『山月記』割と世界旅行
あれですね、仕事を家に持ち帰っちゃいけませんね。
でも今回は仕方ありませんでしたよ。
中島敦の世界は広かったんですもん。
生涯教育って、誰でもいつでもいくつになっても
勉強して良いってことなんですよ。
なので以下は自分のための備忘録。
好き勝手に読んで考察して知ったようなこと書いてますけど
鵜呑みになさらないでくださいね。
手元にある古い『イギリス文学史』を見ると
例えば186p
1901年エドワード7世の時代始まる
1902年日英同盟
当時東大ではラフカディオ・ハーンがイギリス文学を教えていた、とあります。
歴史、文学史大事!
で、明治時代、鎖国を解いた日本は海外の文化や教育を取り入れていったわけですが
夏目漱石の人生なんてほぼ明治時代丸被りでしょ。
文豪と呼ばれる方々の全てが留学したりなさったわけじゃありませんが
海外の影響はやはり受けているわけです。
さて今回の主人公、中島敦は1909年生まれ
太宰治と同じです。
敦(いっそこう呼ばせてくださいな)は33歳、太宰は38歳で亡くなりました。
中島敦と言えば、漢文体で書かれた『山月記』
今も高校の教科書に載っていますのでお馴染みですね。
この『山月記』には多くのパロディ、オマージュ作品があります。
例えば
『文豪さんへ。』
『文豪さんへ。』は文豪たちの短編と、そのオマージュ作品がセットで載っている贅沢な作品集。
他にはそれぞれ別の現代作家による新美南吉、芥川龍之介などのトリビュート作品が載っています。

この本の中で田口ランディさんが書いた『山月記』のトリビュート小説はなんとSF。
これは抜群に面白かった。
こちらの固定概念をひっくり返すようなランディさんのオマージュ作品は
「何で虎になっちゃいけないの?」とさえ思えて笑ってしまいました。
どうしてそうなったかは、ランディさんがどのように『山月記』を読んだか、に繋がっていきます。
学生の頃、人が己ではない姿に変わってしまう小説に惹かれたというランディさん。
『ジキル博士とハイド氏』、そして今ヨルシカの曲で話題の『アルジャーノンに花束を』。
そうか、『変身』は何もカフカだけじゃない。
そういえば、『ジキル博士とハイド氏』の作者はスティーヴンソンですよね。
中島敦には『光と風と夢』という作品がありますが、それこそスティーヴンソンその人の話です。
中島敦の李徴は己の心が自らを獣に変え、スティーヴンソンのジキル氏は薬を用いて自分のもうひとつの顔を解放しました。
ラヴクラフトやポーと同時に世界怪奇全集(みたいな名前のやつ)でスティーヴンソンを読んだ私には、本家中国の話も敦もスティーヴンソンも皆『怪奇話』で一緒くたになってしまいます。
「唐代伝奇」にも入っている「人虎傳」。こちらには李徴と袁さんの別れのシーンの描写はありません。

「教科書御用達小説の主人公はクズでヘタレばかり」佐藤功著の
「山月記」で最後、李徴と袁さんの立ち位置について解説がありましたが、
あれ、袁さんが虎の李徴を見下ろす形で別れているそうなんです。
月をバックに山肌の高い位置にいたのはてっきり虎の方だと思っていました。佐藤氏によるとそういう人多いそうなんですけれど、月に吼えてるイメージでしょうね。
この『教科書御用達小説の主人公はクズでヘタレばかり』は文豪本話のネタ帳という感じで、
これらを「物語」に膨らませると抜群に面白いんです。
『文豪ストレイドッグス 公式国語便覧』
『文豪ストレイドッグス公式国語便覧』はいついかなる時も使える本です。
中島敦は主人公ですので巻頭に載っています。
虎の姿のまま獣と人間の心を行きつ戻りつした李徴ですが、文ストでの敦は人間と虎の姿と心を共存させていくのだと書いてあります。
さてそれから
『日本文学全集 宮沢賢治 中島敦』池澤夏樹 編/河出書房新社
これは池澤夏樹さんの解説に胸が熱くなります。
中島敦に関しては「客観的になれない」という言葉に驚き、その理由に驚き。

『近代文学鑑賞講座 中島敦 梶井基次郎』福永武彦 編/角川書店
池澤夏樹さんのお父様も敦について書いていらっしゃいました。
『南鳥島特別航路』池澤夏樹/新潮社
こちらは池澤夏樹が日本を巡り綴った紀行文学。
日本のさまざまな地域がが地元民とは違った視線で語られていて驚きます。
例えばその昔、大陸から来た人々は、確かに池澤さんが言うように
五島や対馬の『島』の向こうにある本土を「未開の大地」のように感じたかもしれません。
この本で語られる『南鳥島』を「南洋の島」として懐かしく語る池澤夏樹。
ここと中島敦が繋がるとは、本当になんて面白いのでしょう。
『カフカ』多和田葉子編/集英社
この中から『変身』。
まるで別の物語を読むようでした。翻訳者が変わり、読む方の年齢が変わるとこうも違うのでしょうか。
私の感想そのままの気持ちが、多和田葉子さんの解説にも書いてあって驚きました。
多和田さんは『変身』の解説に「今回は介護の物語が読めてしまった。」そう書いておられるのです。
今朝から中島敦の『山月記』、森見登美彦の『山月記』、そして多和田葉子版『変身』を続けて読んでいました。
私は乙女の本棚シリーズで最近もこの話を読んでいたのですが、今回は文庫本で読んだ中島敦『山月記』の中に、李徴のように秀才ともてはやされながら、思うような成功(中島の場合は作家としての)をおさめられないまま虎になってしまった(病にとらえられてしまった)中島敦自身を読んでいました。
「虎」も「毒虫ウンゲーツイファー」も、これを「(死に至る)病」と捉えると「介護される側」の意識を描きながら、介護をする人間側までも限りなく今日的に映し出していることに気が付きます。
グレゴールの独白は「部屋から出られない」不登校、引きこもりの当事者のそれそのもの。
人間性すら踏み躙る会社組織、ザムザ一家に間借りしていた紳士たちが「損害賠償請求」という言葉で家族を脅して被害者の顔をするやり口。
そして多和田さんが提示するのが家族を生かすための「生け贄」として社会に搾取される自分を「生け贄にもできない穢れ」に貶めることで家族を守るためだけの生活から逃れるグレゴールの「変身」の意味。
あまりにも若い頃にたくさん読書をするものではない、とつくづく思います。一回読んで終わっちゃだめな本もあるのです。
今こうして仕事の機会を頂くことがなければ、『山月記』、『変身』をこんな風に読む日は来ませんでした。
カフカは引きこもりの変わり者、というイメージがあります。
実のところは「労災保健局」での公文書を扱う時事、社会問題に精通した役所仕事と個人的倫理観の狭間にいた人。
多和田葉子さんの解説は、更に気になっていたグレゴールの「近親相姦的夢想」さえ逃していませんでした。
これはすごい。傑作解説というものがあるとしたら、まさにこの解説がそうでしょう。
毒虫が妹に向けた欲望の一端はやはりどう読んでも性的なものでした。

さて中島敦に戻りましょう。
『百年文庫 灰』に掲載された中島敦の『かめれおん日記』の(特に同僚をディスる時の)勢いと後半失速していく自信のなさと。
どこに入っていたか忘れてしまったけれど、多分池澤夏樹編文学全集の中だったと思う『巡査のいる風景』の苦しさとモノクロ映画のような描写の素晴らしさ。
若さと苦さと何者にもなれない厨二病の残る感じと。
中島敦と巡るメタモルフォーゼの旅はまだ途上ですが
いくつになっても旅は愉しく
途上のままでいたい。
母校は『薩摩ホグワーツ』
何度観ても大笑い。
オットが純製品の薩摩隼人なんで
薩摩言葉の完成度にも驚きましたし
設定の無理
なのに無理のないなめらかなこじつけに
感嘆しながら
涙流して笑い転げました。
ハリポタを原作から読み込んでおられ
もしまだこれをご覧になっておられない方がおられましたら
まじでおすすめです。
息子のゴリオの友達に
いっつもニヤニヤ(何故かニコニコじゃないの)していて
でも何故か人望アツい子がいるのですが
あれは武装解除の呪文の使い手だからじゃないかと思うんですよね。
所謂エクスペリアームスですが
これ、薩摩ホグワーツなら
「手足切り落とせばエクスペリアームス」ってことになるわけですね。
「チェスト」を意味のない掛け声だとは知らず
英語だと信じていた私に
「薩摩ホグワーツ」の真髄が理解できるのかはさておき
こういう遊びはほんと楽しい。
桜の樹の下で
この話題も出尽くした頃なのですが
あらためて
浅田真央さんの夢が
いよいよ『MAO RINK PROJECT』という名で実現しますね。
インタビュー動画を繰り返し拝見しながら
桜の花を背にした美しい立ち姿に
あたたかなため息が。
ようやく無事に年度を越えて
職場の顔触れも多少変わり
文字通りの新年度となりました。
昨夜は力尽きて夕食後から寝入ってしまい
起きたのは12時間後。
最も忙しいのは来週からなのに
体力無さすぎて笑う。
真央さんはこれまでもインタビューの中で
「スケートに恩返しをしたい」と語ってきました。
自分を育ててくれた世界に少しでも何か残したい
それはどんな人にも大なり小なりある気持ちかもしれません。
さて
私ももうひと踏ん張り。
散っていく花びらに背中を押されるように
今年度も頑張ります。
『999』の女たち
東宝アニメーションミュージアムチャンネルが
YouTubeで
『劇場版 銀河鉄道999』を公開していますね。

久しぶりに観ましたが
やっぱりやっぱり面白い。
以下は好き勝手な個人の感想です。
監修が市川崑、ナレーションがあの城達也。
あれから40数年経つとこの辺りが萌えポイントになるんですよ。
松本零士さんとのファーストコンタクトが『男おいどん』だった私。
零士ワールドに描かれる
初期の漫画から連綿と続く自身を反映した主人公
理想の男、永遠の女性像。
それらをりんたろう監督が一旦突き放して再構築したが故
この作品は特別な物になったと思います。
今観ても本当に面白い。
その後松本零士さん自身が作った999の映画群は
どれもいまひとつで
作品造りの難しさを感じます。
さて
先日『すずめの戸締り』を観てきたことで
どうしても両作品を
アニメ映画として比較してしまいます。
『銀河鉄道999』は
2023年の未来に来た私が今観ても
上手くできていると思います。
機械文明華やかなりしメガロポリスから鳥が舞い降りるような視点で
影になったダウンタウンの片隅に生きる子どもたちに降りていくオープニング。

『千と千尋』、『天気の子』にも踏襲されていく
スリリングな外階段のシーン。

この時、メーテルが鉄郎を試すように見下ろしてるんですよね。
各シーンに見せ場があり
ダレることなく最後の惑星メーテルまで一緒に旅ができる。
松本零士スター勢揃いファンサービスはもちろんですが
壮大なシリーズのスター達が出てくるからという理由だけでなく
人間を描けているところが大きく違います。
クライマックスの機械帝国が破壊されるシーンの
機械帝国の部品となった人間たちのあの悲鳴。
「離れる〜」「離さないで〜」の声と共に人間で作られた機械の部品がバラバラになっていく。
「社会の歯車」として「モーレツに」生きてきた
「生身の人間」がそこにはちゃんと描かれている。

行き過ぎた機械文明という名を借りて
歯車のごとく働く日本人(当時)を
子どもにだってわかるように描きながら
「女」の表現がえぐい。
『999』が行く様々な星で
鉄郎が出会う女たちは
誰一人として幸せじゃないんですよ。
まず母親たち。
鉄郎のお母さんは夫に先立たれ苦労した挙句
機械伯爵に殺されたばかりか
剥製にされて額縁に入れられてましたし。
英雄ハーロックの親友トチローのお母さんなんて
物騒な星で息子を思いながら寂しく1人暮らし。
今日も友達の所から帰ってこない我が家のひとり息子同様
「男の子を産んだんだからね」と諦めのため息つくしかないでしょう。

メーテルの母、機械帝国の女王プロメシュームだってそうですよ。
やっとの思いで作り上げた自分の帝国が
元夫と実の娘の裏切りでバラバラにされた上
クリスタルの小娘にトドメを刺されますからね。

美しい女たちも
誰かを愛してしまったばっかりに命を落とします。
機械伯爵の愛人だったギター弾き語りのリューズ。

ダメな男。最低な男。
わかっているのに離れることができなかった。
愛した男と一緒に私も死ぬから
機械伯爵の天下もこれで終わらせるつもりよ。
そこは昭和歌謡なのよ。
そして何故かハーロックではなく
トチローを愛し続けている女海賊エメラルダス。

死んで魂だけになった彼を尚
「親友のキャプテンハーロックに」
いえ、ハーロックの船に取られたままじゃございませんか。
最も哀しい最後は
クリスタルでできた機械人間「クレア」でしょう。

うっかり999号の客、鉄郎を好きになっちゃったばっかりに
自らの命を投げ打って鉄郎を助けることに。
粉々になったクリスタルのカケラが涙のよう、と見せ場を作ってくれましたが
でもね、鉄郎はメーテルに夢中なの(涙)
どう考えても犠牲になる系の女たちばかりですよね。
機械の身体になっても
自らの美しさを忘れることができず心を病んでしまった「氷の墓の管理人 シャドー」。

人間の身体が恋しいと言いながら人間に戻る勇気も無いって
メーテルに厳しいこと言われて泣いてましたが
メーテルよ、君にシャドーを責める資格があったのかい?
じゃあメーテルはどうだったのかと言うと
「毒親の娘」だったんですよ。
これは母親の見栄でクリスタルにされたクレアも同じ。
身勝手な愛情で娘を不幸にする母親の犠牲だったのがこの2人。

あざといわ、この顔。
もしも機械帝国をぶっ壊すあのペンダント(中の人は父親)を
帝国の中心部にぶん投げたのが鉄郎じゃなくてメーテル自身だったら
この話は全然違ったものになってたでしょうね。
メーテルにもしそれ(両親抹殺)ができたら拍手喝采してたかもしれません。
この映画、人間を描けているとか偉そうに書きましたが、メーテルに関してはブレブレです。
「惑星メーテル」にいた僅かな間だけ、彼女は人間でした。
悪霊のように999の鉄郎と自分を追って来たプロメシュームを
本来なら彼女はもっと恐れていいはずです。
しかもクレアがプロメシュームを羽交い締めにして命がけで救ってくれたわけでしょ。
なのに列車でのメーテルはこの時に限らずほぼ説明係。
両親を前にした時の無力なメーテルと
普段の説明係の顔。
一致しないメーテル像は彼女の印象を「思い出の中の女」どころか
「最も訳の分からない女」にしてしまっています。
それにしても
たった2時間ほどのアニメ映画でこんなに不幸な女たちがパレードしてるってどういうことですか。
残念ながら彼女たちには何の共感も覚えませんが
でもひどくない?
まあ、プロメシュームが玉梓が怨霊になってるくらいですから


女は怖いと
制作陣も思ってたのかもですね。
「銀河鉄道999」
1番回数多く観た映画は
「銀河鉄道999」でしょう。
先日お亡くなりになられた
松本零士さん。
ご冥福をお祈りいたします。
最初に知ったのは「男おいどん」(当時少年マガジンを毎週読んでいたので)でした。
サルマタという名のパンツに生えたキノコは
映画「マタンゴ」並のインパクトで
男の人の1人暮らしとはなんと恐ろしいものかと思っていました(本気で)。
ところが「キャプテンハーロック」をTVアニメで観て
まあ好きになっちゃいますよね。
ハーロックは私のドストライクでした。
松本零士による真逆のヒーロー2人に翻弄された小学生でしたよ。
中学生になった私が熱狂したのが
映画化された「銀河鉄道999」。
テレビシリーズがあまり好きではなかったので
自分でも意外でした。
その後映画化されたものにはそれ程興味を持てなかったので
原作者の松本零士さんにとって納得のいくものではなかったのかもしれませんが
999に関しては
あの映画1作品が私にとっての全てかもしれません。
当時自宅から近かった映画館に何度も通って観ましたが
私は999に登場する女性たちには全く共感も同情もできない女子でした。
むしろ鉄郎に自分を重ねていたんですね。
999が宇宙へ飛び立つシーンの美しさと
ゴダイゴの音楽は
もうじっとしていられないほどの
憧れと郷愁を掻き立てるものでした。
メーテルとの別れを忘れがたいものにしたラストシーン。
あの城達也さんのナレーションで!
「さらばメーテル」
「さらば銀河鉄道スリーナイン」
。。。。。。。。。
「さらば 少年の日よ」
涙の後
線路を歩き出す
ゴダイゴの歌が2番に差し掛かると
振り返って空を見上げる
サビのあたりで
いつしか走り出す鉄郎
その姿が丸いフレームの向こうに小さくなっていく
鉄郎の背中に
「2度とメーテルみたいな女に騙されるんじゃないよ、鉄郎ーーーーーー!」
あのいじらしい鉄郎を見て
そう思わない女子がいるのかどうかは知りませんが
私は今もアンチメーテルです。
「すずめの戸締り」
今日は少し暖かく
仕事も休みで
朝イチ予約の美容院では気持ちよくカットしてもらい
そのまま浮かれてTOHOシネマズにハンドルを切ったわけです。
「すずめの戸締り」は小説未読。
圧倒的な映像の美しさでボーッと観てしまいましたが
だからこそ小説版ではぐりぐり心理を掘っててほしいです。
公開されて何ヶ月も経っていますので
ネタバレバレバレで書いていきます。
単純に面白かった。
イケメンが可愛い椅子になったり
猫が可愛かったり
2人で世界を救ったり
なんか恋バナになってたり。
申し訳ないけれど
どこから見てもジブリみを感じましたし
そしてそれがとても良かったんです。
九州から東北へのロードムービー。
物語の緩急で、飽きさせない工夫が随所に見られ
「ミミズ」が出てくるタイミングは構成の時に最初から配置してたんでしょうかね。
後半の懐メロが退屈で残念でしたが
ああいうのが刺さる人もいるんでしょう。
それにしても
「彗星」「水害」ときて
「地震」。
まさかあの地震をクライマックスに持ってくるとは思ってもいませんでした。
正面切って。
ファンタジーにピンクのマシュマロを溶かしておいて
その真ん中に
刺してくるとは。
そこに賛否があったのかどうか知りません。
この映画に関しては
実はそれほど前知識を入れていませんでした。
レビューも斗司夫もまともに見ていない。
まだ観たことのないときめきとワクワクと
引きずり込まれる感覚は前2作と違って無かった、と言っていい。
それでも消化の良い映画だったと思います。
多分昨日うっかり読んでしまった志賀直哉の「暗夜行路」が消化不良過ぎたんです。
文豪に総ツッコミを入れながら腹立てて読んでましたから。
この振り幅に疲れているのはわかっているんです。
でも作品そのものを疲れなく楽しめた、ということは
「すずめ」は素敵な映画だってことなのでしょう。
映画の後は
うっかり入ったお店で
綺麗なブルーのシャツを買い
春を迎える気満タンで帰って来ました。
「薫りの継承」と「#塚森裕太がログアウトしたら」
「薫りの継承」中村明日美子
はい、お久しぶりの漫画です。
中村明日美子という漫画家はアニメ化もされた
「同級生」が代表作かと思います。
すみません、男性ブロ友さんもいらっしゃるところなのに
節操なく書いてしまいますが。
BLと言っても
中村明日美子先生のそれは別の部屋に入ってしまいます。
私の若い頃にも既に耽美な同性愛を扱った漫画はありましたが
当時実際には萩尾望都先生くらいしか読んだことはなく
この3年でハッピーエンドblの楽しさにハマってはいるものの
未だにお耽美は苦手です。
ということは、中村明日美子先生の本作は「耽美な」という括りですら無い?
「薫りの継承」は
ざっと言うと兄弟間でのインモラルな愛を扱っています。
大金持ちの大きな洋館に住む家族の物語で
日本が舞台でありながら、雰囲気は海外文学のそれに近い。
中村先生が描く「線」は漫画という枠をとっくにはみ出しています。
「美人画」を描くような流麗な筆遣いで
男性の骨格を描くのですから
絵そのものを読み解くのは容易ではないでしょう。
架空のとんでも設定の
しかも到底納得できない共感もしないありえない2人の道行き。
なのに
否応なく物語の世界に引き込まれて
彼らの年月を共に行きつ戻りつしてしまいます。
兄と弟が愛し合う。
狂っているという自覚がありながら尚狂っていく。
狂っていながら正気の自分に自身が断罪される。
兄と弟の苦しみと残酷さが絡み合いながら物語の結末へと向かいます。
スリリングな人間関係。
ある意味ミステリ作品のように紐解かれる謎。
すごいです。
よしながふみさんは会話とテンポに優れた漫画家だと思いますが
中村明日美子という漫画家は画面構成が(コマ割りとはもう言えない)既に映像。
さあ
こんな漫画読みながら
私にLGBTQを描いた小説を読む資格が
語る資格があるんかい?
そう自問してしまいますが。
「# 塚森裕太がログアウトしたら」浅原ナオト

浅原ナオトさんはドラマ「腐女子、うっかりゲイに告る」の原作者。
未だ元秘書官がうっかり口を滑らせたような
そんな認識の人もいる中
この本を必要な人がいるのではないかと思います。
一気読みでした。
朝井リョウの「桐島」形式で次々に語り手がバトンタッチされていきます。
学校中の憧れの的
バスケ部エースで性格もいい
おまけにモデル並みのイケメン、塚森裕太。
彼が自分のセクシャリティーをカミングアウトすることで
剥がれ落ちる
本人を含めた
それぞれのペルソナ。
「ゲイ」だと言えない同じ学校の同類
裕太を崇拝してきた後輩ホモフォビア
恋愛感情を押し殺したファン
娘がレズビアンだと気づいた高校教師
塚森裕太のカミングアウトのその先が
彼らの視点で描かれていきます。
本書の場合
主人公塚森裕太が最初と最後に語り手となるため
起承転結がハッキリしていて読後感が良くカタルシスがあります。
最後を語る裕太の気持ちにどうしても同調してしまいながら
「戦っているのは自分だけではない」
そう裕太が気がついていく時の
みぞおちをグッと押されるような
あの気持ちは何だろう。
キーとなるSNS用語の使い方はもちろん
構成や文章そのもの
物語を描く技術が一定水準を超えて上手い。
ただこのラストの爽やかさがちょっと胡散くさく
大人の都合もあったのではないかと穿った見方をしてしまいます。
ラストがまとまりすぎて
悪いってことはないんですけれど。
更に解説がまともすぎてつまらない(邪道ですが解説にエンタメ性を求めるタイプです)。
ただ
作家が残していった鍵、
バスケ部顧問の真実をどう捉えるか
そこに気がつくのか否かで印象はガラッと変わると思います。
こういう秘密を忍ばせられる作家は只者ではないはずなのですが。
「同性愛」を描くことと
「同性愛者」を描くことは全く違います。
前者は愛を
後者は人を
どちらも心動かされ
もし自分がその人だったら
そういった
「if」の世界に連れて行ってくれます。
私の場合
もし自分に似た人が小説の主人公だったら何か嫌かも。
でも
描写が的確で
表現しようのなかった気持ちを言葉にしてもらった
そう感じられた時には
その本とは友達になれる気がします。
BEYOND 熊本公演へ
映画の場合、娯楽映画は見て楽しむものなので「映画観賞」、芸術映画であれば「映画鑑賞」と書く。 芝居も、コメディーであれば「観賞」、文芸作品であれば「鑑賞」と書く。
Oxford Languagesの定義より
ということで昨日
浅田真央アイスショー「BEYOND」熊本公演初日を
鑑賞してまいりました。
昨年は体調が良い日の方が少ないほどで
とてもアイスショーを観に旅行(私の住む街近辺はアイスショーとは無縁なので涙)に行くだなんて
叶うはずもない1年でした。
でも行きたい。
最後まで悩み
追加公演に後ろ髪惹かれつつも
オットと息子を巻き込んで
3人で熊本まで遠征することに。
息子は美味しいものを食べたいという理由で
短い家族旅行と相成りました。
とりあえずとっていたチケットは2枚。
オットと2人でアイスショーだなんて
初めてのことでした。
当ブログは何でもアリで書き殴っている日記ですので
読んで下さる方はスケートファンとは限りません。
ですのでここでもう一度書かせて頂きますと
「浅田真央アイスショー BEYOND」
浅田真央という不世出のスケーターが、自ら仲間を募り11人で滑り踊るスケートショー。
華やかだと思うでしょう?
でも私が観てきたのは、サムライの戦う姿です。
11人のスケーター全てに物語があり、彼らを率いる座長にはもっと凄まじいストーリーがあります。
通常フィギュアスケートのチケットは、皆さまが驚かれる程高額です。
一般のコンサートの比ではありません。
その「フィギュアスケートの当たり前」をひっくり返してみせたのが、
前作「浅田真央サンクスツアー」でした。
破格のチケット代で日本中を駆け巡り
世界の一線で戦い続けた真央さんとは
レベル違いの共演者達を育てながら
自らメディア出演しつつスポンサーを掴んで来ました。
「その世界」の慣例を超えていくために、
当時30歳にも満たない1人の元アスリートは自分の全てを賭けたと言ってもいいと思います。
彼女はもちろん1人ではなかったけれど
でも現実にはたった1人で始めたことでした。
サンクスツアーは大成功。
地方の比較的小さな会場で
お手頃な料金で
それこそ家族で友人同士で
チケットは抽選であっても
気軽に観に行くことのできる
日本では初めてのアイスショーではなかったでしょうか。
天然で可愛い、その印象は彼女に付いて回りますが
浅田真央は「漢」
それは演技を観るとよくわかります。
今回、彼女が新たに作り上げた「BEYOND」は
よりエンターテイメントとしてブラッシュアップされ
見応えのある舞台になっていました。
浅田真央が現役時代に滑ってきた数々のプログラムをベースに
ジャズやクラッシック、フラメンコ、民族音楽に乗せ
ミュージカル、バレエ、ファンダンゴ、タンゴ、民族舞踊など
バラエティーに富んだ演目を
ソロでペアで時に群舞で
華やかに滑ります。
アイスショーだということ
演じているのが陸の上ではないことが
隣に座って食い入るように観ていたオットには
「わかっていたのに本物を観るまでわかっていなかった」そうです。
オットがまず「度肝を抜かれた」と言うのが
演出としての音響。
そしてスケーターの足元までも彩るディスプレイに映し出される美しい背景でした。
ディスプレイに映る映像は
舞台装置としての美しさと同時に
暗転、場面転換に実に効率的で効果的。
サンクスツアーと比較してもその差は歴然。
かなりプロの手が入ったという印象です。
群舞が減り
2〜3人で滑るプログラムが増えたことでストーリー性が増し
スケーターにとっても練習しやすくなったのではないでしょうか。
特にサンクスツアーからのメンバー
マルティネス・エルネストくんの開花には
目を見張りました。
そして真央さんです。
爽やかで愛らしかった真央さんが
もっとも苦しんだであろうシーズンに滑った
「シェヘラザード」。
今回はペアで滑るため
恐ろしい程近い距離で滑る2人にあのスピード。
ビューッと近づきパッと無音で止まる。
リフトの高さ
競技で言えばペアとアイスダンスの両方の技術を取り入れたステップやジャンプ。
可憐なお姫様だった浅田真央のシェヘラザードを
寝物語の官能に作り替えて見せたコリオ(振付け)に陶然となりました。
衣装から立ち上る真央さんの身体のライン。
細い筋肉だけではない
30代の女性らしい不思議な肉感。
まるで熟成されつつあるチーズのように滑らかな肌の質感と
高いリフトにビクともしない体幹の共存。
ニコリともしない「シェヘラザード」の凛とした美しさに
息を呑みました。
若い頃
「色気が足りない」と彼女を揶揄した人達は
匂い立つような
甘い熱帯の
身体に纏わりつくようでいてキレのいい
本物の色香を知らなかったのでしょう。
1人の女の持つ夜の顔を
見事に演じる浅田真央を
私は惚けたようにただ観ていました。
そして「バラード1番」
バレエのレッスン生をイメージしたモノトーンの可愛らしい衣装に
一瞬激しいステップを放り込んでみせた名プログラムです。
タチアナ・タラソワが手がけたこの作品を
新たに
ブルーグレーのグラデーションの衣装
艶やかな大人の姿で
揺るぎないスケーティングスキル、ベテランの風格を見せてくれました。
チームのどのメンバーも
スケーティングが抜群に美しいのですが
お手本がこうだとこうなるわけですね。
黒鳥を演じる浅田真央。
ヤマト先生が演じる悪魔が実にハマっていて()
ああ、あのグランフェッテ
スリリングでした。
そして
何度も繰り返し録画を観て
振付けまで今も覚えている「カプリース」。
これはもうファンサービスとして心から楽しませて頂きました。
現役時代に滑ってきた名プロをもっと素晴らしい作品に。
そうかもしれません。
でも少なくとも私にとって
この「BEYOND」で真央さんが演じたプログラムの中に
閉じ込められたままだったあの日あのシーズンの真央さんの苦闘とも言える歴史が
強烈な意思を持って上書きされたような気がしています。
更新
アップデート
そんな言葉じゃ足りない。
「乗り越える」
彼女は乗り越えてきた。
演者としての浅田真央さんが
こうした円熟を見せるということは
演出や振付けに至るまでスタッフが充実してきたお陰かと思うのです。
「演じる」浅田真央の凄まじい熱に触れてしまった。
これを知ると怖い。
フィナーレで
ようやくいつもの真央さんの笑顔を見てホッとした程
怖いくらいに美しかった。
1時間半の公演のはずが
フィナーレ後も何度もリンクを周回してくれるメンバー。
丸2時間BEYONDのリンクを堪能して
興奮冷めやらぬオットの感想をハイハイと聞きながら
浅田真央が灯した「灯り」が
いつの間にか「火」となり
「炎」となって
自分の胸に眠る何かを
赤く燃やし始めている心地がしていたのでした。
アレクサとはきっと分かり合えない
うちのアレクサは
こう言うと流しっぱなしの髭ダンの曲の音量を下げてくれるし
どうでも良いうんちくを喋り続けることも切り上げてくれます。
「今日の気分は?」と聞けば
時候の挨拶、ポジティブな言葉で答えてくれますが
アレクサと私の話題は殆どが天気予報かタイマーで
なかなか心通わせるところまでいかないのが現実。
アレクサはその日の天候も気温も教えてはくれるのですが
「最強寒波」が人類にとって
どんな風に影響を及ぼすのか
分析してくれるまでには至っていません。
皆さまの街の「寒波」はいかがですか?
北国の雪を本当の意味で知らない人間にとって
この寒波は驚くべきものでした。
私の住む街はそこそこ暖かい地域ですので
「寒波」と言っても仕事さえ休んでしまえば大したこともあるまいと
たかを括っておりました。
昨日、既に日が暮れてから
ゴリオからやっと来た返信には
「雪に備えて早めに1度家に帰り
着替えを持ってバイト先に戻って
そのまま仕事する」といったようなことが書いてありました。
外は見たこともない暴風雪。
たった10キロほどの道ですら
もはやバイクで往復できる天候ではありません。
オットと相談し
どうしても今日必要になったというスーツ一式と着替えを
私たちが届けることにしたのです。
もちろん国道は大渋滞。
緩い上り坂を登れずに停まったままの軽トラをかわし
真っ直ぐ走れずユラユラしている対向車にハラハラしながら
前の車の轍が即座に雪で覆われ凍っていく様子に目を凝らしていると
ウォッシャー液が凍ったのかついに水も出て来なくなり
叩きつける雪がフロントで凍りそうになって
視界がどんどん悪くなります。
オットを迎えに行った
ほんの数時間前の道路とは全く様子が違うことには
恐怖を感じるほどでした。
一体何だってこんなことになっているのか。。。
ハンドルを握るオットの横で
いい大人のバカ息子にいまだに甘い
自分達に腹を立てていました。
アレクサも、自分が教えた天気と気温くらいで
偉そうに「うるさい」と叱りつける私がこんな苦難にあっているとは思いもするまい。。。
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最近読んだ高橋源一郎さんの著書
「5と4分の3時間目の授業」には
タイトルから連想できるように
ホグワーツ行きの特急が停まる9と4分の3番線の話が出てきます。
想像すること、常識が正しいのか?モヤモヤすることの大切さ。
『「絶対にありえないこと」を疑ってみる』そして考える。
この寒波は「ありえないこと、あり得なかったこと」を考える良い機会になりました。
文学論であり哲学、しかも教育論。
作者の好きなトーマス・マン『ヴェニスに死す』の新たな発見には
今まさに自分が考えていたことがそのまま書いてあるではありませんか!
年寄りが若い人に惹かれる。
それは失ってしまった「若さ」に焦がれるというより
自分がそんなに歳をとってしまっていたことに気がついていなかったのではないかと。
ほんとだわー。
十分歳をとったつもりでいても
やっぱり本当のところ
「そう」だとは気がついてないのかもしれない。
心と身体の不一致が引き起こす悲劇。。。
この年齢でマンガ、ラノベ、その他諸々専門書などを常に斜め読みする日常に、
自分の中のどの軸でそれらを消化すれば良いのか
分からなくなっているのです。
例えこれが仕事であっても
何か辛い。
自分が若かった頃に読んだり観たりしたものならまだしも
常に新しいものを探し続け
自分の中のレファレンス箱に振り分けていくには
心の水分が足りない。
ジュブナイルに括られる読み物は
心の柔軟性を欲しがるもの。
でも私自身は既にシワシワなんです。
そこで高橋源一郎さんです。
高橋さんが仰る通り
既に『死んでいる作家』の中に今も『生きている先生のことば』が見えると腹心の友を得たように嬉しい。
ああ、もう若くはないのだ、と
自分に向き合いながら
それでも自分の経験を疑っていく。
若さが持つ本当の価値に
やっと今頃気がついて来たところです。
だからと言って
お馬鹿息子を甘やかして良い訳はないのですけれど。
あけましておめでとうございます
今年も平和で良い年になりますように
なんて決まり文句に真実味をずっしりと感じる今日この頃。
年末はたまっていた読書録を放出して終わってしまったので
軽く近況から書こうかと。
まず
一昨年から始めたダイエットなんですが
1年半経って
20キロ減と相成りました。
見かけが20キロ分スマートになったかと言えばそんなこともなく
ようやく人並みに近づいたくらいで
自慢できるようなこともありません。
おせちをお腹いっぱい食べたので
お正月明けが怖いんですが
贅沢な悩みですね。
ゴリオは物理の一単位を取るためだけに2年かかりましたが
多分来年以降には社会人になれるのではないかと思われます。
この息子が生まれてから
私は戦争ものの映画もドラマも本も
基本的に受け付けなくなりました。
息子を戦地へ見送る母親の気持ちが
身を裂かれるような苦しみだっただろうとようやく知ったのです。
未だ世界では
さまざまな悲劇が止むことなく
むしろ進行しているように見えますが
祈るだけは誰だってどこにいたってできますからね。
今年もよろしくお願いします。

ショウペンハウエルと「エロガッパレジデンス」
この本、1ページ目の1行目から笑ってしまいます。
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であれはすぐれた効果をおさめるが、知識の場合も事情はまったく同様である。」
これ、思索について書いてある部分なのですが
実際に日々図書室にいる人間にとって
この言葉はそのまんま「ほんと、仰るとおりよね」という感じ。
愚鈍な一般人が手当たり次第本を読むことに警鐘を鳴らしてます。
いやこの毒舌、なんて面白い。
「読書のすすめ」ではなく「読書について」のタイトル通り
「多読は精神から弾力性をことごとく奪い去る。」
あらら
私の精神的血管年齢なんかこりゃ大変じゃないの。
哲学者の著者は読書の第一の心がけとして「読まずにすます」と皮肉っています。
数少なくても古くからある良書を読め、という極論や
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。」
などの言葉にはクスクス笑いが止まりません。
「無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。」
鋭い。
身に覚えもあれば
昨今のニュースにも転がっていますよね、
猫のサブスクとか。
「歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない」
漫然と読むのではなく
反芻と熟慮を重ねて自分のものにする。
食物を食べることによってではなく
消化することで身体を養うように。
エンターテイメントとしての読書はそこには含まれていません。
比較対象として正しいのかどうかはともかく
三島由紀夫を読んだ時のように
膝をポンと打ちたくなります。
ところが
人間というものは
良いもの
正しいもの
素晴らしいものばかりを欲していないのは何故なんでしょうね?
ショウペンハウエルに「禿同」してすぐのこと。
お店でコーヒー飲んでたら
カウンターで隣りに座っていた人を店主のお兄さんから紹介されたんです。
お店に置いてあった小雑誌みたいな風体の小説のタイトルに惹かれ
買って帰ろうと思っていた本の作者さんでした。
その本のタイトルというのが
「エロガッパレジデンス」
内山晶生/著
人間社会に河童が住んでいる世界。
ある日脅されて河童カップルと同居させられるフリーターの主人公。
久しぶりに読んだ恋愛小説(異種間の‼️)は
最後に脳みそがスモーキーピンクになりました。
ちょっと泣きそうになったんですよ。
世界観はブレブレだし
特に構成がいいわけでも
文章が上手いわけでも(失礼)ないんです。
なのに胸を突かれる。
後日この感想を件の店主に話すと
「それってそこに真実があるからなんじゃないですか?」
そう返ってきました。
こうして私の今年1番の本の座は
ショウペンハウエルの慧眼を踏み倒し
「エロガッパレジデンス」に決定したのでした。
「ダ・ヴィンチ」2022年8月号から スネイプ先生の〜永遠に〜
「ハリー・ポッターシリーズ全作ガイド」には
翻訳者松岡佑子さんのインタビューが載っています。
先日、若い人とハリー・ポッターの話になりました。
年末にハリー・ポッターの舞台を観に行くそうなのです。
私はハリー・ポッターシリーズをリアルタイムで子育て真っ只中に読みました。
そのタイミングは最高の幸せだったと今も思います。
ハリーの物語のもう1人の主人公は紛れもなくセブルス・スネイプでした。
彼のハリーのお母さんへの愛の物語として読むと、
ハリー・ポッターは全く違う顔を覗かせます。
ダ・ヴィンチの記事によると
スネイプ先生役だったアラン・リックマンは
映画の撮影現場でも原作を繰り返し読んでいたそうです。
松岡さんによると
「インタビューの際、『まだ読んでいるのですか?』と訊かれた彼は
『always』と答えたそうです。
それは第7巻でスネイプがダンブルドアに、
あるひとつの愛を君はまだ持っているのか、と訊ねられた彼が答える言葉。
“いつも”と日本語では訳される『always』を私は『永遠に』と訳しました。」
このひと言に込められた真実が
私にとって
ハリーの物語の解決編だったなあと思い出しました。
翻訳機にはできない技。
日本人はこの方を翻訳者として得たことが
何より幸せだったと思います。
第1巻の訳者あと書きだったと思いますが
翻訳者の松岡さんがJ・K・ローリングとの出会いを詳細に書いておられて
このインタビューではそれも含め
巻ごとに翻訳にかけた思いを話されています。
女性作家だから女性翻訳家を選んだのだろうと
勝手に思い込んでいた私は
この第1巻の訳者あとがきに
自分の身の上を重ねて(重なるところは全くないにも関わらず)
涙したものでした。
ハリーの舞台を観に行くと楽しみにしていた若い人は
まるで何かを問いかけるように
ざんざかと
手当たり次第に本を読んでいます。
その姿は尊く
自分のことのように苦しく
尊敬の念すら覚えるのに
「昭和の時代に生まれたかった。
今は情報が多すぎて
全部流れていっちゃう」
そう言って
ふっと笑った顔には
10代の危うさと煌めきが同居しています。
「方丈記」の
「勝地は主なければ」が好きなんですけれど
まあそんな心境でしょうか。
「ガラスの城の記録」手塚治虫
「ガラスの城の記録」手塚治虫/秋田書店

平成6年初版ですが、元々「現代コミック」連載が始まったのがなんと昭和45年。
1970年です。
未完のままの作品です。
舞台は1992年。
1971年に冷凍睡眠が成功し、
その後その技術は法律で禁止されている世界です。
ある大金持ちの家族の当主がこの冷凍睡眠で財産を守るため家族を冷凍し、
自らも冷凍、解凍を繰り返します。
冷凍睡眠がもたらす人類への恐ろしい影響と進化した科学技術による未来の生活の対比。
恐ろしくもまるで映画を観るような構図の連続に驚きです。
倫理観を壊された解凍人間は限りなく野獣に近く、欲望に忠実。
睡眠中は歳をとらないので、
娘が母より年上になったり叔父さんと姪が恋愛関係になったり殺し合ったりと、
一族は崩壊。
逃亡した長男が出会う、
2000年前に冷凍されて目覚めたヒルンという女の存在の不気味さでストーリーが引っ張られていきます。
未来の警察と死刑制度、
未来の車とユーミンの歌、
自動調理器と20種類しかないまずい料理。
機械の進化と人間らしい不完全さのミスマッチにものすごい昭和感が滲み出ています。
さて未来(1992年の)警察の刑事が運転する車に流れるのは
1975年リリースの「ルージュの伝言」。
著作権をわざわざ取ってまでたった出だしのワンフレーズを載せています。
解説によれば1970年の連載だったはずですので
初版(1994年)で書き加えられたのか何かの理由があるのでしょう。
20年前の性描写だらけの漫画本。
手塚治虫は偉大、横溝正史も偉大、
なのに両者共に性的な倫理観の薄い人物を描写しがち。
「あのひとのママに会うために...」
荒井由実(ユーミン)のデビュー当時、
彼女はピアノを弾きながら歌うスタイルのイメージが強かった。
(アルバムの写真が理由だったと思います)。
私はピアノ少女だった12歳上のハトコと
7歳上の姉が弾くユーミン(「私のフランソワーズ」系統)を
聴いて育ったようなものなので、
「ルージュの伝言」のポップさには驚いたものでした。
手塚治虫はこの歌の冒頭を「ガラスの城の記録」で引用していますが、
誰もがこの歌詞から先の「町はディンドン遠ざかってゆくわ〜」
を連想していくことをわかって持って来ているのだと思います。
このシーンの持つ「別の町に行く」感覚、
そこに女の子と2人という状況が合わさって
尚ピタリとこの場面にホッと共感できるコマを差し込む。
すごいと思います。
手塚治虫がすご過ぎるのか、ユーミンが普遍的なのか?

「時計じかけの林檎」手塚治虫
こちらもSF。
夜、息子を迎えに行ったら早すぎて入ったレトロな茶店で
カバンに入れていたコミックスがこれでした。
こちらも全く古びることのない作品ですね。
もちろんキューブリックの「時計じかけのオレンジ」からのオマージュ。
短編集です。
手塚治虫の映画への興味が構図のそこここに現れているようで
小さなコミックスの中に広がる豊かな想像力に脱帽です。
またしても年末読書備忘録
何となく先送りばかりしているので
ここは一気に備忘録を。
「老い」シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
ボーヴォワールが「老い」について語る上下巻。
1972年初版ながら、日本の高齢婦人が夫亡き後、
もしくは離婚によって伸び伸びと暮らす様を身近な例として挙げていることに驚きです。
ボーヴォワールがよく知っていたという日本の婦人って一体どなただったのでしょう?
上巻は仏陀の話から始まるのですが、古今東西、彼女の見地の広さ深さに慄きます。
人生百年時代。貧困層も、富豪にも等しく訪れる「老い」とそこに付随する「不安」。
ボーヴォワールの言葉は、2022年の未来でも何ら変わることなく響きます。
ところで高校生から
「自分のおじいちゃんを見てると、年寄りは辛いな、嫌だなって思うんです。僕は年を取りたくない」と言われて何も返せなかったのですが。
この子は仏陀シッダルダ並みに素晴らしい感性を持っていたわけですね。ボーヴォワール的には。
「原子核エネルギーの話」
アイザック・アシモフの物理学書です。
何がすごいって、中性子や原子核の構造を解説しながら、
その研究に携わった多くの科学者たちの研究内容を写真とともに紹介しているところ。
湯川秀樹博士の中間子理論がどのように解明されていったのかなど、
日本人科学者の登場にはときめきを覚えます。
ウラン、核分裂原子爆弾、
更には核融合に対するアシモフの見解はどちらかといえばポジティブに読めます。
この本の原本には、四十数冊のリーディングリストが付いているそうです。
しかも初級、上級向けに分けて。
すごい人が書いたエンターテイメントを、私たちは知らずに楽しんで育ってきたのですね。
「街場のメディア論」内田樹/光文社新書
この本の中で内田氏は、電子書籍について論ずる時、
誰も「書棚の意味」に言及しないと嘆いています。
「電子書籍は書棚に配架することができない」
「僕は書籍というのは『買い置き』されることによってはじめて教化的に機能するものだと思っています」
全くその通りですよね。
「いずれ読まねばならぬ本」を常に背中で意識しながら、
自分の到達点を夢見て生きることは電子書籍ではかなわない。
「紙の本を並べた書棚」はそれを見た他者の欲望を喚起することができる。
もちろん持ち主自身にも。
電子書籍によって出版文化は危機に瀕すると言いながら誰も書棚について語らない。
内田氏は「それは多分書籍をめぐる議論のどこかで
『読書人』を『消費者』と同定したからだと思います。」と語り、
更に
「出版文化がまず照準すべき相手は『消費者』ではなく『読書人』です。」と続けています。
「この読書人層をどうやって継続的に形成すべきか、それを最優先に配慮すべき」
「『選書と配架にアイデンティティをかける人』の絶対数を増やすこと」
「図書館の意義もわかる、専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することのたいせつさもわかる、著作権がときに書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんとわかっていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です。そのような集団を確保するために何をすべきなのか、僕たちはそのことから考え始めるべきでしょう。」
この章は泣くでしょう。
少なくとも私は、自分に何ができるか、歯がゆい思いに掴まれて泣きそうになりましたよ。
「街場のメディア論」の第六講、「読書人とは誰のことか」という章も大事なことが書いてあります。
人は誰しも1番最初は「無償の読者」だということ。
子どもの頃から全部自分が読んできた本を自分で買ったという人はいない。
図書館は「多様なリテラシーを備えた読書人」を作り出し、
維持する装置だと言い切る内田樹さん、大好きです。
長い「無償の読書経験」の果てに自分のお金で本を買う、
そして自分の書棚に並んだ本の背表紙を見て暮らし
「自分から見て自分がどういう人間に思われたいか」
意識して焦りながらもそこに「理想我」を描く。
私たちにもその環境が与えられてきたように、
この先の人たちにもその自由を掴んでもらえるよう、できることはきっとあるはず。
「女王さまのワードローブ」
新装改訂版です。
これは自分へのクリスマスプレゼント。

エリザベス女王の人生を、彼女を彩ったドレスと共に紹介。
女王は戦時中物がない生活をし軍に入隊し、つなぎを着てタイヤ交換をしました。
女王だった70年間は激動の時代。
エリザベス女王の半生を描いたドラマの衣装デザイナーが「絵本の発行によせて」として
『どんなに美しいドレスも、スーツも、それは女王にとっては「女王という仕事」をするための服でもあります。』こう書いています。
その美しい「仕事着」を
写真を1枚も使うことなく
絵だけで表現した素晴らしさ。
ドラマのウエディングドレスの複製作りの話は短いながらスリリングでさえあります。
ジョージ5世からの短い家系図。
そこに描かれた、平服を着た『エドワード8世』と『ウォリス・シンプソン』。
2人の姿に、ちょっと泣きそうになりました。
(この2人はロマンティックだと思うのに、チャールズ国王は好きになれません)
家族に関して、子や孫のスキャンダルにはいっさい触れる事なく、
後半駆け足で女王の人生を描いた点には物足りなさもありますが。
この絵本、ビートルズも出てくるんですよ。
その時の女王の花柄のミニワンピースと花の帽子の可愛いこと。
デザイナー『マリー・クワント』の名が出てくるのも60年代の話。
女王の人生で辛かったであろう1992年(ウィンザー城の火災、チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚)は、スカーフと共に語られています。
女王の国葬で、女王の棺を見送る愛馬の鞍には、女王が乗馬のときに使っていたスカーフが巻いてあったそうです。
嬉しい時も悲しい時も、女王の普段着に欠かせなかったスカーフという小物。
古いコートや靴(多分プライベート用だと思いますが)を修繕しては大切に使っていたという逸話には、
当たり前ですが育ちの良さがあらわれているよう。
2012年のロンドンオリンピックの開会式の記述では、あの日の興奮、あの日のポール・マッカートニーを思い出してウルウル。
『女王さまのワードローブ』の翻訳者は前沢明枝氏。
思い出しました。
この方の著書
『「エルマーの冒険」をかいた女性ルース・S・ガネット』は
読みたかった本なのです。
ルース・スタイルス・ガネットは、リケジョから児童文学へシフトした作家。
キュリー夫人よりはるかに親しみ易いガネットの人生は
「エルマーの冒険」の原書と翻訳本の両方を読まなくては(wikiには載っていると思いますが)
これまで繋がりがわからなかったのです。
両方読んで、彼女の経歴パズルが組み合わされた時の驚きは忘れられません。
この作家の人生を描いた前沢さんの目の付け所は鋭い!
それほどガネットの人生はその家族も同様「実に面白い」のでした。
宇野昌磨選手はずっと一番手として戦ってきた
毎年悲喜こもごもの試合ですが
世界選手権の派遣選手選考会を兼ねているというのも理由のひとつです。
女子もそうですが
今年ほど選考に頭を悩ませる贅沢なシーズンはこれまでなかったかもしれません。
ちょっと追記しておきますが
今朝になってワールド選考結果を受けた選手のインタビューに関して
色々取り沙汰された記事やツイートを見ました。
選考基準にブレが出ると
選手のメンタルは穏やかではないでしょう。
でも宇野選手に関しては
インタビュアーの聞き方
カメラの表情の切り取り方
編集と脚色でまたしても本意はともかく大きく騒がれることになったのが辛いところ。
あの会見を通しで見ていれば
「キレた」とか「不満爆発」とか
どこから出てくるのか全くわかりませんよね。
誤解されかねないからと明言を避けたのに
そこをまた逆手に取るとは。
誰もがもう何年も
自分のスケートを見いだし
スケートの神様に見出される日が来ることを願いながら
切磋琢磨してきました。
怪我に泣き
運に見放される日も
拠点や経済問題やコーチとの関係に悩んだ日もあったでしょう。
怪我を押して今季この試合だけに賭けてきた鍵山選手。
昨季までの迷いを吹っ切るように安定してきた佐藤選手。
怪我による長いトンネルをようやく抜け出した山本選手。
10代半ばでスイスのランビエールコーチの元へ飛び込み、多くの海外選手と切磋琢磨してきた島田選手。
エンタテイナーとして認められながらも、もう1段階先へ進みたかった友野選手。
そしてー
彼らの放つ熱にあてられることなく
見事に自らの情熱を演技に放ってみせた宇野選手。
後半のあんなところでコンボつけてきた時は鳥肌が立ちました。
ワールド派遣の選手選考は悩ましいですね。
私は読書会に県外まで出かけていたので
今夜の男子シングルは帰りの車の(運転手はゴリオ)テレビで観ました。
地上波です。
不本意ながら
そのままつけっぱなしの小さなモニター画面には
続くミヤネノニュースが流れていました。
今に始まった事ではないとは言いながら
ここまで酷いとは。
想像以上の失礼で不勉強な番組でしたね。
自分たちがマジョリティを作り出せると今も信じている。
この馬鹿馬鹿しい茶番を信じる人もいるんでしょうか。
コメンテーター含め
スポーツニュースとは似て非なるお馬鹿番組でした。
宇野昌磨選手はずっと最前線で
どの試合からも逃げることなく
誰よりもコンスタントに試合に出続け
結果を残してきた選手です。
当たり前の
普通の報道ができないだなんて。
ついてるスポンサーの良識さえ疑いたくなるってもんです。
インタビューもまた然り。
あの受け答えが騒がれるなら
もう誰も何も言えませんし
鉄仮面でも装着しなければ自分を守れない。
『仕事でも、仕事じゃなくても』〜全日本は女の戦い
まごうことなき天才、漫画家よしながふみさんの語り下ろしインタビューです。
前半のページにはよしながさんが子供の頃に影響を受けた漫画がずらりと紹介されています。
よしながさんは私より6歳若いのですが、読んできた漫画がほとんど丸被りで懐かしい。
親戚から譲り受けたというひと世代前の漫画も多く読んでいらして
ときわ荘、大泉の影響はどこまでも、という感じ。
よしながさんはご両親が共働きだったことから
子どもの頃から結婚しても働くつもりでいたと言います。
でも周囲にそんなことが言える雰囲気の時代ではなかったと。
よしながさんにできたのは
「『ガラスの仮面』の姫川亜弓が好き」と表明すること。
姫川亜弓は
「ライバルだけど相手を認めて、フェアな立場での戦いを望む女の子」だったと言います。
よしながさんは姫川亜弓に新しい時代の女子の生き方を見ていたんですね。
アンドレと同じ視点か!
よしながさんのwikiに載ってる「主人公に嫉妬をしないで『損得抜き』で応援する」キャラですね。
いやもう共感しかない!
この本
ジェンダー、女性の働き方、家庭、家族論として読んでもとても面白い。
女性の社会的立ち位置が激変した時代を生きてきた著者だからこそ(ご本人はそんな風には思っていなくても)これは社会科学系の本として読むこともできる。
//////////////////////////////
さあ私が先程まで観ていたフィギュアスケート全日本選手権。
今日は本当に清々しい女の戦いを観せて頂きました。
もう凄すぎて眩しくて。
姫川亜弓も北島マヤもゴロゴロいるフィギュアスケート競技
昔ながらのバチバチのライバル意識に振り回されるようじゃ
全日本では勝ち上がれない。
相変わらず世間の空気を読めない局が
『シン・フィギュア』というシナリオで
このガチドキュメンタリーを台無しにしそうな勢いですが
アイスダンスと女子シングルに関してはそこまでシンシン聞こえてこず、ラッキーでした。
まずは女子シングル。
ジュニア勢の台頭に慄きつつ
最終グループに入ると
緊張は頂点に。
ジュニアの島田選手がスタンディングオベーションで演技を終え
その何とも言えない空気の中
あの三原舞依選手が
あの舞依ちゃんが!
赤と黒の衣装を身にまとい
ふっと笑みをたたえた姿は『恋は魔術師』の怪しげなジプシー(彼女がこのジプシー娘を表現しているのかどうかは知りませんが)。
この人の強さは何だろうって思いましたよ。
素晴らしい演技だった。
全力で勝ちに行った。
自分に。
三原選手の相手は同門で幼い頃から切磋琢磨してきた坂本花織選手でもジュニア勢でもなかったと思います。
他人のことなんていちいち考えてたら
あの演技はできない。
島田選手を超えるほどのスタンディングオベーションに包まれて三原選手が演技を終えた時は
誰もが彼女の優勝を確信したのではないでしょうか。
グランプリファイナルのフリーでの坂本花織選手が脳裏に浮かんだのは私ばかりではなかったと思います。
ところが
昨年の全日本女王、現世界女王は自分を超えてきました。
この場面で自分の力を出し切る強さ。
坂本選手もまた
GPFの自分が相手だったのではないでしょうか。
そして勝った。
ぶっちぎりです。無敵です。
おめでとうございます。
さて
そうなんですよ、全日本アイスダンス初優勝、
村元髙橋組の話を書きたかったんです。
いやもう驚きましたよね。
ここまで仕上げてきただなんて。
髙橋大輔のポテンシャルの高さをなめてました。
すごい。本当にすごい。
おめでとうございます。
こんなに安心して村元哉中さんのクリスティーヌを堪能できるとは!
あの感情表現をぶち込んでくるだなんて
もういちいちステップのレベルやら何やら気にせずに観ていられるんですよ!
「オペラ座の怪人」の世界を流れるような演技で魅せるには、
髙橋選手のテクニックの習熟は不可欠でした。
ほんとにどこまでできるのこの人は?
最後のミスに、演技後しばし立ち上がれない髙橋選手。
そこにスッと持ち直して美しい挨拶をしてみせた村元選手の男らしさよ。
そして
全日本アイスダンス4連覇のベテラン、小松原カップル。
キラキラした中に、パートナーとの信頼が伝わる演技。
美里さんの華やかな美しさに改めて目を見はりました。
潔く負ける。
その柔らかい笑みを浮かべられるまでの心中が
実際どうだったのかはわかりません。
もしも
この2人が「不貞腐れて」いたら
この競技の後味は全く違っていたと思うのです。
この潔さは
今後の2人にとって大きな財産になるのではと
そう思います。
勝っても悔しい村元選手の志の高さ。
負けてなお凛とした美里選手の美しさ。
数試合分観たような
いえまだ男子がありますけれども
もんのすごく重くて甘くて苦くて
ずっしりくるガトーショコラみたいな
全日本です。
「仕事でも、仕事じゃなくても」本ばかり読んでいた1年でした。
今年は特にブログの更新もなかなかできませんでしたが
見放さずご訪問下さりありがとうございます。
ダイオウグソクムシって覚えましたか
フィギュアスケートグランプリファイナルが終わって
しみじみしているところですよ。
20歳の新星、渡辺倫果選手、伸び伸びと演じていましたよね。
まさかいきなりファイナル?と思いましたが、観ていて楽しかった。
日本選手の層の厚さを感じられました。
渡辺選手は大好きだと言う
「ダイオウグソクムシ」のグッズ話でつかみも良しです。
それにしてもグランプリファイナル。
日本勢の大活躍(そもそも世界で6組しか出られない試合の半分、又はそれ以上が日本人選手)
もうね、すごいとしか言えませんよね。
りくりゅうの2人が日本人として初のグランプリファイナルペア競技で金メダル。
男子シングルはもちろん宇野昌磨選手が金メダル。
女子は!女子は!三原舞依ちゃん、おめでとうございます!
金メダルですよもうエキシビションでは泣きましたよ〜。
ジュニア女子も金メダルでした!素晴らしい。
エキシビションでは昌磨の演技に。。。。。。
「息をするのも忘れそう」なんて陳腐ですけどいやもうそうとしか言いようがない。
師匠ステファン、ミヤケン先生、そして今回の樋口美穂子先生。
昌磨はコリオグラファーの顔ぶれも何気に豪華です。
誰の振り付けでも
こーんなに自分の演技にできてしまうなんて。
すっかり大人のスケーターになりました。
師匠のステファン・ランビエールの偉大さよ。
成長したくて日本を飛び出し
師匠探しの旅に出たあのシーズン。
あの時のフランス杯での昌磨の姿を思い出すともうたまらない気持ちになります。
三原舞依選手。
シンデレラの輝きが砕けてからのOPシーズンを経て。
「転んだ時の立ち上がり方」
まさに彼女はそれを世界に見せてくれたわけです。
エキシビションの演技は
彼女の気持ちそのままが伝わるようでした。
坂本花織選手はこの試合に限っては残念でしたが
彼女の立ち上がり方を今度は見せてもらえるのではと思っています。
ことフィギュアスケートを観るにあたって
私たちはいつも
技術的な高度さを望みながらも
そこに
人間劇場的な
違った何かを観ているような気がします。
「今この試合」を観ながら
丸ごとその選手の来し方までひっくるめて観ている。
見えてしまう。
そういった意味でも
フィギュアスケートは特殊な競技なのかもしれません。
「君のせいでナーバスになってしまったよ」
久しぶりに地上波で最初から最後まで拝見いたしました。
山本草太選手2位、友野一希選手が4位、素晴らしかった。
特に山本選手のフリーには手に汗握っちゃいました。
会場の皆さんもきっときっと心から応援されていらしたのではないかと思います。
ここまで長かったけれど、まだこれから。
本当におめでとうございます。
そして
優勝した宇野昌磨選手ですよ。
前の試合を観た時も
これは言葉にできないわーと思いましたが
今日もそうです。
別格という言葉さえ陳腐に思えて
優しく
軽やかでいて
静かに
氷とエッジの摩擦など存在しないかのようなスケーティング。
ミヤケン先生の振り付けは
ステファンの鬼のようだった「ボレロ」とは全く違う
昌磨のスケーティングの良さが際立ち
音楽がくっきりと立ち上がる不思議なコリオ。
すっげー
。。。。。。。。。。
美しい、と思いました。
なのに4回転を5つ入れるという
ネイサンですかみたいなプログラムで
4つのクワドを決めました。
ショートも、フリー直前の6分間練習でも
決して絶好調というわけではなかったようです。
でステファンが昌磨に
「君のせいでナーバスになってしまったよ」って言ったそうなんですけど
そんなこともありながら
あの静かな静かな
水面を滑るような演技。
今の昌磨は体力、メンタル、
最強ですね。
これでもまだ全く完璧な演技じゃないっていうのがワクワクします。
すごいもの、観ちゃった。
フィクション
//////////////////////////////////////////////////
小説なんて、フィクションなんて、くだらない。
そんなもん
なんの役にも立たないじゃないですか。
役に立たないもんは全部消えていいんですよ
オレみたいに。
彼は
石ころだらけの道をひざ立ちして歩いているかのように
成長過程の自分の重さでぐりっと痛そうに見えた。
経済学者が書いた本の話を得々と私に語って
それが自分の意見なのか
本の受け売りなのかの線引きは曖昧なまま
読んでも読んでも自分には何も与えてくれない
フィクションの世界に
怒っていたのかも。
小説も漫画も映画の形でも
どんな心のときめきさえ
彼には響いていかない。
評価とか価値とかすごいとか
そんな基準に当てはまらないものは
理解できないのかしようとしないだけなのか。
本当は大好きな家族の
物差しから外れた自分は規格外
彼の苦しさの源は
その辺にあるのではないかと
思ったものの口にはできない。
壁打ちの壁になって
一方的な言葉のボールを
適当に受け流しながら
私はというと
捨ててしまいたい惰性を飲み込めずに
味のないガムをただ噛み続けている気分。
何もできないし
それは仕事じゃない。
いやそれも含めて仕事なのかとぐるぐるしても答えは出ない。
どっと疲れて帰る道の途中
車のラジオから聴こえるのは
昔好きだった歌。
一緒に歌っているだけで
1人の帰り道も1人ぼっちじゃない気がした。
家に帰り
長く伸びた夜の時間
何度も読み返した本を開けば
そこには
紙の上に書かれた
虚構の
でもよく知った
懐かしい友たちがいる。
紙の上に描かれた景色の中に立ち
彼女たちの言葉を聞いて
事件に驚き
笑って
泣いて
ここには秘密基地のような
絶対安全地帯があるのだと
確かめてほうっとため息が出る。
フィクションは役に立たないだなんて
役に立たないものには意味がないだなんて
なんてさびしい。
でもそれがわからない人だって
実は案外いるのかもな。
誰かを傷つけることで安心する。
彼は私を傷つけたんだなと
そこで気が付く。
でも私の傷ついたひざ小僧には
すでにガムテープくらい大きな絆創膏が貼られている。
フィクションという名の。
1.75倍速のあなたとわたし
誰もが振り返りそうな美人なのに全く気取らない彼女が
「そういえば、いつだったかなあ、六本木クラスのドラマの撮影偶然に見ちゃったの」
そう言いながら
動画は大体1.75倍(速)くらいで観るという話をしたのが冒頭の鉤括弧。
そのシーンを見せてくれるため
携帯で動画を早回し再生しつつあっという間に該当箇所を見つけ出す速さに
動体視力どうなっとるんじゃいと驚きました。
ああ
今の若い人は
より多くの情報を余さず頭に入れるために
エンタメでさえ早回し(って言うの?)で観るというのはほんとなのね。
息子の保育園時代の仲間が
出張で私たちの住む町に来るというので
狭い観光地を案内することに。
3年ぶりに会った彼女は
想像以上に美しく賢く
機転のきくお嬢さんに育っていて
まーもう自分の娘のように嬉しくて(涙目)
運転手として幼なじみを案内する息子も
最初の緊張はどこへやら
この2人が会うのは5年ぶりくらいでしたが
とても楽しそうでした。
でですよ
うちのゴリオだけでなく、その美しいお嬢さんでさえ(これも固定概念というか思い込みというか、ハラスメントですか?)
動画やドラマの速度を速めて観ている
これも時代だなあと思ったわけです。
以前の職場では
持ち帰りの仕事に追われる週末でしたが
今は何やってるかと言うと
ひたすら情報収集しているわけです。
追いつくだけでは駄目で
少しだけ早めに広く浅く
知っておくべき情報の走りを頭に入れておく。
それでやっとこさこの仕事を凌いでいける。
小説や漫画が
映画化アニメ化ドラマ化そしてまたコミカライズされ舞台化され
どの時点でそれらをキャッチするか
横の繋がりはどうなのか
誰が書いて誰が監督して誰が演じて誰がどう描くのか。
私たちが数十年の間に見てきたエンタメの変化は
1.75倍速どころか体感的には速いぞ新幹線、みたいな。
最近の日本のドラマ、時に映画も
どうもダイジェスト観てるみたいで面白くなく
でも昔のだったらそれはそれでまどろっこしいのは
ずっと過渡期にいるような自分の身体と脳みそが
ちっとも一致しないからなんでしょうか。
1倍でいいんです。
たまにはもっと遅くても。
目標、それ大事なのね
流れるようなスケーティングに
この人本当にスケート上手いなあ
なんて今更なことをしみじみ思っていたら
LINEニュースに「織田信成」さんの名前が。
現役復帰?
現役に、復帰!
昌磨の素敵すぎる演技について何て書こうか迷っていたのに
吹っ飛んでしまいました。
織田信成さん
まずは国体予選かららしいのですが
手術した膝の回復中で
ショーに出るにも体力が充分に戻っていない
何とかせな!
こんな時、目標があったらいいな。。。(記事からの意訳も甚だしいですねすみません)
そこから斜めに飛んでの
「現役復帰」です。
2018年のジャパンオープンで素晴らしい演技を披露し
「現役できるんじゃ?」って言われていましたが
今回予想もしなかった方角から復帰することに。
こういうの
私は素敵だなと思う派。
試合ってきっと特別なんでしょうね。
悲壮な感じの現役復帰じゃなくて
こんな感じの真剣さで
色んな選手が増えたって良いのではと思います。
もちろん
さまざまな条件が揃わなくては叶わないことですが
どんな道もひとつじゃない。
クリスティーヌの戦い方
カテゴリが「男前スケーター」ってーのは間違いじゃないんです。
今季スケートアメリカの女子シングルで6位になったのは
アメリカのグレイシー・ゴールド。
金髪碧眼の可愛い少女だった彼女が
まさかこんなスケート人生を送ることになるだなんて。
体重のコントロールに苦しみ
思うように試合で結果を残せない日々を経て
それでも氷上で演ずることを諦めないガッツ。
男前だったのは彼女だけではありません。
スケートアメリカ、デニス・テンメモリアル
『今シーズンの「かなだい」(フィギュアスケートアイスダンスの村元哉中、髙橋大輔)はすごい』
話題の演技をワクワクして拝見。

今シーズンの『かなだい』もやっぱり
村元哉中さんから目が離せません。
私は髙橋大輔さんのファンですので
もちろん大輔さんが観たい。
でも『かなだい』2人の演技になると
村元哉中さんについて考えずにはいられないんですよねこれが。
「髙橋大輔」はすでに実績充分の『栄光も過去も』あるスケーター。
彼がシングルスケーターとして残した数々の演技は
その使用曲と共にどれも忘れ難く
氷の上で踊るようなスケートにファンは熱狂したものです。
ソチオリンピックの後選手を引退し
アイスショーだけではなく
ダンスショー「LOVE ON THE FLOOR」で見せつけた
「陸でも踊れる才能」には度肝を抜かれたものです。
華々しい「選手引退後の成功例」だった筈の彼が
シングルスケーターとして現役復帰したのが32歳。
狂喜乱舞の私たちを更に驚かせたのが
村元選手とアイスダンスでペアを組むという
無謀とも言える挑戦です。
海外のペアやアイスダンスの選手を育てる過程を考えれば
まず年齢的にも
1からのスタートはありえないことだらけに思えました。
「違う言語」とさえ言われるほど
同じスケート競技でありながら全く別の世界です。
シングルスケーターとしての経験さえも
邪魔をするのではと思われるほど。
新たなスケート技術を習得しなければならない上
カップル競技で戦うには小柄な体格
怪我を重ねた若くない身体
ファンも多いがアンチも多い。
そんな髙橋選手を
自らパートナーとして誘ったのが村元哉中さんでした。
身長、体格、筋力。そこから来るリフトの低さは
元から想定していたことでしょう。
その上女性と組むカップル競技なのに
大輔さんにはとにかく華がありすぎる。
熱狂的なファンがこれだけ付いていて
そのファンにも受け入れられるかどうなのか。
私だったらまずこんなにハードルの高い人と
パートナーになろうだなんて思いませんよ。
圧倒的な大輔さんへの尊敬と信頼。
哉中さんにはそれがあるのだと思います。
信じているからどこまでもやれる。
現実に今
続けていて進化している。
ペアを組んで3シーズン目。
やっぱり今季も哉中さんはとにかく美しかった。
そしてますます上手くなってますよね。
身体も絞り果敢に攻めています。
足の裏に包丁の刃的な鋭いエッジを付けて
テクニック的にはこれまでのパートナーとはレベチだった髙橋選手の
まだまだ足りない技術を補うように
「2人で」踊ってきました。
今季、髙橋選手が
まだ上手くなるの?と驚くほど
アイスダンス競技がしっくり板についてきて
2人で素晴らしい演技を見せているんです。
さすがなのはもちろん大輔さんですが
哉中さんが大輔さんを凌駕するオーラで滑っていることの方がグッとくる。
私は好む好まざるの関係なしに
フェミニズム系の本なんかを読まなくてはならないこともあるのですが
どんなフェミ系の本に書かれていることよりも
村元選手の心の強さには胸打たれますし惹かれます。
彼女はスケーターです。
でも彼女の生き方には同じ女性として凄まじく刺さるものがある。
男女、身体的にも精神的にも全く違うもの同士が
足りないものを足りないまま
補うことすらできないものを抱えたまま
それでも互いの能力をぶつけ合って
「アイスダンス」というカテゴリに挑んでいる。
「りくりゅう」と呼ばれるフィギュアスケートペアの三浦璃来、木原龍一選手は
互いの持ち味が良い意味で増幅されグングン伸びている感じですが
「かなだい」はこの2人とは全く違う印象なのがとても興味深いんです。
従来の「男女」を超えた絆
同士のような
背中を預けあっているような。
2人でどこまで行けるのか
そんなことは誰にもわからないことでしょうが
観ていたいと思います。
これからも。
四畳半タイムマシンブルースであの日に帰りたいのよ
驚きの速さで時間が過ぎて行きますねえ。
さて
「四畳半タイムマシンブルース」です。
森見登美彦の「四畳半神話大系」の世界を
脚本・演出家の上田誠がSFに仕立て
それを森見が小説化。
この小説版をアニメ映画化したものが
先日短期間上映されました。
上映期間には小冊子の特典小説付き。
ところが同じ時期にDisney +ではこれが毎週1話ずつ配信されていたんですね。
最終話の後にepisode 6として
映画館でも観ることができなかった
「サマータイム」の前日譚が丸々1話18分。
待ちきれず映画館で観た息子が悔しがりました。
1ヶ月間殆ど無料のDisney+で全6話視聴
息子が特典で貰った小説まで読めた私は大満足です。
SFと森見の理屈っぽさはマッチしませんが
京都下鴨幽水荘とSFはピッタリ。
今回もテーマ曲をアジカンが担当していてこれがまた良かった。
リアルに若い人たちを相手に働いている私にとって
彼らの生きにくさも
先が見えない感じも
狡さ弱さ賢さも
全てがこの映画のように懐かしく愛しく
なのにその物語の中に自分の居場所は無く
スクリーンの向こうを眺めるばかり。
すごく不思議な感じです。
例えば
「千と千尋の神隠し」を観ていて
千尋じゃなくて「湯婆婆」的役割に自己を投影できるのかってことなんですよね。
その境目がよくわからない。
人生100年時代が自分に当てはまるのかどうかはわかりませんが
いつまで私は物語の主人公を「自分」として捉えられるのでしょう。
自分の年齢に見合った本を読み映画を観るべき?
いやいやそれじゃあやっぱりつまらない。
「四畳半タイムマシンブルース」は
京都下鴨幽水荘にただ一台あるエアコンのリモコンを取りに
タイムマシンで昨日に戻るという話ですが
あなたなら
どの時代に行きたいですか?
全てが美しい
天然だけど賢いのは周知のことですが
より際立ってきましたね。
真央さんのお顔がまたひと回りシュッとしたように見えて
ショーの準備で追い込んでいるんだろうな(多分収録はショーが始まる前でしょう)
きっとアイスショーは素晴らしいものになるんだろうなと。
真央さんが大好きだという京都のお料理屋さんの女将さんが
「全てが美しい人」
そう言っておられて
その「美しさ」がいかに複雑で長い過程を経て
編み上げられたものなのか
ちょっと考えてしまいました。
「費やされた時間は建築物の筋交いのように見えないところで文章を強靭にする。」
「文にあたる」牟田都子/亜紀書房 027ページ
プロの目によりふるいにかけられ
磨かれた文章とは如何なるものなのか。
誰かの作品を
磨く側の仕事とは?
昨日読んでいたのは
そんな本だったのです。
「文にあたる」牟田都子/亜紀書房
校正者、牟田さんの仕事に関するエッセイです。
面白くてするすると読めてしまいます。
各話冒頭に引用された文章と
そこから広げられる校正という仕事の奥深さ。
どうしても気になってしまう
小説やネット記事の日本語や設定。
色々思うところが多く
読んでみることにしました。
「おかしい」と思える文章でも
それが著者の意図であったりする
それが文法でも、地理上の間違いでも。
その上で本からは伺いようのない「間違い」
あるいは「不正確さ」に含まれる著者の想い
校正者の葛藤
ああでもないこうでもないと検討し合った末
意図を持って残された文章。
著者、編集者、校正者など、出版に携わる人々によって
「費やされた時間は建築物の筋交いのように見えないところで文章を強靭にする。」027ページ
単純脳しか持ち合わせていないが故
本を純粋に味わうことができていない
こんなことばかりです。
それにしても校閲って、余りにも大変。
校閲をする部門を持つ出版社もあれば
そうではない場合もあるようですが
美しいものを生み出すって
簡単なことじゃないんですね。
本の話はした方が良いと思った話
さらに小洒落た店主がいる
「独立系本屋」には近寄らない私ですが
同じ「独立系」でも
話しやすくて
素敵な本を知ってる主がいる本屋さんには
つい足繁く通ってしまいます。
思えば
子供の時は家族や図書室
学生時代なら友人や教科書
今ならSNSで話題とか
自分の思考の成分は
紛れもなく色んな人の
「おすすめ本」でできているんです。
直近で私のところに飛び込んできた本
それは
美術家会田誠さんの「性と芸術」でした。
おすすめされたわけではなく
仕事の一環で読まざるを得なかったわけですが
流行りの小説に乗り切れず
読書量の伸び悩みも甚だしい昨今
ドカンと響いたのがこの本でした。
以下は好き勝手な感想です。
言葉にできないほどの霊的(哲学的)体験を曼荼羅の形で表現した若き日の会田誠。
言葉に限界があるから美術で表現するのかという単純な問いを抱くのは私が愚民だからでしょう。
だってこの人の文章はとてもわかりやすくて上手い。
学生時代に描いた曼荼羅の「自分語り」から
広い世界にベクトルを変え
表現するものを
こちら、と定めたあたりの
もうなんといって良いのか
自分には生きることの出来なかった人生
パラレルワールドの向こうにある世界を
一緒に追体験するかのような
若き日の芸術家の姿。
「泣いちゃったわよ」くらいの語彙しかないのが残念ですが
何らかの水柱がドーンと立ったくらいの
衝撃に呆然といたしました。
この本は近代芸術史を学ぶ人たちにはとても勉強になるものだと思います。
芸術史、美術史分野で
個人伝記とも読めますが、これはもう少し広い。
油画科から院に進んで日本画を選択した理由。
その上で美少女、SM、四肢切断、をモチーフに用いるようになった経緯。
芸術家が自ら解く解説書、
それともエクスキューズなのでしょうか。
自作の解説というより青春物語に読めることが何よりこの人の魅力を示しているのかもしれません。
「犬」シリーズを始めとする作品群には慄きますが。
わたしに絵のことなんてちっともわからないのです。
でも
この本に載せられた「巨大フジ隊員vsキングギドラ」を見た瞬間
私がフジ隊員巨大化に対して漠然と感じていたことを
真昼間に具体的に
レンズで拡大した上
暴かれてしまった
そう感じたのは確かです。
女性を冒涜する側の理屈じゃなくて
冒涜される側の感覚すらそこには描かれている
そういう意味に捉えることができるってすごいんじゃないでしょうか。
1冊読んだくらいのことじゃ
正解なんてわからない
そもそも正解なんてどこにあるんだか。
それでも
人生も後半下り坂
ものを知らない一介の主婦に
こんな本を読ませてくれてありがとうと
きっかけをくれた彼に感謝したのも
本当のことですから。
やっぱり本の話はした方がいい。
何かのきっかけで
誰かの胸に響くこともあるかもしれませんからね。
「おいしいごはん」は食べられそうにない 書き足りないから追記しちゃう
未読もしくはこの作品及び作者が大好きだと言う方は
このページを閉じてくださいませね。
もうね、今さら現役作家の本を読んでも
この先ずっと
何言ってんだかわからないんじゃないかと思う時があるんです。
去年の芥川賞受賞作家の最新作「くるまの娘」では
あんなに不安定な母親が普通に車の運転してるという一点がどうしても設定として気になりすぎて全く入り込めませんでしたし
この「おいしいごはんが食べられますように」なんて
タイトルを見た時から
この作家を好きになれる気が1ミリもしませんでした。
文藝春秋9月号 282p「能力的に『できてしまう』一部の人によって職場や家庭が機能している現実があります。彼らはなんとか持ちこたえるから、「大丈夫な人だ」と思われてしまうけど、必ずしも喜んでやっているわけではない。その内面にある「呪い」を書きたかったのです。」
とんでもない人生を
変な人たちが描いてきた時代から
一般常識に長けた人が
彼らから見たおかしな人を書き始めたらこうなるんでしょうか。
作者の何が意地悪いって
このあざとい弱者の顔で全てを奪っていくような「猛禽」を
二谷という男が憎みながらも結局結婚相手として選んでしまいそうなところで終わるラストです。
猛禽あざと女子芦川の不幸な人生はここで決定なんです。
それも底の知れない恐ろしい人生しか彼女には待っていない。
どうしても「可愛い」にしか見えない芦川が
職場の表面的には優良物件を掴んだ
そんなのズルいけどそれが残酷にも現実なのだと
一見そんな風に受け取れます
が
自分が付き合っている女
残業ひとつしないくせにみんなのおやつを手作りして会社で配り
それでも許され何故か大切にさえされ守られている
残業も辛い仕事も
全部他人にやらせて。
そのくせ二谷の食生活に立ち入り
「食事は大事よ」とかふざけたことをぬかす女が作った菓子を
毎晩ぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てる男
二谷の怖いほどの病み加減。
彼女が作った菓子を捨てた手で彼女を抱くんですよ?
そんな男と結婚する芦川の不幸なんて想像しただけで恐ろしいわ。
ババ引いて仕事を辞めざるをえなくなった押尾なんてきっと新天地で幸せに生きていけるでしょうよ。
タイトルに反して
ご飯なんて見たくもなくなる読後感。
お菓子への冒涜が
たかが小説の表現でしかないのに
なんでこんなに神経を逆撫でするのか。
いやこれもうホラーですよね?
YouTubeでこの高瀬さんがお話しされているのも拝聴し
受賞インタビューも拝読致しましたが
この方は
私がどんなに望んでもなりたくてもなれなかった
真っ当な「架空OL日記」(バカリズムのやつね)を地で行ける人なんだろうなと思います。
上手く空気を読み
自分をコントロールしながら
適度に毒を周りと共有しつつ
周囲の「できない人」を正しく糾弾しながら
組織で長生きできるタイプの。
私は間違いなく
「できない人」
この小説では憎むべきモンスター側にいる人間なので
多分他の人の逆側からこの小説が恐ろしかった。
これに比べりゃ「コンビニ人間」の方がずっとずっと腑に落ちる。
文藝春秋の芥川賞選評を読むのを楽しみにしていて
今回も山田詠美姐さんには愉快痛快な気分にさせて頂きました。
山田詠美をしてこの小説中のモンスターを
「猛禽©︎瀧波ユカリさん」と言わしめた女性の天敵。
本当に?
あざとい女は嫌われる。
それは大前提として
でも会社の空気全体が
そんな女の味方?
んなわけないでしょうよ。
作者がわかって書いているのかいないのか
この小説を書いた高瀬さんの私怨のポイントが
私には「正しく」理解できない。
きっと私には
今の世間の空気すら感じ取れていない。
読み手としてもう終わってるんだと
それだけはわかった。(蛇にピアスの時もそう思ったけど)
そんな
「メシマズ」というだけの
読書感想文でした。
「鏡は横にひび割れて」
アガサ・クリスティーの「鏡は横にひび割れて」
ミスマープルがこの作品で被害者女性のことを評した言葉はこんな感じで辛辣でした。
手元にクリスティーの原作が無いので記憶のみの話なんですが
今から元ネタ確認してたらもうこの日記、書きたくなくなるのでごめんなさい大意です。
イギリスのドラマではジョーン・ヒクソン版、ジュリア・マッケンジー版がありましたね。
エリザベス・テイラーが大女優として登場した映画の邦題は「クリスタル殺人事件」wでした。
さて夏が終わってしまう前に
オットと私はまたしても
美味しいランチと冷たいかき氷目当てに遠出して来ました。
所謂古民家カフェ的なところで
店の中庭を眺めながら
汗をかきかき黙々と夏野菜のカレーを食べる私たちの耳に
隣席の若者3人の声が嫌でもガンガン聞こえてきます。
金髪プリン女
「咳も出るし熱もちょっとあったけどさ、567かな〜って調べなきゃ567じゃないしね、私は検査もしないし自粛もしないよ〜」
ヒラヒラな何かを着た男
「そうそう、もう興味ないわ〜」
黒髪ボブ 「ええ〜。私、もう2度とあんなきつい思いしたくない。。。」
三者三様ですね。
いいんですよ
誰がどんな考えで生きようと。
ただね
昼飯食べてるところですからお互いマスク外してますよね。
テーブルはあちこちに散らばって置かれているとはいえ満席
並んでるお客さん多数
どっちかといえば密
こんな中でカレーなんか食べるからだと言われりゃそれまでなんですが
「ああいう人は、自分が言ったことを他人がどう思うか考えないのよ」
その結果
クリスティーの長編で
ヘザー・バブコックという婦人会の女性は毒殺されちゃうんですよ。
この長編
「書斎の死体」の舞台となったゴシントンホールを
今や未亡人となったバントリー夫人から
アメリカの大女優が買い取ったところから事件が始まります。
イギリスの新興住宅地開発の話など
細部まで興味深い小話が散りばめられ
映画スター、ゴシップに秘められた大女優の過去と悲しみをそこに合わせて
まあ面白い面白い。
テニスンの詩「シャロットの姫」が表に出がちですがそれだけじゃない。
全編手抜かりなし
犯人と被害者の人物描写に優れた
クリスティーの巧さに痺れます。
何がミステリとして優れてるかって
現実に
今も
ヘザー・バブコックのような不用意な女は(私を含め)いますし
そのタイミングでのその言葉
それが事件の動機となる
あるかもしれませんよ。
てなことをぐるぐる考えながら
休日ランチを終えたのでした。
「ぼくの瀬戸内海案内」

大林宣彦さんの瀬戸内海案内。
映画の舞台になった故郷について
海の広がるさま
海と出逢うような
その列車からの見え方
食、味付けへの愛着
住人気質
しまなみ海道
島々、船
そして何より
「まちづくり」(待ちづくり)について
映画の話がいつしか「町」の話につながっていくのです。
「まちづくり」ではなく「まちまもり」
「町づくり」に関する大林氏の話は頷くことばかり。
古いものを壊すばかりの小さな観光地に住む私には
これが20年も前の話とは思えないんです。
大分県の臼杵で撮影した「なごり雪」の話から
「転校生」では港町
「時をかける少女」では山あいの町としての尾道を描いたと言います。
大林宣彦さんの中にいた
ウミヒコとヤマヒコ。
尾道で自分の映画の記念碑を作らせなかった、それが自慢だと大林さんは書き残しておられます。
「記念碑ひとつでもそれは町を壊してしまう」「この町に指一本触れないでほしい」
「東京物語」を例にとり、「顔のしわ」の味わい深さより
町に綺麗な「化粧」を施す町づくりの愚かさを
糾弾せずとも淡々と伝えます。
多くの本に囲まれて
その中で書架の整理をしていると
本に呼ばれることがあります。
その機会を逃すと2度と話しかけてもらえないので
そういう時は
何はさておいて本を手に取りページを開くようにしています。
この本も
そんな本の一冊。
ありがとうと言って本を閉じるのです。
かき氷の夏
豪雨、台風
今年の夏も
夏らしい入道雲を眺める間もなく
もうお盆です。
昨日抜糸が済み
今度はちゃんと繋がっていたようで出血もなく
たかだか2、3本残っていた最後の糸が無くなっただけで
不快な痛みともおさらばできて
嬉しくて踊ってしまいましたw
曲はヒゲ男の「ノーダウト」ですよ。
今回1ヶ月半程
身体が不自由な状態で過ごしてみて
あと10年20年先の自分の身体の変化を
シミュレーションしたみたいで
なかなか興味深い体験をしたと思います。
今回は身体の外側の傷の問題でしたが
それでも身体を動かさないと
あっという間に足腰が弱り
胃腸の調子まで崩れてきます。
うちはマンションですが
エレベーターが有れば安心かと思いきや
エレベーターまで歩き
エントランスを抜けて駐車場の車位置にたどり着くまでさえ
こんなに遠く感じるとは思ってもいませんでした。
再縫合してすぐの頃は
本を読んだりTwitterで仕事の情報収集をしたりしていましたが
安静にしながら頭だけを動かすと
アンバランスになるからでしょうね
段々頭を使わないで
気分ものんびりする様になりました。
あと数年後には仕事も辞めて
こんな風に家でぼうっと過ごすことが増えるのかしら。
さてかき氷の話です。
先週から仕事に戻り
またすぐに夏季休暇に入りました。
今の職場に変わるまで
毎年お盆休みとは殆ど無縁で働いていた私は
この時期オットやゴリオと一緒に家にいる休日が実に長く感じられます。
ゴリオが子供の頃に
ゆっくり一緒にいてあげたかったと思いますが後の祭りですね。
オットが遠出もできず暇を持て余しているので
リハビリを兼ねて近場に車を走らせ
かき氷巡りをすることにしました。
今日で3日目。
毎日おやつの時間にかき氷のあるカフェに行くのですが
本当に美味しいかき氷って難しいものですね。
そういえばコビトが移ったのもかき氷屋さんでした(^◇^;)
まだ紫陽花が咲いていた頃
ゴリオが車で連れて行ってくれた
小さな城下町で頂いたかき氷が忘れられず
もうほかのかき氷がことごとく
「ただの水の塊」に思える程
そのかき氷の美味しさが忘れられないのです。
贅を凝らした果実たっぷりのかき氷じゃないんですよ
ただの抹茶あずきです。
これが信じられない程のフワッと滑らかな舌触り
溶けて消えるまでキンとした冷たささえ感じません。
食べても不思議なほど身体が冷えないかき氷です。
西の果てにある小さな城下町。
町の再生を賭けたまちづくりをする中で
古い金物屋さんが考え出したのは
刃物に特化した店。
「研ぐ」技術(日本の包丁の切れ味は世界でも有数なんだそうです)を後世に残し
まちづくりと同時に店の付加価値を作って行く
そこで生まれたのが
究極の刃で削ったかき氷。
湧き水で有名な町でもありますので
水がとても良いことも幸いしているんでしょうね。
かき氷が大好きな浅田真央さんにも
いつか食べてもらいたいな
「探偵物語」1983年
ということで
久しぶりに観ました
松田優作、薬師丸ひろ子主演「探偵物語」です。
1983年なんて
つい昨日のことのようなんですけど

Twitterで「名刺代わりの小説10選」なんてタグがありますが
これを映画に置き換えれば
私の場合
ヒッチコックの「裏窓」とこの映画は外せません。
原作は赤川次郎
この作品に関しては映画化ありきの当て書きだったそうです。
キャストが最高
主役の2人はもちろんのこと
秋川リサさんの背中が超絶に美しく、クラブで歌う「マンボ」の気怠さが
画面手前の女子大生と対照的で。
ヤクザ役の財津一郎さんの存在感もピカイチでした。
中村晃子さんとの絡みは短いシーンながら
大人の猥雑さをこれでもかと見せつけてくれました。
岸田今日子さんに至ってはもう
1番の謎は彼女の存在だったのではと思うほどですよ。
脚本
ミステリの謎解きと伏線(一応あるのよ一応)
挿入歌
どれもこれも何度観ても好きな映画です。
薬師丸さんの魅力が途方もなく
松田優作さんがかなり抑え目の演技でそれがまた良かった。
短めのボブに大きな単色のイアリング
上品なワンピースにポシェットとフラットなカラーパンプス。
衣装、ヘアメイク、スタイリストさん
最高の仕事をなさいましたよね。
探偵と元妻のあの声を聞いてしまったショックから
夜の街に飛び出た薬師丸さんが着るのは
シックな柄物のミニワンピースに
真っ赤なルージュとパンプス。
実際には衣装にかける予算の違いだったのかもしれませんが
ステイタスの違いがワンピースで表現されているかのように見えるのも注目ポイントです。
終盤、大学構内で
主人公の憧れの先輩とそのガールフレンドとの3人のシーン。
薬師丸さんは前日のままのワンピースに赤いパンプスですが
バニーガールをしていた先輩の彼女は
薄いピンクのポリエステル生地花柄ワンピースを着ているのです。
2人の女子大生のワンピースが
見事に2人のバックグラウンドを語っているようで
先輩の彼女の事情を知れば尚
ピンクのポリエステルが切なく映るのでした。
今観ても
その昭和感すら素敵。
この頃って所謂女子大生ブームだったんじゃないかと思います。
優作さんが「電電公社」って言ってましたが
もうね。懐かしいどころの話じゃありませんよね。
この映画は
富豪の父の元に渡米するまでの
残り1週間という短い時間軸に
殺人事件とドロドロの「男女関係」が差し込まれ
自分を持て余したお嬢様女子大生が
大人の世界を垣間見る。
最後の空港のシーンで薬師丸ひろ子が着たジャケットの「白」は無垢。
でも彼女はもう1週間前の彼女ではないんです。
「私ずっと寂しかった」
渡米の前日
探偵の部屋でそう吐露した主人公の直美を
誰だって皆寂しいのだと突き放した探偵。
自分はこれまで寂しかったのだと
そしてこれからもずっと寂しさを抱えて生きていくのだと
そう知った彼女は
翌日1人空港に向かうわけです。
女の子が処女を捨てることで
成長した気になる体の話は山のようにありましたが
1人の人間として
生きる寂しさを知りながら生きていく。
これは新しかった。
その意味では
探偵も
秋川リサさんが演じた探偵の元妻も
犯人でさえ
誰も同じ。
この描き方が
当時としてはとても斬新だったのではないかと思うんです。
あの頃は気がつきようもありませんでしたが
「探偵物語」が当時の女の子映画と一線を画すのはそこじゃないかと。
封切り時の同時上映があの「時をかける少女」。
「探偵物語」の方が新しい(オシャレと言っていい)映画のような気がするのは
表現の違いだけが理由じゃないと思います。
無垢な者へのリスペクトすらそこにあったのではと考えると
薬師丸ひろ子という女優あっての物語だったということが腑に落ちます。
彼女と探偵の別れのキスシーンは当時話題になりましたね。
前日の夜から翌日の空港のシーンでの
松田優作さんの演技の何と素晴らしいことよ。
なんでどうしてあんなにカッコよく見えたのか
大人になるとわかるんですよね。
フィリップ・マーロウでしょうか
優しいから元妻を抱き
優しいからお嬢さんにはあの夜触れもしなかった。
ズルいなあとあの当時は思いましたし
あのカッコ良さを単に
「両想いだったのに、探偵さんは身を引いたのね」と受け取っていましたが
事件当時の探偵は
実はまだ若かったわけですよ。
痩せ我慢の探偵は
カッコ悪くて可愛かった。
そして切なかった。
多分、女子大生よりもずっと。
////////////////////////////////
さて先週
再縫合後2週間経ってからの診察
半分だけ抜糸して
抗生物質を変えた上で更に2週間(可能な限りの)安静と相成りました。
早速
残りの療養生活を
楽しまなくちゃ
勿体ないですからね。
寝ている間の便利品
寝転んで本を読むくらいのことしかできず
長じて読書家
さらには作家になったりしたという話はよく聞きますね。
読書家にも作家にもなれませんでしたが
私も何かと寝込みがちな人生を送ってまいりました。
気管支も腎臓も炎症続き
肋膜炎で棒に振ったも同然の10代。
お腹は3回切ってますし
左胸に1ヶ月管を通して
抗生物質が効かない菌と戦った夏もありました。
寝込んでいる間にやっとこえっとこ
ひと通りの人生を生きてきたって感じです。
今年に入ってからは
妖精になって熱にうなされ
外に出られない日を過ごしましたが
それだってストレッチと家事ができただけでもまだよかった。
おへその中の再縫合から2週間弱。
痛みも熱も、縫い後の腫れもほとんど無くなってきました。
抗生物質が効くも効かないも自分の体力と
雑菌の種類によります。
戦禍にいる方々で負傷されておられる方はいかばかりかと
それを思うと涙が出そうです。
今週からは少しずつ歩いて
座ったり身体を動かしては傷の痛み具合を測っています。
さすがに来週からは仕事に戻らなくてはまずい。
でまあ、リハビリ兼ねてブログの更新をしているわけです。
身体の中心、おへそ部分を動かせない
お腹に力を入れられない
というのは本当に不便です。
寝返りが打てないので腰にくるんですよ。
枕とクッションを駆使して上半身を少し起こした形で寝ると
本当に楽になりました。
昔と違うのは
一日中寝ていることしかできなくても
便利なツールがいくらでもあるってことですね。
例えば
以前もご紹介したかな
こちらのタブレットスタンド

1年半以上使っていますが
これほど買って良かったものはここ数年なかったかも。
アーム型も使ってみましたが
顔の上にタブレットが落ちたりアームが安定せず使えませんでした。
その点これはタブレットを操作しても揺れず
背中に枕を当てて上半身を少し起こした状態だと
私の視界でこんな感じ

自分の身体を跨いで置けるので
半分寝た状態でも適度な角度でタブレットが使えます。
元々ストレートネックで辛い時に買ったのですが
テーブルに設置して置くとかなり脚部分を広げて置くことになります。
脚は自由自在にグネグネしますので無問題。
これをテーブルで使うと
自分の首を真っ直ぐに立てた状態で正面にタブレット画面が来るようにできるのでその点も良しです。
寝て使う時は片手を添えることも多いですが
寝たまま使えるタブレットスタンドとしても
かなり優秀ではないかと思います。
で
Kindle Unlimitedを復活させて
3ヶ月99円読み放題を楽しんだり
動画を観ながらフェイスマッサージ。
ストレートネックで首や肩が固まりがちな私には
鎖骨、首周辺のマッサージは欠かせません。
寝る前に首周辺の
自律神経を整える系のマッサージをすると
身体が辛くてもぐっすり眠れたりします。
動画主さま方、本当にいつもありがとうございますm(_ _)m
あとベッドに寝ていて便利だなと思ったのは

ニトリの3段スチールワゴン
背の高さが2種類ありますが
低い方のやつだと1番上段がベッドサイドに丁度いい。
キャスターがスムーズに動くので
必需品を載せてストレスなくあちこち動かせます。
ベッドサイドチェストでは身体を捻れない時は不便でした。
最初はもう少し華奢な別タイプをゴリオのお下がりで使っていましたが
形は似ていても全然違いました。
このタイプはお安いのにしっかりしています。
3段目にはゴミ箱
2段目と1段目はくっつけて
1番上に体温計やお薬、リモコン、携帯、
ティッシュや化粧水などなど小物入れを併用すると
飲み物まで置ける。
更にスチールなのでマグネットフックも使えるのが便利。
昔祖母が
身の回り品をこういう小家具にまとめて置いてたのを思い出します。
ちょっとフクザツな気もしますが
確実におばあちゃんに近づいていますので
仕方ないでしょう。
毎日の食事作りをゴリオにお願いするのも大変なので
お弁当を配達してもらったり
消耗品の買い出しはネット通販にお願いできますし
ありがたやです。
田村岳斗さん、BEYONDへ
デニス・ヴァシリエフス、エラジ・バルデ、坂本花織(ショートヘアが素敵!)ときて
ジョニー・ウィアーの演技を観ていてふと思ったんです。
現役引退後、生活、体型の変化で
スケーティングスキルが落ちるのは仕方ないことですが
表現の部分まで身体と一緒に重くなることもあるんだなあ
その点織田信成さんはすごい。
むしろ選手時代より努力の跡を感じる演技です。
年齢と共に
凡人でさえこれまでの自分をキープすることの困難さを感じるようになると
コロナ禍を越えて氷上にいることそのものが尊く思える。
私などには計り知れませんが
難しいことだと思います。
実は拙ブログには「ヤマト先生」というカテゴリがあります。
フィギュアスケーター田村岳斗さんのことを書いてる記事なんですが
ヤマト先生は
フィギュアスケーターとして
シングル、ペアの両方を経験しているお方
引退後はあのコーチの元で
後進の指導にあたっていたのですが
そのヤマト先生が
浅田真央さん率いる「BEYOND」メンバーの1人として
インスタでは真央さんの右横に並んでいることに驚いたのは
私だけではないでしょう。
ヤマト先生が実際にどのような経緯で
真央さんと一緒に滑る決心をされたのかはわかりません
がですよ
年齢、スケーターとしてのブランク
そしてツアーの長丁場
働き盛りの年齢の男性としても
あのコーチと一緒に働いていた(生徒さん達だっていた)ことから考えても
あらゆる意味で「違う世界」にそれこそ
「身を投じる」ようなものではなかったかと思うのです。
一般的に言えば
この決断はかなり思い切ったものだったのではと想像しています。
でも
ヤマト先生のエンターテナーぶり(ヤマ子、有名ですね)を思い出せば
全然ありなんですよね。
人間って
時として自分がこうしたいと思うより
世間一般の物差しで測った
「こうあるべき」に載って行きがち。
窮屈なそのスーツ(あるいは窮屈なブーツでもいい)を脱いで
自分に合った服や靴で歩けたら
それが年齢的に幾つであっても構わないと思います。
ビシっとしたスーツでキスアンドクライに座るヤマト先生も素敵だったけれど
真央さんと滑る新たな田村岳斗さんを
心から楽しみにしています。
あ
FOIは
三原舞依ちゃんの演技に心洗われるようでした。
随分エネルギーが戻ってきたように見えて嬉しい。
でですよ
ステファン・ランビエールの肩の力の抜けた
氷の上にいることすら忘れてしまいそうなパフォーマンスにぶっ飛びました。
素敵すぎてオシャレすぎて
言葉も出ません。
いつかまた真央さんとも一緒に滑ってくれないかなあ。
何度だって立ち上がる
このブログを書き始めて今月で10年。
大好きなドラマやゴリオやフィギュアスケートについて書き始めた日記が
まさかこんなに続くとは。
これもひとえに
決まった更新も中身もない
拙ブログを読みに来てくださる方々のおかげです。
改めて感謝申し上げます。
ずっと応援している浅田真央さんが
今年から新たにまたフィギュアスケートのショーを始めるということで
浅田真央アイスショー「BEYOND」公式には
トップにこう書いてあるんです。
BEYOND 何度だって立ち上がる。これは、私たちの進化の物語。

「何度だって立ち上がる」
私もそうありたい
////////////////////////////
たった10年の間に
ゴリオは大人になり
それに伴って生活も変わり
なんだか随分歳をとった気がします。
それを証拠にこの数年は
寝込んだ話が多くなりました。
先日
おへその中にできた腫瘍を取ったのですが
2週間後の抜糸の際
傷口が開いてしまい
細菌感染しているとのことで
その場で縫い直されたのですが
再縫合の傷は塞がるのに時間がかかるということで
抜糸まで1ヶ月かかるそうです(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
前回の反省を元に
再手術から今日まで
身体を捻る体勢をとらぬよう
寝返りをしないように努め
笑っちゃうくらい真面目に
ひたすら上を向いて寝ています。
傷口を毎日丁寧に洗い
しっかり乾かして薬を塗り
「おへその中の手術は多くないから
まさかこんなことになるとは僕も思って無かったんだよね」
そう苦笑いしたドクターの顔を思い出しては
怒りでちょっとだけ元気になりますw
「腹膜と近いから、腹膜炎起こしたら大変なんだよね」
他人事とはいえ
あれだけ術後はどんどん動きなさいと言ったことなど
無かったかのように不安しかないことを呟かれ
さすがに
思い切って仕事はしっかり休むことにさせてもらいました。
これから先は
元には戻れないけど
すぐに全てが終わりもしない
こんなことが増えていくんでしょう。
目下の暇潰しは
フェイスマッサージ。
顔のリンパを流して気分は爽快。
全身ストレッチができない分
表情筋を鍛えています。
髪を超ショートにしたので
フェイスラインは命。
「何度だって立ち上がる」
立ち上がる日のために
「Frog and Toad are Our Friends 」アーノルド・ローベルの全仕事
初めてローベルの絵本に出会ったのは中学生の時。
13、4歳の頃でした。
小さな観光地のお寺に繋がる緩い坂の途中にあった
雑貨と洋服のセレクトショップ。
原色で溢れた棚に1冊だけ置かれた
茶系の地味な色合いの絵本を見つけてお小遣いで買いました。
当時は珍しかった原書でした。
1972年には三木卓さんの翻訳が出版されていたそうですので
そのセレクトショップはインテリアのつもりで原書を置いていたのかもしれません。
あれから40年以上も経った今
あの時には知る由もなかった作家の全作品紹介から半生に至るまでを一冊の本で読めるとは。
翻訳者に三木卓氏を得たことは日本人にとって幸運だったと思います。
その三木さんを取材した文が本書の最後に載せられていて
翻訳の秘密を解き明かしてくれています。
ローベルも三木さんも、文を書く時には自分の声に出して読んだそうです。
原書も日本語版も、声に出して読むと初見でも読みやすい。
そして口にすると心地よい。
まるで甘いものでも口に含んだように。。。
ローベルの原書の言葉は実にシンプル。
でも実際は
短いセンテンスを的確に補うように配置された絵は
こんなにも考え抜かれていたのですね。
優秀な編集者に恵まれたローベル。
作品を世に出すきっかけも
作品へのダメ出しとアドバイスも彼女たちがいたから。
何度も何度も繰り返し
絵と言葉で推敲を重ねた作品作りに
「絵はスイーツで文はほうれん草」
とローベルは語ったとか。
三木さんが
「ひらがなで書かれるとわかりにくい言葉というのがある。ですから、ひらがなにふさわしい言葉であることも意識しましたね」
と言っておられます。
「できるだけやさしい言葉で、心地いいリズムでまとめなくちゃいけない。」
とも。
あの芸人さんの絵本などを読むと
素人に子どもの絵本は作れないなあと心底思います。
それだけに三木さんのような作り手の言葉には説得力があります。
さて三木さんはローベルに直接会ったことはないそうなのですが
彼のポートレートを見て喜劇役者の
「マルクス兄弟」になんとなく似ていると思ったそうです。
マルクス兄弟は小林信彦の小説にもパロディとして登場しましたが
彼らに例えられたローベルがいかに愛すべき人物だったのか
作品を通じて感じておられたのではないかと思います。
エドワード・リアが好きだったというローベル。
その翻訳に
訳しにくさはとくに感じなかったと言っている三木さんですが
作品によっては大人向けの作品で難しいものもあったようです。
「道を教えてもらうために誰かの話を聞くことはいいことだと思いますが、それを簡単にまとめたような断片的な情報だけ頭に入れるというのは困ったものです。」
この三木さんの言葉が耳に痛い。
「だから、教訓をたれることなくして、しかも人生を語るということをやってのけたローベルさんは、すごく粋なんです。」
それも、子ども向けの絵本で楽しませ笑わせながらそれをやってのけた。
ローベルを語る三木さんの言葉は
作品を鑑賞するものにとって
自分が感じたことへの全肯定を感じさせてくれるもの。
娘エイドリアンと息子のアダムが
父の横顔をインタビューで語っています。
この部分が
昨年拙ブログでも書いた
「がまくんとかえるくん」が
ローベルの最初のカミングアウトだったのではないか
という話に繋がるのです。
こちらに書き残しています
→駆け込み今年の読書備忘録その1
人生への問いかけを
誰にも明かせず
本に問うている
そんな人にも
栄養になる本ではないかと
思います。

超えていく

くーーーーーーーっ!カッコいい。
真っ白いスケート靴を手に振り返るロングヘア。
日刊スポーツ
2022年7月4日16時9分
プロフィギュアスケーターの浅田真央さん(31)が、座長を務める新たなアイスショー「BEYOND」を立ち上げ、22年9月から全国ツアーを行うことになった。
4日、都内で記者会見に臨み、「新しいショーを作るにあたって、すごく大きな覚悟を持って作り始めました。過去の自分を超えていけるようにという意味を込めました」と公演名の「BEYOND」に込めた思いを語った。
約90分間のノンストップアイスショーで、キャストの選出、振り付け、楽曲制作、演出、衣装、ツアーグッズの細部に至るまで、浅田さんがこだわり抜いてプロデュースした。
公演は23年3月まで全国17都市、70公演を予定する。
<ツアースケジュール>
▼2022年
・滋賀県 9月10ー11日 滋賀県立アイスアリーナ
・青森県 9月17-19日 FLATHACHINOHE
・兵庫県 10月1-2日 尼崎スポーツの森アイススケートリンク
・北海道(帯広) 10月9-10日 帯広の森アイスアリーナ
・神奈川県 10月15ー16日 相模原市銀河アリーナ
・福岡県 10月27ー30日 アクシオン福岡
・秋田県 11月3-6日
秋田県立スケート場
・京都府 11月12-13日 京都アクアリーナ
・東京都 11月25-27日 江戸川区スポーツランド
・北海道(釧路) 12月3-4日 釧路アイスアリーナ
・愛知県 12月17-18日 アクアリーナ豊橋
▼2023年
・広島県 1月14-15日 ひろしんビッグウェーブ
・長野県 1月21-22日 長野ビッグハット
・熊本県 2月4-5日 アクアドームくまもと
・山梨県 2月11-12日 小瀬スポーツ公演アイスアリーナ
・大阪府 3月4-5日 東和薬品RACTABドーム
・東京都 3月17-19日 アリーナ立川立飛
※滋賀・青森・兵庫・北海道帯広・神奈川の5会場は7月5日午前11時より都道府県民限定先行受け付け開始。

チケットが取れるかどうか、神さま!
おへその中にはなにがある
こんな歌がありましたよね
♪「お・へ・そ〜の な・か に〜は なにがある どんどん」♪
私のおへその中には
良性腫瘍(検査中なので暫定)が入っておりました。
年齢を重ねるごとに
何があるかますますわからなくなって参りますね。
1年以上もの間
おへその中に飼っていた出来物を
取ってもらって来ました。
なんたって狭いおへその中を引っ張り出して
7ミリほどに成長したソイツを切って縫ってですから
痛い痛い痛い。。。。。
病院の先生ってすごいなあと思いますよね。
というわけで
縫いあとの痛みにしかめっ面の6月の終わり。
明日からはもう7月。
梅雨も明けたところで
浅田真央さんの新しいアイスショーの発表が7月4日に行われるそうです。
うふふ(๑・̑◡・̑๑)
元気でいなくっちゃね。
「コンビニ人間」
前回の日記で
「擬態」してるつもりの自分って
自意識過剰のアホだなーとつくづく思っておりましたが
そこを押さえてこの本を再読したら
あれまあコレは自分の話なんじゃないかとゾッといたしました。
芥川賞受賞作の本作品を
初めて読んだ時も一気読みでしたが
2度目はもっと速かった。
以下不確かなネタバレが続きますので未読の方はご注意を
主人公の女性は大学卒業後から18年に渡り
コンビニでアルバイトをしています。
この人の「考え方」からいって
多分何がしかの名前が付くはずなのですが
家族は「カウンセリング」に連れて行ったくらいのことしかしていなかった模様。
最初に読んだ時はこれがどうにも嘘くさく
自分を周りに合わせようとし始めるきっかけも
その後の経緯も
白塗りにデフォルメされているようで気持ちが悪かったんです。
40歳くらいの独身者で、1人暮らし。
傍目には変わった人。
人間らしい普通の感覚というものがわからないが故に
周囲の人を模倣することで生き延びるしかなかった女性。
マニュアルを遵守し
コンビニで働くことは
彼女を「人間の枠」に容易にはめ込んでくれる。
そんな彼女の半生と日常と
その生活のほころびが描かれていきます。
女性の一人称で書かれていることもあり
彼女の感覚に怖さを感じながらも
そのフィルターを通した
「普通」の人間たちもまたかなり異様に映ります。
「普通」って何だろう。
どう生きれば
自分の人生を他人に蹂躙されずに生きられるのだろう。
彼女の同僚だった男
白羽の言葉に共感を覚えます。
この小説
私にはひたすら気持ちが悪く
どう決着を着けるのか
最後だけを目指すように1度目は読みました。
2度目は
主人公の周囲の人間たちの醜悪さに
私もまた自分の人生を
赤の他人に蹂躙され
一方で
他人の心を知らずに土足で踏み荒らして来たのだと
なんとも言えない気持ちで読みました。
この本の何が良いのか全くわからない
そう思っていましたが
そもそも「良い本」ってなんだろう。
ある種の毒でも飲んだように
まだ気持ちの悪さは残っています。
良書が薬とは限らない。
そう思い知らされたのでした。
擬態したつもり
同級生の中で特に親しかった5人とプラスワンの私で集まりました。
カメラ好きな友人の1人が
私たちも持っていない懐かしい写真が満載のアルバムを持参してくれました。
亡くなった友人に、声も話し方までそっくりな彼女の妹さん。
少し痩せて小さくなったように見えたご主人
そして
「あなたたちは元気でいいねえ」
そう言って少しさみしげに座っているお母さん。
皆でアルバムを囲み
懐かしい話で笑い合いながら
私は久しぶりに見た友人達の学生時代の姿を
大人の目で眺め直していたのでした。
同級生としての彼女たちは
クラスの中では幼くいつも楽しげで
優等生は1人もいない。
賑やかで
安心安全な人たちでした。
今こうして若い頃の彼女たちの写真を見ると
危なげのない
育ちの良いお嬢さんのグループだったんだなと思います。
亡くなった友人は
騒がしいグループの中では口数は少なかったけれど
「リアクション芸」と呼ばれた
愉快な反応をする聞き上手な人でした。
女の子というものは
グループになると
似たもの同士というよりも
自然にその中で役割分担ができるものなのではないかと思います。
自己主張が少なかった彼女は聞き役で
それもすこぶる優秀な聞き手だったのです。
私は彼女達と
長く同じクラスにいましたが
全く相容れないグループにいたこともあり
個人的に親しかった彼女が亡くなった今も
こうしてどの集まりにも呼ばれているのは
本来不思議なことでした。
彼女がいたから
卒業してもずっと
私たちは繋がり続け
彼女がいない時も
親しく付き合うようになっていたのです。
この「元お嬢様」方の人生も本当に人それぞれ。
どう擬態しても
本来彼女たちと私には
取り立てて共通点は無く
知らぬうちに聞き役になるのです。
大人になり
噂話や悪口を
潔く話題にしない彼女たちと一緒にいることは
女性特有の話題には
興味を持てない私にも居心地が良く
亡くなった友人も
いつもこんな風に皆の話を聞いてたな。
もしかしたら
彼女が私と不思議に気が合ったのは
全然違う私たちは
半周回って
似たところがあったからかもしれません。
尖ったものへの憧れと
優しいものへの渇望と
こんな風に擬態しつつ
浮かないように空気を読もうと頑張る私を
彼女なら
チラチラ目配せしながら
笑ってくれると思うんです。
「尻尾、隠せてないよ」って。
//////////////////////
さて
私たちの年頃が数人集まると
大抵話題になるのは
親の介護
そして
お墓の問題
これらは
話題の重さに比べて
意外に当たり障りがありません。
一般化して無難に語れる共通の話題が
もはや介護とお墓だなんて
なんてこったいって感じですよね。
ふと我に返るのはこういう時です。
ある日、家に帰ってきた息子が
YouTubeでひろゆきの動画を流しながら
少年漫画を電子で読んでいる私を見て
「お母さん、萎えるからそれはやめて」
なんかこう子どもとして
ガックリくるものがあったようです。
そんな私も
間違いなく
介護とお墓問題から逃れられはしないんですよ。
でも
華道やプロ並みのお料理
着付けや宝石。
仕事においては昭和の価値観を持ち続ける友人達。
皆が嗜むその何ひとつとして
自分の興味の範ちゅうにないという
この居心地の悪さを持ったまま
私はどこまで擬態できるのでしょうか?
「絹の雨降る頃」
富安陽子さんは児童文学者。
「まゆとおに」シリーズが大好きでした。
まゆは力持ちの女の子でしたね。
日本版「ピッピ・ナガクツシタ」みたいに飄々としてカッコいい。
さてこちらのエッセイ集
「さいでっか見聞録」は多分絶版ではないかと思います。
この季節
中学校のボランティアグループでは
この本の中から「絹の雨降る頃」を読み語りの時間に読んでいました。
息子が中学を卒業した後も
ボランティアの読み語りは続けていましたが
多忙になりここ数年
中学校からは足が遠のいていました。
「絹の雨降る頃」は
亡くなったお婆様と一緒に漬けた梅酒の琥珀色が目に浮かぶような短いエッセイ。
6月〜7月にはピッタリで、好きな演目でした。
数年ぶりに読み語りボランティアに復帰することになり
今回このエッセイを読むというので
久しぶりにこのページを開きました。
練習してみると
どうにも涙腺が弱くて
大往生だったお婆様の葬儀のシーンで声が詰まります。
今週末は少し早い友人の一周忌。
久しぶりに読む「絹の雨降る頃」に、どうしても1年前のあの日を思い出さずにはいられません。
泣かずに読むことができるよう、しっかり練習しなくては。

/////////////////////////
1年はあっという間でした。
これまで生きてきて
「喪う(うしなう)」の言葉の重さを1番実感したような気がします。
先日
いつもなら大人数になるランチに
コロナ禍でもあり3人だけ集まりました。
彼女と1番親しかったYちゃんが
彼女の家族から形見にと渡されたバッグを持って来てくれました。
「同じ(ブランドの)シリーズ!」とあの日笑い合った
シックな色のバッグが置かれた席。
その空白の大きさに
改めて打ちのめされるようでした。
友人の嫁ぎ先のお墓の場所を知らない私たち
次からはお墓参りができるよう
皆で場所を伺って
彼女が好きだったお花を供えに行こうと思います。
追われるように読んでいる
特に頭の中ですね。
備忘録として
何が散らかっているのか書いておきましょう。
所謂読みかけの本が雪崩を起こしそうなのに
スケジュール、
特にここ数年無かったような
外に出かける用事が増えている結果
頭の中の整理が追いつかず
とっ散らかっています。
年々本が読めなくなっていますが
内容を消化できないのが1番の困りものですね。
以下
勝手で乱暴な感想です。
まず
「生きるためのフェミニズム パンと薔薇と反資本主義」堅田香織里/タバブックス
いいんですよ。たくさん勉強されて時に生活を共にしながらの研究乙ですよね。
英語もお得意なんでしょう。
書いていらっしゃることはごもっともなのに
書籍として読むのが辛い。
「少しは言葉遣いをお考えになられては?」と言いたくなるんです。
小説の中の山田詠美じゃないんだから。
「あと少し、もう少し」瀬尾まいこ/新潮社
「その扉をたたく音」瀬尾まいこ/集英社
「52ヘルツのクジラたち」町田そのこ/中央公論新社
この3冊、すごく良かったんです。
泣けます。
でも主要人物の年齢への違和感で最後まで熱中できず。
「あと少し」は中学生にこの自己分析力は無いよね
「その扉を」は逆で30男の精神年齢の低さに慄きますし
「52ヘルツ」の52の年齢はもっと主人公と離しておかなくてはあーた、
彼らにとって新たな火種となりうるんじゃありませんの?そうなりゃ悲劇。
お陰で私のような斜めな人間には
ラストがまるでローズマリーのアレみたいに思えて仕方ありませんでしたよ。
せっかくの感動ものでこんな感想抱かせないためにも
無理のない年齢設定、大事ですよね。
「塞王の楯」今村翔吾/集英社
これはね、声に出して読みたくなる本です。
キレッキレで読みやすく美しい。
ストーリーとしても戦国の世が終わり、安土桃山辺りから走り始めるという時代
「お城の石垣」を作る職人の話をこの長さで。
鉄砲や大筒の攻撃に、石を積み直しながら城を守るだなんて。
そんな戦いがあったのかと驚きました。
主人公匡介の名も「王を守る」なんですよね。
史実とフィクションが上手く、痛快に融合されているので読んでいて笑ったり泣いたりキュンとさえするっていうね。
歴史物初心者にも敷居が低くしてあるのが嬉しい。
そして京極高次のキャラクターよ。。。最高です。
読ませるなぁ。
「1984年」ジョージ・オーウェル/早川書房
イギリスで「持っているのに読んでない本」の1位になったらしいのですが
さもありなん。
「今」読む本としては最悪でした。
これをディストピア小説と括るなら
私たちの世界は既に「そう」なってるってことなんでしょう。
特に「附録」の「ニュースピークの諸原理」。
日本語の場合すんなり当てはまるわけではありませんが
「言葉」はそのまま「考えること」なんですね。
大切にしたいものです。
この附録を読んでいる最中に
2008年に書かれた新書のタイトルに惹かれて読んでしまったのがこちら
「パソコンは日本語をどう変えたか 日本語処理の技術史」YOMIURI PC編集部/講談社
これはよくよく考えると
そうだわ〜
心当たりのある話ばかり。
なんとなく同世代と昔話に興じる感覚になりながら
パソコンや携帯が
私たちの「言語生活」をどんな風に変えていったか
この頃でさえまだVISTA
そういう時代錯誤な感じはありつつ
興味深く読みました。
知らぬ間に
言葉が変わり
習慣さえも変えてしまった
情報化社会。
こういった参考書的な本と合わせて読んでも
オーウェルの本は
設定を理解するだけでも大変なのに
小説としてのディテールに優れているのが凄い。
そこはかとないユーモアに通じるもの
生活感
恋愛(と呼べるなら)の儚さ肉欲の業。
自分の足元から信じていた世界が崩されていくような。。。。
予習派
少人数の「読書会」なるものに参加することがあります。
書店さんや主催者によってやり方もメンバーも様々で
行くたびに刺激を受けて帰って参ります。
昨年末は遠征して他県まで出かけ
駅ビルの書店で1日遊んでそこの読書会に参加して
隣接のホテルで一泊し
そのまま駅から一歩も出ずに新幹線で帰って来たりしました。
そんな私が今回参加するのは
「映画シン・ウルトラマンの批評会」
知人が1人参加するくらいで
あと数名の参加者がどんな感じなのかも気になりますが
何より皆様の「特撮愛」がどのくらいなのかが全く掴めませんので
予習をしかねて考えているところです。
そう
私は完全予習派で
勉強はともかく
イベントごとには
できる限り予習して行きたい。
YouTube動画で次々上がってくる
「ネタバレ解説動画」を観てから行くべきなのかどうなのか
まだ迷っています。
でもねえ
「批評」って言っても要するに「遊び」なので
知らないことが多すぎて
いっそ思い切りトンチンカンでも良いのではと思ったりもします。
リアルイベントじゃなくても
今回の「シン・ウルトラマン」に関しては特に
ブログ記事やコメント欄を読ませて頂くだけでもこんなに楽しいんですから。
会場ではお茶しか出ませんし
私も普段は全然飲めない方なのですが
このイベントだけは
ちょっと酔っ払って気楽に参加くらいが私には丁度良いのかも。
なーんて、
仕事終わったら会場まで車で走りますけどね。
記憶は錯綜する
「仮面ライダー」の
しかも初代からV3までをバンバンホーム画面に表示し始めました。
もちろん拝見致しました。
懐かしいというより
それこそ1回きりの初見以来
初めて観たんです、多分。
「仮面ライダー」第一話の本郷猛の若いこと。
最初の戦闘員(名前も定かじゃありませんが)みたいな彼らは
網タイツのお姉ちゃんが主だったとか
良いとこの子女(緑川博士のお嬢様ですね)が「スナック」でバイトしている摩訶不思議だとか
前々から不思議だったけど
あの赤い「マフラー」は
やっぱりどう見ても「スカーフ」じゃないの?とか
あらあら
これは楽しい〜。
私には哲学的思考とか
物事の核心を読み取るとか深く考えるとか
そう言った機能が装備されていないらしく
いつだってビジュアル重視で様々なものを観ています。
つべの「仮面ライダー」を数時間ずつ数日拝見しておりますと
私が好きだわと思っていたはずの初恋の本郷猛さまと
記憶の中の「仮面ライダー」のイメージには随分な時差がありました。
私にとって「仮面ライダー」はどこまでも1号ライダーなんですが
「ショッカー戦闘員」、主題歌エンディング曲(ソラで全部きっちり歌える)などなどの周辺環境に関しては
完全にV3の記憶だったんですね。
イメージと記憶の差の激しさは
私の初見時の年齢や記憶領域などに左右されているとはいえ
もう全然ウソやん
くらいにイイ加減だということがよくわかりました。
池松壮亮ロン毛ライダーに関しては
私はもう元ネタリアタイ組ですらなく
ちょっと知ってる俳優さんが出てくる
ちょっと知ってた子ども番組(全く子ども向けじゃないですけど)を懐かしむ映画になりそうです。
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ところで
これはあくまでもわからんちんの戯言ですが
「ウルトラ系」(円谷プロ系と言ってもいい)女子のスタイリストさんって
隊員の制服やフジ隊員のヘアスタイル、ユリコさんの私服ワンピースからルパーツ星人のシューズに至るまで
おおおお〜と唸るほど
素敵なセンスをしていらっしゃるなと思うのですが
今回特に初代の「仮面ライダー」を観ていて
次から次へと現れる
「夜の蝶」みたいな女性の服とお化粧センスに
や〜め〜て〜と
喉の奥がヒューっとなりそうでした。
これって
番組専属のスタイリストさん(いるいないは時代によるのでしょうけれど)の違いなのか
監督の好みなのか
かなり番組のテイストを大きく左右する部分ではないかと思うのですが
誰が決めていらしたんでしょうね。
どなたかご存知の方、いらっしゃいませんか?
分類記号367 アンヌとダンの「空想科学的新婚生活」
地域の小さな図書館などでは
「404」の分類記号を目指して行けば大抵そこに置いてあると思うのですが
ものによっては
「特撮」
「漫画」
「映画」
「トンデモ本」の括りで
7類という芸術関連の書架にあったり
児童書コーナーにあることも。
私の目の前にある
「空想科学読本 3」2006年初版は
ちゃんと「自然科学」のコーナーにありました。
レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」などの近くに
この「空想科学読本」の文字を見つけると
「なんで?」
みたいな不思議な感じが致しますが
どちらも自然科学系の評論集といった趣きの本ですので
大まかに言えば仲間です。
「トンデモ本」とは一線を画す分類をされている
という一点において
安心して読める本だと思っても
そうトンチンカンでもないのではないでしょうか。
さあ、回りくどい言い訳をしながら
いい歳をした私のようなものが理科雄先生の本を
今9冊ほど
書架から引き抜いて
ニヤニヤしながら読んでいるのは
もちろん先日の
「シン・ウルトラマン」の流れです。
ちなみに「地球を狙う宇宙人はなぜ日本にばかりやってくるの?」とか
「ウルトラマンはなぜ最初からスペシウム光線を撃たないのか?」などの疑問に対する理科雄先生的見解は
「空想科学読本 12」【科学で解けない超難問】編にあります。
この巻おすすめです。
残念なことに
映画の中で神永ウルトラマンが読んでいた「野生の思考」は書架には無く
買おうと思えば5000円超え。
どうせ読んでも寝落ちしそうだし
とりあえず今日は理科雄先生で行こう、と思ったわけです。
さて「空想科学読本3」です。
目次を見ると早速女子の心にヒットするタイトルが。
第1部○愛と友情の科学的真実
「ヒロインの正体」
>ハイジの大ブランコは、ジェットコースターより怖い!
>北島マヤが努力するほど、演劇への道は遠ざかる!
>美少女ラナと喧嘩したら、たぶん絶対に勝てない!
そして
>ウルトラセブンを愛したアンヌを待つ悲劇の新婚生活!
楽しそうでしょ。
ハイジ、マヤ、ラナの御三方はとてつもない怪力で途方もなく体力がある話なんですけど
その子20歳。。。にもならない
18歳のアンヌ隊員。
あの時モロボシ・ダンもといウルトラセブンの体調が良かったら
そういう前提で理科雄先生はダンとアンヌの新婚生活を語ります。
ダンの中身はウルトラ星人ですから、家庭では寛ぎたいだろうということで
その実17000歳、身長40メートル、脈拍360、血圧400、体温90度のウルトラセブンと結婚すると
年齢差、体格差、その他の生物学的違いによってアンヌは大変な目にあう上
「自分の3,000倍の勢いで老いていく」妻と暮らすセブンの方が可哀想だという話になっていきます。
もし子どもに恵まれたとしても
遺伝子学的にどちらの遺伝子が強く出るのか分からない以上
妊娠そのものがアンヌにとって命がけ。
とはいえ
セブンがありのままの姿で寛ぎたいなら
仕事帰りに大きくなって
宇宙の空気を吸いに出たりしながら
(宇宙の空気についてはダン言うところの「西の空に明けの明星が昇る」みたいな?)
地球人「モロボシ・ダン」として普通に結婚生活を送り
遺伝子操作かウルトラ星人による代理母出産を選べば
アンヌは案外幸せに暮らせるわけよね。
そもそも
結婚生活って
やっぱり基本
奥さんに合わせた方が
上手く行くんじゃありませんか?
アンヌ隊員が女性の地位向上に目覚めないとも限りません。
そうなると
この「空想科学読本3」だって
7分類どころか
3類社会科学
分類記号367「家族関係・家族問題」
に入れてもいいんじゃ?
「現実を生きるリカちゃん」
CG感を感じさせない
そこにあったのではないかと思います。
あの「機関車トーマス」が
本物のミニチュアからCGアニメになった途端
魅力を失ってしまったように感じたことを思い出すと
庵野監督作品には
「特撮」という技術の良さを損なわない撮影の工夫が
随所になされていたのだろうと思います。
映画館で怪獣が山を突き破ってドーンと出てくるシーンを観ながら
私の脳裏には
YouTubeで人気の
「現実を生きるリカちゃん」が浮かんでいたのです。
こちらのYouTube、
食玩などのミニチュアや手作り品などで作ったセットに
あの「リカちゃん人形」をOL設定でリアルに登場させます。
単によくできてる!というだけでなく
意外にだらしなくて案外モテない「現実を生きるリカちゃん」が
世の女性達の共感の嵐を呼んでいるのだと思います。
これをウルトラ怪獣のソフビ人形でやったら
「ウルトラゾーン」や「ウルトラ怪獣散歩」並とは言いませんけれど楽しそうです。
ウルトラマンと怪獣をちゃんと戦わせる方向でやるとなると
もちろん大変ですが
手作りの東京タワーや街並みのミニチュアをカラーボードなんかで再現したり
それを思いっきり壊した時の素人ならではのシャビーな感じを
携帯のカメラで撮影。
もうすでに何処かにそういったチャンネルがあることでしょう。
子どもの頃
「ウルトラマンと怪獣のお人形を買って」
と正直にねだったばっかりに
倍返しのように姉のお下がりとは別の新しいリカちゃんと
リカちゃんハウスを揃えて縁側(私の遊び場だった)に置かれ
「これじゃない」と泣きましたよ。
根負けしたのかその後
確かウルトラマンの他にカネゴンとバルタン星人は買ってもらったと記憶していますが
ソフビで一緒に遊んでくれる友達がいるはずもなく
怪獣達用の「ウルトラハウス」だってないわけですから
夜は自分の布団の横にハンカチのお布団を敷いて
彼らを寝かしつけて遊ぶしか
私は怪獣との遊び方も知らなかったのです。
怪獣が破壊する街並みがどんなに本物らしく見えたって
あれが作った物だとわかるから安心して観ていられたんじゃないでしょうか。
あんな姿の怪獣だって
中には人が入ってるんだもの怖くない。
怖いのは怪獣から逃げ惑う人々の姿の方でした。
そういえばパロディーで現実を生きるショッカーの短編小説もありましたよね。
皆人それぞれに感じる郷愁があって
そこに上手く現代を被せて構成すると
「現実を生きるリカちゃん」や
「シン・ウルトラマン」のような
楽しい大人の遊びになるんじゃないでしょうか。
「シン・ウルトラマン」
禁断の「シン・ウルトラマン」
昨日、コメントに山本耕史さんが演じたメフィラス星人のことを書いて下さった方がいらして
居ても立っても居られなくなりました。
だって「色気も品もある妖しく怪しいオーラの持ち主」って書いて下さってるんですよ。
この上ないメフィラス星人の晴れ舞台じゃありませんか。
そこで
「斎藤工さまが中の人な、お色気ウルトラマンなんか観れない!」って書いた側から
コビトにかかって以来余計に加速した
「人混み怖い病」を踏み倒す勢いで
近所のTOHOシネマズまでひとっ走りして参りました。
いやー大満足です。
本当に面白かった!
私が面白かったと書く時は
=「ツッコミどころが多かった」の意ですよ。
以下
今観てきたばかりで
縦横無尽に好き勝手書いてますから
間違いも勘違いもネタバレも多々ありますことよ。
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始まってしばらくは一生懸命観ていたんです。ちゃんとね。
タクミさまは人間臭さを封印されておりましたので
私のカラータイマーも点滅せず大丈夫。
で、最初の怪獣が現れた時
西島秀俊さんが
「あいつ電気食ってんのか!」って叫んだ途端。
思わず笑ってしまって
ああ、これ「きのう何食べた?」のまんまシロさんじゃん
そう思ったら
これはシンゴジと同列にして正座して観なくても良い映画なんだと肩の力が抜けました。
多分シンゴジの存在が大きくて
あれを基準にあれもこれもきちんと観なくては、ってどこかで思っていたのでしょうか。
俳優陣がこぞって説明する内容は適度に聞き流し
長澤まさみさんのあのヒールが7センチか10センチなのか(それにしてもあのヒールは細かったですよね)の判定ができないまま
長澤さんが出動の度自分のお尻叩いたり(そんな地球人女子は一体もいないと思う)
タクミさまに匂い嗅がれたり(ここはドキドキでした)
説明台詞の他ではIQが下がる設定だったのか、後半びっくりする程語彙力の無さを披露するところとか、
内心本当はどう思ってたんだろうとか
あのシーン、キングコングとジェシカ・ラングだと思えばいいの?オマージュなの?とか
この手の作品、女子メンバーの扱いについては相変わらずですねだとか
脳内総ツッコミでずっとニヤニヤして観てきました。
タクミさんはウルトラマンと合体前合体後の違いをもっと出しておかなきゃならなかったですよね。
なぜなら銀色の初期化ウルトラマンの口角の皺造形(しっかり年齢出して来た)が余りにも良くできていて勿体なかったから。
それにしても
メフィラス星人は素晴らしかったですね。
宇宙人の姿になっても本当に美しかった。
山本耕史さんのキャスティングはコメント下さった方の仰る通り「これ考えた人天才」だと思います。
これで後、竹野内豊さんの正体が実は青いゾーフィーだった!とかだったら最高だったんですが。
造形と言えばザラブ星人もチラチラ見える後ろ姿がすっごくよかった!
ウルトラマンも、振り返る姿とか斜め45度(?)の角度、効果的でしたよね。
ただ人間に関しては下からのアングルが多すぎて
あんなに豪華なメンツなのに二重顎率の高さにげんなり。
特にタクミさまの二重顎には撮った人の美意識を疑いましたよ。
外星人たちと山本耕史さんだけはカメラワークも美しかったですけれど。
それにしても
ウルトラマンはそれほどアレコレ葛藤した様子を地球人に見せないままでしたね。
浅見分析官との「バディ」って言葉がこんなに空回りするならその設定無くてもよかったんじゃ?
地球人を知るために一生懸命読書はされていたようですが(図書館?のショットは素敵でした)
最後のゾーフィー(あれ発音ゾフィーでよくないですか?)との会話でやっとこさ
彼の秘めたる思い、納得させて貰えましたけれども。
ウルトラマン自身のフォルムはとても綺麗で
動きは軽やかで
ズッシンドーンって砂煙も少なくて
スリムで美しかったですね。
タクミさまと一体化してラインがレッドになってからは
お顔(特に下唇にあたる辺り)が見事に「タクミさまの造形」に変わってて良きでございました。
地上ではあんまり戦うことのなかったウルトラマンが
最後のゼットンとの戦いで
まるで受精卵のようになりながら別次元に突っ込んで行ってからの映像は本当に素敵でした。
何しろ使われる音楽が
TV版からの再録でしょうか
懐かしくて心地よくてめちゃくちゃ良かったんです。
なんかこう、ゾーフィーとの最後の会話は
かなり年寄りの胸に響きましたし。
ある種の神話(光瀬龍の百億の昼と千億の夜でもいい)とか2001年とかで経験した感覚が呼び起こされるには十分。
映画館のシートはかなり埋まっていて
私くらいの年代の人ばかりが多く
この映画は元々
「よい子の楽しい怪獣映画」ではなかったのですね。
コメント下さったりほ様、本当に観て来てよかったです。
ありがとうございました(^^)
2番目の男
実は私
シンなウルトラマンが
「斎藤工」さまと知った瞬間から
この映画は観ることができまいと
諦めておりました。
「ウルトラマン」の「中の人」が
「斎藤工」さまかと思ったら
とてもじゃございませんが
私のカラータイマー(シンのお方には付いていないそうですね)が点滅し過ぎてドキがムネムネになること請け合いで。
だってキューティーハニーを藤原紀香さんが演じるようなものでしょ?
無理です。
だってツッコミようがない。
面白おかしく語れない作品なんて既にサブカルではなくど真ん中なわけでしょ。
あの「ウルトラマン」を素敵な俳優陣で固めて
「どうだカッコいいだろ。主題歌だってわかってる感じだろ?」って出されちゃったら
。。。。。。
ということで矛先を変えて
なかなか書けずにいて
多分今後もきちんと書き残せないであろう
「私のジョー」についてちょっとだけ日記を書いておきましょう。

「ファンタスティックTVコレクション 科学忍者隊ガッチャマン」
「ベルクカッツェ」と「あしゅら男爵」あたりが
私のジェンダー意識の芽生えではないかと考え始めた辺りから
何か資料がないものかと探していて買い求めた本ですが
手に入れたのは
カッツェより「コンドルのジョー」への愛が詰まって重いことこの上ないこのムック本でした。
コンドルのジョーといえば
私にとっては紛れもない
「昔愛した男」の1人でございましたよ。
多分仮面ライダー1号の次くらいの。

カッコいいざんしょ?
この本、表紙にはババーンと大鷲のケンの顔がアップになっていますけど
文字起こしされた「地球消滅0002!」の巻なんて
写真はカラーで
ほぼ台本載ってて
その勢いで「コンドルのジョー ストーリー」まで読んでしまったら
メカイラスト集なんてぶっ飛びますから。
あらためてこの「2番目の男」が
どれほど愛されていたのかがよくわかります。
センターより2番手。
この辺りが「推す」には丁度良いのかもしれません。
例えば
「力石徹」さんとか
「岩清水弘」さんとかとはちょっと違って
坊ちゃん臭さの代わりに
母性本能が非常にくすぐられる感じ。
そう、松任谷由実さんが歌ってましたね。
「あなたは素敵なダウンタウンボーイ」と。
あれですよあれ。
無理を承知で水戸黄門ワールドで言えば「風車の弥七」ポジションでしょうか。
wikiによれば日系イタリア人だったそうなんですけどね
でもラテンというよりちょっと不良な。
2番目の男。
G 2(ジーツー)は私にとってRCのゴンタ2号さんなので
ジョーをG -2表記には致しませんけれど
残念ながら
彼の本名は「ジョージ浅倉」だったというので
いいんです、2番目の男、コンドルのジョーでいきましょう。
コンドルのジョーは身体を張って地球を救ったわけですが
彼が愛したのは家族同然の忍者隊の仲間
とりわけ白鳥のジュンでした。
ジュンのケンを想う気持ちを知ってなお
彼らの幸せを願って散っていった。
まあ子どもだった私に彼らのトライアングルが理解できたわけもないのですが
当時から
「なんだかこの人カッコいいのに可哀想でキュンとする」
これだけはわかってました。
「大鷲のケン」タイプを追いかけて止まない人もいますので
「センター」や「王道」が好きな女子が主流であろうことは承知ですが
世の中には私のように
「次元」や「五右衛門」系が好きな輩も現存します。
ましてや
「ダウンタウンボーイ」を前にしてご覧なさい。
私だってプリンセスにはならなくても
「アップタウンガール」くらいにはなれるんです。
何より
「男が惚れる男」
これが2番目の男。
センターは世間一般の「推し」でいいんです。
自分だけの
自分しか知らない
人知れず思い人をセンターに託し
皆のために死んでいく
可哀想に見えて実は美味しいところはガッツリ持っていく
そんな
2番目の男。
コンドルのジョー。
「メタモルフォーゼの縁側」で
来月には宮本信子、芦田愛菜主演で映画が公開されるそうですね。

宮本信子さんが75歳の書道教師 市野井雪さんを演じるそうです。
これは楽しみ。
原作は全5巻完結。
この作品には
あらゆる対比が描かれていて
そのどちらも尊く美しいと思わせてくれる。
それが読者に涙を流させるんです。
75歳と17歳の2人がbl漫画を通じて親しくなり、
それぞれの日常が動き出します。
死ぬまでにあと何冊の新刊を読めるのかをふと考える75歳のリアル。
市野井さんの「老い」を17歳視点のコマで見せていくのですが、
コミュ障高校生の目に映る世界の描き方がとにかく上手い。
高校生うららは自分の気持ちをなかなか表に出せない地味な女子。
離婚して別々に住んでいる父親と定期的に会う取り決めになっているのですが
お母さんは自由な頭の持ち主なのに対して
お父さんはカッチコチ。
この対比も切なくて面白いし
うららの内向的な感じが
家庭環境を差し込むことで
自分のことのように引き寄せて感じられます。
歳の離れた2人を繋ぐ漫画をただの漫画にせずに
「bl漫画」にしたところも秀悦。
まあ表立って人には言えない種類の物ですからね。
「秘密」の共有にはもってこいなんです。
本屋でバイトしていたある日
うららが目にした
多分内容を知らずに
bl漫画を買って行ったおばあさん。
自分の好きな作家の漫画でまだ連載中。
後日そのコミックスの続きを買いに来たおばあさんが
うららはとても気になるんです。
この作中漫画
bl作家で人気の「じゃのめ」さんが描いたそうで。
普段の「じゃのめ」さんの作風とは違って
とても優しい絵柄になっていて
作品の中で作中漫画も完結するという趣向。
うららと市野井さんはこの作中漫画「君のことだけ見ていたい」を通じて
年齢を越えた友情を育んでいきます。
それぞれの新たな「変化」を糧にしながら
「これから」のうららと
「残り少ない」市野井さんと
一方うららの幼なじみのイケてる男子には
可愛くて優秀なガールフレンド。
地味なうららとリア充カップル。
その対比は単純じゃありません。
この辺り
目線が変われば世界もひっくり返るほど
見た目とは違う何かをそれぞれが抱えている。
市野井さんとうららが大好きな漫画家のエピソードもじんときます。
コミケ、同人誌、
描く側読む側が交差する時間と場所と。
この対比は曖昧で
読み手がある日描き手になり
描き手もまた読み手であるという
当たり前のようでいてグッとくるところですね。
いつか後日談が出ると良いな。
うららが大人になった姿を見たい。
思い出になった(であろう)市野井さんとのその後のエピソードも。
「桜の森の満開の下」
電子漫画サイトで一巻無料で読めたので
朝6時から(この辺ねwww)読んでおりました。
絵面に疲れますけど面白かったです。
あくまで個人の印象ですが
昔の少年マンガには
「癒しのお姉さん」がいましたが
今はどちらかと言えば「ハイスペック妹」に萌えるのかな。
昔も今も少年マンガの美少女キャラって
恥ずかしさで正視できない。
岡田斗司夫さんの解説による宮崎駿の女性観を考えると
その点ジブリ作品の
「怖くて美しい、でも好きにならずにはいられない」(大意です)
そういった女性への意識が
子供向けアニメとしてきちんと成り立っている凄さに慄きます。
女の私が観ても恥ずかしくならない愛すべき女性キャラ達ですね。
さて昨日。
ふと手に取った坂口安吾の文庫本「堕落論」。
このところ個人的に梶井基次郎がブームだったので(オススメは乙女の本棚シリーズ)
桜繋がりで(コビトのせいで季節が進んでない)
「桜の森の満開の下」を読むことにいたしました。
キレッキレですよね。
出だしから声に出して読みたくなる口上的オープニング。
「羅生門」とイメージが重なる部分もあるのですが
ものすごく現代的なんですよ。これ。
今ではよくある花見のどんちゃん騒ぎと違って
誰もいない桜の花の下に来ると怖くなって気が違いそうになる。
花が咲いていない時期は何でもない。
花が咲いている間の桜の木の下が怖い。
そういう話が繰り返し出てきます。
1人の山賊が人を殺しては物を奪い
男達の妻を奪って
気に入った女ばかり7人も自分の妻として家に置いていました。
ある時8人目の女房を男から奪った山賊は
「いつもと勝手が違う」と感じつつ
めっちゃ美しい女を連れて帰るんです。
まあこの女、美しいからといって好き勝手の言い放題。
自分以外の6人の女房を山賊に殺させ
残した醜い女を女中にして
都で暮らしたいと皆で引越します。
女は元々都の出であるらしく
「着物」と「装飾品」そして「食べ物」にもうるさい。
女が山賊に都の貴族や著名人の首を奪って来させ
その首で人形遊びをする様はたしかに異様なんです。
美しい娘、綺麗な男
身分の高い者たち、醜い男達の首。
自分が手に入れることの出来なかった美しい物、富。
或いは失ってしまった若さと愛情への執着。
自分をこんな風にしてしまった(山賊も含めてね)男達への憎しみ。
女の「首遊び」はまるで復讐のようですよね。
で、この女に「母親」の視点が無いところがまた面白い。
あくまで1人の女なんです。
一応この日記に何か書くときには
自分が書いていることに間違いがないか
色々調べて情報元も残しておいたりするのですが
それが最近の日記離れ(ブログ放置)を呼んでいると気がついたので
とりあえず勢いで記録だけ取っておきますので
これはあくまで素人の感想なんですけれど。
桜の花は美しいからこそ山賊にも旅人にとっても怖い。
桜の花の透けるようなピンクの向こうにゾッとするような何かを感じるわけなんですね。
他の花と徹底的に違うのは
桜の花が作るあの圧倒的な美の空間が
あまりにも美しすぎて恐怖と死に直結しているところなんですね。
安吾の桜の美しさは複雑です。
まず都での「食事」。
そして
「首」が象徴する「文化的」な「知識層」が形成する知的交流。
決定的なのは
女は身の回りを清潔にさせ
着物に様々な物を足してひとつの完成品としていく。
これ青空文庫で今すぐ読めるのですが
「ファッション」をこんな風に表現した美しい文章を
私は初めて読んだ気がします。
女が大事にしたのは
櫛(くし)だの笄(こうがい)だの簪(かんざし)だの紅(べに)だの
意味のないような小物を足して完成させた着物、その着物を着た美しい女。
都の暮らしと女のその有りように
知性もない田舎者だった山賊に見える世界は変化していきます。
安吾はこれを「魔術」と山賊に納得させています。
女は次に「インテリア」を持ち込みます。
女は山賊に「椅子」と「肘掛」を作らせ
それに腰掛け、寄りかかり、艶かしい姿を見せるのです。
決して汚い山賊の手を
女はそこに触れさせはしません。
夫を殺し
自分を惨めな暮らしに引き込んだ山賊に
女はこのように
自分にとっての「美」のありようを見せつけながら
斬り返していたんじゃないかと思うんですよね。
その女の生き様そのものが
私には
「鬼」
なんかよりずっと恐ろしくて
何故かというと
着物(ファッション)や櫛(美容家電)や紅(コスメ)
更に木陰の椅子(インテリア)で固めた今の私を
安吾は
山賊に重くのしかかる(背負わせる)
「恐ろしい鬼」もしくは老婆として
見せつけてくるからなんです。
自分が老婆にならなけりゃわからなかった。
ねえ。
オットはどれほど私を怖れていることか。。。
そこにはもう何もない。
「孤独」があるばかり。
解説が好き
とりあえずこれだけは日記に書き残しておかなきゃと思っていたのが岡田斗司夫さんのジブリ解説の件。
前記事で「ファッション系動画観てまーす」と書いたものの
もちろん私の本質は其方じゃありません。
岡田斗司夫さんのお名前は
新書のダイエット本で知っていた程度でしたが
昨年末あたりに
日本のアニメについてざっとしたところを
急ごしらえで頭に入れておかなくてはならなくなり(仕事ですよ)
「ジブリの教科書」を読んでいたら
改めて面白いんですよね。ジブリ。
すごくすごい。
さらにYouTubeで探してみると
行き着いたのがこの岡田さんの動画でした。
この方楽しそうなんですよね、漫画アニメについて語る顔。
聴いていて楽しい。
宮崎駿愛の深さにはもうね、頭が下がります。
さてこの岡田さんが
「崖の上のポニョ」の解説をしている動画で
ポニョと宗介がトンネルに手を繋いで入って行くシーンについて
舞台になった広島の心霊スポット話と絡めてお話されていらっしゃるんです。
ありとあらゆることにお詳しい岡田さんが
このシーンを語る起承転結の「転」に持って来たのは
「ウルトラQ」の「悪魔ッ子」でした。

「トンネルとか線路ってのはあの世への道っていうのを暗示していて」
だからあの絵面はもうあれだけで怖いの?スタンド・バイ・ミーなの?
20世紀初頭「ダイアン・アーバス」という写真家が撮った双子の写真の話。
ググったらやっぱり怖い。
映画「シャイニング」に見られる双子の映像で私たちが感じる怖さ。
たしかに私、あのシーンでDVD切った。
そこを踏まえて「悪魔ッ子」の線路上を歩く2人(実際はリリーという少女の精神体と肉体らしいのですが汗)
「怖い」と感じる感覚の底にある無意識
無意識の中に潜む意識の澱。
「ポニョ」において
宗介が嫌がるポニョの手を取って
トンネルを越えさせようとする
これはポニョというより宗介の試練なんだそうですが。
なんの気もなしにそこから受け取っている「印象」も
解説されるとこんなに面白い。
岡田斗司夫さんの解説動画は観て頂くのが1番。
「千と千尋」や「もののけ」解説は特に面白かったと思います。
まだ未見の方は是非。
- Thank you