたえました。幼いころからマリアンは、歌うことが大好きでした。マリアンは、黒人という理由で、どんな屈辱を受けようと、誇りをうしなわず、心をこめて歌いました。これは、自らの歌声で、自身の、そしてあとに続く黒人音楽家たちの道をひらいた歌手、マリアン・アンダーソンの物語です。



挿画はあたたかなブラウンのグラデーション。


1897年生まれのマリアン・アンダーソン。
「天使の歌声」と言われる声を持っていた彼女は、少女時代に父を亡くしたが
聖歌隊で歌う彼女に、教会は学費を援助すると約束した。

しかし現実は厳しかった。

“黒人に生まれたら、プロの歌手にはなれないのだろうか?”

黒人であるが故、国内では音楽学校への入学は許されず、
なかなか良い先生につくこともできなかった。
コンサートに呼ばれるようになっても、
往復の列車は「黒人専用」の汚れた車両。
彼女が歌うステージの客席は、前の方の良い席が白人、後方が黒人の席、と分けられるか
白人用、黒人用の2回、一日の間に同じプログラムを歌わなくてはならなかった。

ステージでどんなに大きな拍手を貰おうとも、
彼女を泊めてくれるホテルがないこともあった。

彼女は歌の勉強がしたかった。
コンサート歌手として国内を回りながらも、教えを請うために声楽家、ジュゼッペ・ポゲッティのオーディションを受けた。

ポゲッティは気難しい先生だったが、マリアンの歌声に
「今すぐ、きみを生徒にとろう。」と言った。
先生の教えの元、マリアンはイタリアオペラも勉強した。

絵本は、彼女が憧れて、どうしても立てなかった舞台、オペラ「蝶々夫人」についても触れている。
念願かなって黒人として初めてNY、メトロポリタン・オペラに出演した時、ヴェルディの「仮面舞踏会」ウルリカ役で歌ったそうである。



ヨーロッパに渡った彼女は、勉強を続け、歌手として成功を収めた。
しかし本国アメリカでは、歌手としてだけでなく、黒人の代表としても
人生を全うすることになった。

1977年、80歳で国連平和賞を受賞している。

絵本の「マリアンは歌う」には、静かな語り口の中に、つぶされてもおかしくなかった一人の天才の、
強さと思いが選び抜かれたエピソードで綴られている。
彼女は決して自分の主張を貫くタイプではなかった。
政治的に控えめな態度が、かえって白人の支持を受けたのではないかと思う。

1936年、彼女への支援を惜しまなかったエレノア・ルーズベルト大統領夫人のために
ホワイトハウスでも歌っているが、あの時代に
黒人として多くの尊敬を集めたことに驚く。
マリアンの出演を拒否した婦人団体に抗議し、彼女の立つ舞台のために奔走したルーズベルト大統領夫人の勇気にも。

彼女は黒人霊歌を多く歌ったが、その歌が白人を動かした。
彼女に続く黒人歌手に残した「開かれたコンサートホール」は、
まさに「非暴力」で勝ち取った価値あるものだったと思う。



こちらは1939年のリンカーン記念堂での歌声。

天上人の声とは、このような声のことかと思う。

75000人の聴衆を前に、歌うマリアン。

4000人が入る憲法記念ホールで歌うことを拒絶された彼女のために、
多くの人々が抗議し、時の大統領、ルーズベルトが内務省を通じ、
リンカーン記念堂の、リンカーン座像前で歌うように、マリアンを招いたのだ。

彼女が歌う前に、聴衆にはこのように紹介されている。拙訳ですが、大体こんな感じでしょうか。
Genius draws no color line, and so it is fitting that Marian Anderson should raise her voice in tribute to the noble Lincoln who mankind will ever honour.
「才能は白人と黒人の境界線を無くしてしまいます。だからこそ、皆が敬意を払う高貴な人物、リンカーンに対し、マリアン・アンダーソンの歌声は、高らかに響くにふさわしいのです!」

「この当時、“天才”とか、“才能”という意味の言葉を黒人に対して使ったところがすごいと思う。」と、マリアン・アンダーソンを尊敬すべき人だと語ったのは私の隣の席の同僚である。
彼はニュージーランドの人なのだが、なんであーたが彼女のことをそんなに知ってるのよ?と驚いた。
クラッシック音楽ファンの彼は、彼女をゴスペルだけでなく、オペラ歌手として認識しているのだ。
ということで、リンカーン記念堂でのこの前ふりは、マリアンに対する最高の賛辞だと思ってよいと思う。






彼女が歌った歌詞が効果的に、絵本の中に入れられている。
youtubeで残された音源も聞くことができた。

http://www.worldfolksong.com/songbook/spiritual/deep-river.html
「世界の民謡・童謡」というサイト様には
黒人霊歌として知られる「深い河 Deep River」について詳しく載っている。

北部州と南部州の境界に位置する州として、そこを縦断するように流れる河川「Deep river(ディープ・リバー)」は、あたかもヨルダン川のように、自由と隷属、生と死の境として象徴的に解釈されるのだろう



マリアンの「深い河」は、聴くと耳から離れないような魂の歌。
この曲をカバーしたアーティストとして挙がっていたのが、
バーバラ・ヘンドリックス、
マリアン・アンダーソン、
マヘリア・ジャクソン、
アレサ・フランクリンなどである。

マリアンと共にキング牧師のワシントン大行進に参加した
マヘリア・ジャクソンも歌ったこの曲。


マリアン・アンダーソン「Deep River」



こちらはマヘリア・ジャクソンの「Deep River」


マヘリア・ジャクソン

wikiより

リンカーン記念堂での演説の終盤にマヘリア・ジャクソンが「あなたの夢をみんなに伝えて」という叫び声が聞こえたことを受けて、キングはあらかじめ用意していた演説の締めくくりの部分を読まずに、“I Have a Dream” という題について即興で語りだしたという。




1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。



奴隷から解放され、法的に認められたはずの黒人の権利.。
それでも南部を中心に、差別が生んだ悲劇の事件はあちこちで続いていた。





映画「グローリー」こちら

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「yuccalinaのヨガ的雑記帳」さまの記事に、この映画について、公民権運動の活動家たちについて
詳しく載せておられましたので、大変勉強になりました。

こちらで活動家の面々についてや、キング牧師の有名な演説について知らなかったことを沢山教えて頂いたおかげで、この映画を何倍も堪能できました。

『グローリー/明日への行進』を見た!と『The 60's 公民権運動』のこと
☝リンクしています。

公民権運動は、黒人の運動だけにとどまらず、白人の支援者たちにとっても命がけであったこと。
そこには政治的な駆け引きや、ユダヤ人の協力もあったことなど、一連の流れとして詳しく書いてくださっています。

演説を知っていたくらいで、公民権運動のことなど何も知らなかったのだとつくづく思いました。

そしてまた、
youtubeでマーティン・ルーサー・キング牧師のワシントン大行進の時の演説を見たわけです。

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キング牧師とローザ・パークス―黒人の平等な権利を求めて
ファエル フリエル (著), ザウ (イラスト), 高野 優 (翻訳),


この本は子供向けではあるが、アメリカの公民権運動について
キング牧師とローザ・パークスを軸に、わかりやすくまとめてある。

wikiによると、ローザ・パークスとは

1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで、ローザは米国史における文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。

人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は国際的に高く評価されている。



同じくwikiより
バス・ボイコット事件とは

1955年12月1日、市営バスに乗車したローザ・パークスは、白人優先席に座っていた。運転手のジェームズ・ブレイク(英語版)が、後から乗車した白人のために席を空けるように指示したが、パークスはこれに従わなかった。ブレイクは警察に通報し、パークスは、運転手の座席指定に従わなかったという理由で逮捕された。

ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソン(英語版)は、ジョージア州アトランタからモンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけた。

キング牧師らが、バスへの乗車のボイコットを呼びかけると、多くの市民がこれに応じた。結果として市のバス事業は財政破綻の危機に瀕することとなった。1956年11月13日、連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下した。そして、運動は1956年12月20日に公式に終了した。



キング牧師のwikiから

モンゴメリー・バス・ボイコット事件

1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。



注:モンゴメリー(Montgomery、モントゴメリーとも)は、アメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリー郡にある都市。
私が読んだ本の表記は全てモントゴメリーでしたが、wikiでは全てモンゴメリーになっています。


1963年のワシントン大行進、1965年、映画「グローリー」で描かれたセルマの大行進、
それ以前にキング牧師等が指導したと言われる「バス・ボイコット事件」。

キング牧師の身の安全のために、「キング牧師に先導されてバスに乗らなかったわけではない」と裁判で証言した人々の中には、当時十代だった少女も含まれていた。


公民権運動に関わった人々の中には、光を浴び、
称賛された人ばかりではなく、歴史の影に
葬られた人々もあった。
無残に殺された人々もいたが、生きながらも同じ黒人によって
その勇気を称えられるどころか、表舞台から消し去られた人々がいた。

一部の白人は、公民権運動に命がけで協力した。


その一方、公民権運動では、黒人の支援者だった白人も、同じ白人によって殺されたり暴力にさらされたが、
黒人同士であっても、公民権運動で命を危険にさらすか否かで意見が割れたり、
「黒人である自分を憎む」といったメンタリティーに苦しんだこともあったという。



その繊細な心が語られている、あの時代を生きた一人の女性の証言として、貴重だと思われる一冊がこちら。
Amazon「BOOK」データベースより

1950年代、アラバマ州モントゴメリ。人種差別の激しいこの町では、バスの座席も白人用と黒人用にわけられ、空席がなくなると黒人は白人に席をゆずらなければならなかった。そんな差別にたいして、はじめて「まちがっている」と声に出して言った少女がいた。




席を立たなかったクローデット―15歳、人種差別と戦って
フィリップ フース (著), Phillip Hoose (原著), 渋谷 弘子 (翻訳)


こちらを読むと、モントゴメリでの「バス・ボイコット」に至るまでに、
「ローザ・パークス」以前にも、「席を立たなかった」(白人にバスの座席を譲らなかった)少女が少なくとも2人、いたという。

この本の主人公、クローデットは白人にバスの座席を譲らなかったことで有名になったが、学校には彼女を批判する向きもあった。果てに妊娠を理由に放校になるのだ。

それでも彼女は出産後すぐに、市バスを黒人側から訴えるという裁判(ブラウダー対ゲイル裁判)の証言台に立ち、裁判に勝ったことで「バス・ボイコット」は終わりを告げるのだが、十代で未婚の母となったクローデットは活動の表舞台に立つにはふさわしくないと、活動家の人々からも一線を引かれてしまう。

この本の中で、当時高校生だったクローデットが、黒人ばかりの高校生活の中にもスクールカースト的なものがあったことを語っていた。
白人との混血で、家が裕福な子は学校での頂点に位置し、クローデットのように色も人一倍黒く、縮れ毛も強い子は、下層、というように。
白人に憧れ、女の子達は縮れ毛をストレートヘアにするために必死だった。
クローデットも最初は皆と同じようにしていたが、バスの事件以来、そんな自分達自身がおかしいと感じるようになった。
そして自分の髪の毛をコーン・ロウ(編み込み)にする。
私は私のままで美しい、というように。
ところがそんな彼女に周囲は益々冷たさを増すのだ。

公民権運動は大人たちの人生にも様々な戦いを強いたと思うが、子ども達の心の中にも影を落としていたに違いない。


「ブラック・イズ・ビューティフル」という言葉の記憶を、呼び覚まされるようだった。

自由を勝ち取ることと同時に、自分達の尊厳、プライドを得るための戦いを、彼らはあらゆる立場、あらゆる場所で行っていたのだ。


ローザ・パークスが勇気ある人権活動家と称賛される一方、彼女は未婚のまま2人の子どもを育て、生活は苦しいままだった。
ノンフィクション作家であるフィリップ・フースが情報を得てインタビューを取るまで、彼女の存在は忘れられてしまっていた。




1963年、ワシントン大行進の折、リンカーン記念堂の座像の前で、キング牧師はこう語っている。


“justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream.”
「公道を水のように、正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」
アモス書より

あの何度も繰り返す「私たちは~するまで、決して満足(納得)することはない。」の最後の部分だ。

リンカーン大統領からオバマ大統領まで、公民権運動から連なる様々な本を読んでみた。

人種を超えた友情を描いた本は、翻訳された絵本だけでも数多くある。

実話であっても子供向けの絵本は本編は単純化され、あとがきに簡単な情報が載せられている。
絵本としての完成度、事実をそのまま伝えきっているかなど、大人向けの本のように詳しくない分だけ、興味がわく。


「リンカーンとダグラス」 
ニッキ ジョヴァンニ (著) ブライアン コリアー (イラスト)


リンカーン大統領とフレデリック・ダグラスの人生を絵本の中に短い対比で浮かび上がらせ、
北軍が南軍と戦ったあの戦争に、「奴隷制度」について意見の一致をみた二人(複雑な経緯はありますが)を描いている。
この本の「ダグラス」は合衆国大統領選挙でリンカンーンに敗れたスティーブン・アーノルド・ダグラスではなく、奴隷から身を起こし、アメリカ史上アフリカ系アメリカ人としては初めて副大統領候補に指名された人物だ(本人には知らされていなかったそうだが)。

さて、このリンカーン大統領を尊敬し、「リンカーンと握手した」その手を支えに兵士となった少年の絵本は有名なのでご存知の方も多いかもしれない。



「彼の手は語り継ぐ」
パトリシア・ ポラッコ (著)


こちらも実話である。
南北戦争時、北軍に従軍していたものの、あまりの恐怖と辛苦に耐え兼ね、脱走した15歳の白人少年兵。
足を撃たれた彼は、生死の境をさまようが
同じ北軍の黒人少年兵とその母親によって命を救われる。
北軍には南部からの逃亡奴隷を中心とした黒人部隊が組織され、戦争終結までには18万人もの黒人が参加していたという。
黒人部隊はまともな武器も持たず、それでも「奴隷解放」のために戦った。

残酷にも彼らをかくまってくれた、優しかった黒人の母親は殺され、少年二人は捕虜となる。

同じ捕虜となっても、白人である少年は命を助けられ、黒人であるがゆえに「ピンクス・エイリー」という名の少年は殺された。

のちに結婚して、子供や孫に恵まれた白人の少年。
彼のいのちを救った素晴らしい心を持った黒人の名前を残すために、少年だった主人公は、この話を自分の子どもや孫に語りついだ。



「正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」

余談だが、
ミス・マープルが「復讐の女神」の中で、事件解決の依頼主であるラフィール氏から貰った手紙に書いてあったのも
この言葉だったと思う。

ジェラルディン・マクイーワンのドラマの中でも物語を貫く柱のセリフとして使われていた。

「正義を川のように流れさせ」
ミス・マープル自身が、「ネメシス」(復讐の女神)となり、依頼主の遺言を果たしたという話だった。



「正義」とはなんだろう。

自分達だけに都合の良い正義も世の中にはあるのだろうが、
そのために誰かが虐げられ、泣くことがあるのなら、それは正義とは呼べない。

「正義」とは何だろう。

自分たちにだけ都合のよい「正義」がまかり通ってはならない。

「正義を尽きぬ川のように流れさせよ。」



キング牧師の残した言葉の力。

そしてマリアン・アンダーソンが残した歌声の力。

正義は、人を通して、川のように流れたのだろうか。






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